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幸福の匙加減 (パラレル)



 「だからあいつの大丈夫は半分……いや、ちっとも信用ならないって言ったんだよ……」

 救急病院の長椅子で楓と共に気を張っていたところに、虎徹が歩み寄ってきた。顔を上げ目だけで容態を問う二人の勢いに虎徹は大きなため息を吐く。

「大したことないってさ。睡眠不足と栄養不足の不足連発で倒れただけだ。しっかり休んでしっかりメシ食えばすぐ元気になる」
「ほんと?」
「ほんっと。まったく……何のためにウチに連れて帰ったと思ってんだよ、アイツは……」
「ほんと……に、ほんと?し、死んじゃったり……しないよね?」

 泣きそうになるのをなんとか堪えようと、楓が息を詰める。その苦しげな表情に顔をしかめた虎徹は楓の隣に座った。気丈な楓はきっと、人前で泣きたくはないのだ。だがこらえられずに虎徹にしがみついて体を震わせている。

「バニー」

 それをただ楓の隣から眺めていたが、虎徹に名を呼ばれて肩が跳ねた。なんだよ、虎徹は笑って楓と反対側の空間をポンポンと叩いた。お前はこっち、そう言われて最初は戸惑ったが、早くと急かされたので素直に虎徹の隣に座る。撫でるつもりだろう手が伸びてきたので身を引いた。

「おい」
「僕のせいです。僕が、あの人を追い詰めて……」
「いやーありゃあジコセキニンって奴だろ。いい年してバッタバッタ倒れやがって」

 心配するこっちの身にもなれよなあ、虎徹はのんびり呟いて今度こそバーナビーの頭に触れる。それが今更、バーナビーを安心させた。キースはまたすぐに目覚めて元気になれるのか。体の力がゆっくり抜ける。吸い込んだ酸素がスムーズに流れ始める。

「大丈夫だよ。あのバカは生きてる。生きてるんだから、後悔することなんて何も無いだろ?」

 命のあるとこに希望があるって言うだろ、虎徹は笑っているが、目はわずