文字数: 5,157

スローリー・バット・シュアリー



 僕の好きな人は時間に律儀だ。

 ピピピ……絶妙な加減で人間にストレスを与える軽快なアラームが部屋に響く。自分で意識しないうちに鼻にかかった妙な声が出る。部屋の中央に居座るリクライニングの椅子に背を預けたまま目を開けた。またベッドに戻らないまま寝てしまったようだ。慣れてはいるが、体にはやはり負担がかかるものらしい。凝り固まった筋肉をほぐすようにゆっくりと体を起こした。窓から入る陽光は部屋を光と影の半分ずつ丁度に区切っている。その中心あたりに居るバーナビーは、前髪をかき上げつつ目を細めた。眩しい。

 真冬であれば朝陽が冷気にぼかされて薄暗い空気が床を這っている時間だが、最近ではもう太陽が夜の冷気を早々に振り払ってしまっていた。季節がまた変わる。バーナビーは、そんな些細な変化に気づく自分が時々自分だと信じきれないような、妙にむずがゆい気分になる。あくびを噛み殺してのそのそと洗面台に向かった。時間は刻々と消費される、人々に不平等に分配された財産だ。

 身なりを素早く、かつ入念にチェックする。髭の剃り残しは無いか、髪に乱れは無いか。市民の安全と期待を遵守するヒーローに、一分の隙も許されない。何か目的のために手段を徹底し尽くすことは、二十数年のうちにバーナビーの性根に染み付いている。ただ、せっかくならば、なるべく一番良いところを見てほしいと思っている事実は否定しない。チェックを終えて、鏡の向こうの自分に首を竦めて苦笑する。

 貴重品だけを手に取って部屋を出る。時計を確かめたが特に焦る必要は無い。いつも通りに歩いていけば充分に間に合う時間だ。エレベーターで降り立つ地上はすれ違う人影も車影もまだ少ない。パステルカラーの青空と朝陽を背にのんびりと歩を進めた。住民の気質なのか、ゴールドステージに元から住む人間の多い時間帯は、声をかけられるどころか目を留められることも少ない。

 いつものカフェのテラスに座る、とすぐに店員が寄ってきてエスプレッソのカップを置いていった。カップを傾けながらスタンドで買った新聞を読む。気になる大きな記事を流し読んでいれば5分などすぐだ。そろそろだろうか。新聞を畳んでサンドイッチを二種類注文する。一方は前日と変わらず卵とトマト。一方は少し考えてチキンサラダにした。店員の背を見送ると、その先にある時計が7時丁度を指している。通りに目をやると、レトリバーに引っ張られるように男が走ってきていた。バーナビーと目が合った途端、目元と口元に笑い皺が刻まれる。

「おはよう!そしておはよう、バーナビー君!」
「おはようございます」

 今日も朝からジョギングを終えた後なのだろうが、相変わらず眠気や倦怠感とは無縁の人だ。彼が朝の空のような目を下方へ移すと、愛犬はそれだけでバーナビーの足元で伏せをした。

「いつもと同じで構わないんですよね?」
「うん、ありがとう。もう空腹で死んでしまいそうだよ!」

 陽気に笑ってキースはバーナビーの正面に座った。透かさずテーブルにはミルクのグラスと2種類のサンドイッチが並べられる。キースが爽やかな笑顔で礼を述べると、丁寧ながらやや愛想に欠ける店員までもが笑顔になった。それが遠ざかると、朝陽に柔らかく彩られた笑みがバーナビーに向けられる。

「今日もこうして、君とテーブルを挟んでいるなんて実に不思議な気分だ」
「そうですね」

 きっかけは本当に些細なことだ。いつもより早く目覚め、いつものカフェで新聞を読んで時間を潰していたら、その眼前をキースが愛犬と共に通り過ぎて行った。それだけのことだ。それから数ヶ月、バーナビーの起床時間は一時間繰り上がり、キースは家で摂っていたらしい朝食をカフェで済ますのが習慣になった。

「君との朝食に私は言いたい!ありがとう、」
「そして、ありがとうございます」
「……それは私の台詞だよ、バーナビー君」

 決まり文句に先手を打つと、キースは拗ねたように顔をしかめて見せる。わざとそれに気づかないフリをしてチキンサラダのサンドイッチに口をつけた。君は意地が悪いやつだ、と呟かれたので、それならスカイハイに吹き飛ばしてもらいましょうと返すと、キースは笑みを我慢できなくなったらしい。キースの指が眼前で踊る。風に前髪を揺らされたバーナビーの口元も笑みに緩んでしまった。

「でも、お礼を言いたいのは本当ですよ。朝から元気をもらっているような気分です」
「そうかい?……そうだったら嬉しいね」

 くだらないいたずらのために起こっていた小さな風が、キースの瞳の光が消えるのと同時に朝の澄んだ空気へ消えていった。キースは何事も無かったようにサンドイッチを頬張っている。バーナビーの言葉もその口の中にあるのか、いつもより丁寧に咀嚼して目を細めた。

「私はね、バーナビー君。毎日決まったメニューを食べているんだ」
「知っていますよ」

 毎朝同じ物ばかり頼むので、バーナビーが先に頼んでおいて効率化を図るようになったのだ。初めは不思議に思っていたが、余程気に入ったのだろうと気にしなくなった。しかしキースは軽く首を振って見せる。

「体調管理のためにメニューが決まっていて……ヒーローになってからずっとそれに沿った食事を続けてきたんだ」

 スカイハイは、今も1部リーグランキング上位に位置する華々しいヒーローだ。しかしその裏には常に努力と勤勉という言葉が積み重なっている。少しズレていても、仲間内で彼を信用しない者が無いのはそういうところから来ている。素直にすごいですねと漏らしたが、キースはメニューを考えているのは私じゃないよと的外れな返事をした。

「だからね、ここのカフェのサンドイッチがこんなに美味しいだなんて、不幸にも知らなかったんだよ」

 サンドイッチなんて、どこで食べても大して味は変わらない。パンにバターを塗って適当に野菜を詰め込んでおけば虎徹のチャーハンよりもお手軽にできてしまうだろう。バーナビーはこの店だと、どちらかと言えばクロワッサンが美味しいと思っている。それでも毎朝、決まった時間、決まった人の決まったメニューと共に、その日の気分のサンドイッチを食べている。

「私も君に、毎朝元気をもらっている。そして、ありがとう」

 心の中だけを言い訳のような言葉で満たして、実際には何も言わないでいるバーナビーにキースは構う様子は無い。遮られた「そして」以降を取り返せてご満悦のようだ。ミルクを飲み干し、両手を払った。代金をテーブルに置いて立ち上がる。

「もうこんな時間だ!私はジョンの散歩に戻るよ」
「……はい、行ってらっしゃい」

 キースは毎日、綿密なスケジュールを遵守している。それは食事でも例外ではなかったのだ。そういう律儀な正確さが、皺一つ無いシャツのようで好ましいと思う。同僚としては感心する。

「それじゃあまた!また後で!」

 しかしこの瞬間だけは毎朝、それを物足りなく思うのだ。一日一時間ほどの職務とは全く関係ない邂逅が数ヶ月積み重なってやっと運んだ情報を、エスプレッソと共に流し込んでいた。

 私の好きな人は時間をとても大事にしている。とてもね。

「どうだろう、ジョン。どこかおかしくはないだろうか?」

 一度帰宅してから、何とは無しに鏡の前に立つ。普段はあまり気にしないところをしきりに気にする。例えば髪型だとか、口元だとか、服装の汚れだとかだ。ソウルメイトの愛犬は、どうせいつもと変わらないのだから早くしろと急かしている。それはそうだろう、だがもう少し取り合ってくれてもいいじゃないか。このあと会うだろう彼は指先まで整った容姿を崩さない。

「おっと、いけない……遅刻してしまうぞっ、と!」

 キースはコールが入らない限り毎日決まったサイクルを繰り返している。それが最も体に負担を与えないからだ。悪習をひとつやめるよりも、良い習慣をひとつ続けることの方が簡単で効果も大きいだろう。数ヶ月前にそこへ新たな習慣が生まれた。その良し悪しは効果が出なければ分からないが、キースは毎日それを楽しみにしている。ジョンと共に人々の合間を縫う。立ち並ぶビルの隙間から、淡いダークブルーの空が覗いている。光が咲き零れているこの街の夜は明るい。

 通るコースはほぼジョン任せだが、朝も夜も必ず決まったランドマークを通過する。朝がカフェなら、夜は公園だ。噴水の側のベンチにはカップルが腰掛け、楽しそうに談笑している。キースはそれを笑顔で眺めていた。ふと、肩が二度叩かれる。いつの間にか立ち止まっていたらしい。

「こんばんは」
「やあ、バーナビー君!そしてこんばんは!」

 特別な取り決めがあったわけではない。だがここ数ヶ月は、朝は食事を、夜は散歩をバーナビーと共にする。合わせれば一日一時間ほどの些細な時間だが、それをバーナビーと共有しているのがなんとも不思議だ。そして嬉しい。

「今夜はどうするんだい?」

 バーナビーもキースもジョンの散歩と夕飯の買出しを兼ねている。足を止める店も買う食材も全く違うが、それなりに楽しい。よく連れ立って買い物をする女性たちを見かけるが、彼女たちもこういう楽しみを味わいたいのかもしれない。この年になって女性の気持を理解するとは、人生は奥が深い。

「虎徹さんの家へ……」
「そうか!じゃあ何か手土産になる物がいいのかな?」
「いえ……虎徹さんには、料理を教えてもらうつもりなんです」
「料理?」

 バーナビーが言い淀むような素振りを見せるのは珍しいことだ。しかも虎徹と仲が良いのはいつものことだが、今日の用事は一風変わっている。目を瞬くと、バーナビーはふっと笑って見せた。

「まあ、料理を教えてやるよなんて言ってますけど、どうせまたチャーハンですよ。冷蔵庫に大した具材も無いだろうし……先手を打って何か使えそうな物を買っていこうかと。大体あの人は……あ、すみません」

 キースの視線に気がついたのか、バーナビーは慌てて言葉を止めた。何故謝るんだい、少し残念な気持ちで呟く。

「好きなのに」

 バーナビーが驚いたような不思議そうな目でキースを見つめている。その意図がよく分からず、笑みを傾げつつジョンのリードを握り直した。賢いが元気の有り余るソウルメイトは油断するとすぐに自分の行きたい方向へ走り去ってしまう。

「好きだよ、君のワイルド君の話」

 ああ、バーナビーは呟いて眼鏡を上げた。コホンと空咳を漏らして早足になってしまう。何か気に入らなかっただろうか。もしくは照れ隠しかもしれない。キースは虎徹のことを話す時のバーナビーの柔らかい表情が好きだった。できればもう少し見ていたかったくらいだ。先行く背に追いつくと、気を取り直した様子でバーナビーがキースと目を合わせた。

「僕はヒーローに戻ったからには、手を抜きたくないんです」
「うん、知っているよ。そしてよく分かっているさ」

 一時期は虎徹と共に一戦を退いたバーナビーだが、虎徹の2部復帰に続いてヒーローとして戻ってきた。虎徹と力を合わせた活躍は本当に目覚しい。1部復帰も時間の問題だろう。それもこれも彼らの絆とたゆまぬ努力の賜物だ。しかしバーナビーはそうではなくてと首を振った。

「ライバルで、……仲間の貴方が食事にまで気を使っていると聞いて、触発されたんです」

 何故突然料理なんて話になったのか不思議ではあったが、まさかその原因にキースがあるのだとは思いも寄らなかった。つい立ち止まってしまい、ジョンが呆れた視線を送ってきている。慌てて歩き出したが、顔の筋肉が緩んでしまうのはどうしようもない。

「そ……うか」
「さ、もう、行きましょう!」
「そう、そうだね、時間は財産だ。ワイルド君も待っているだろうしね!」

 バーナビーが時々使う言葉は、キースも気に入っているものだ。時間は人間に不平等に分配された財産。だからこそ惜しいし、大事にしていたくなる。キースのように同じ毎日を繰り返すのではなく、バーナビーの毎日には輝かしい財産がぎゅっと詰まっているように感じるのだ。

「別に時間まで決めていませんし、急ぎませんよ」

 だからその財産をキースに少しでも分けてくれるのがとても嬉しい。またも早足になるバーナビーをジョンと共に追った。

-+=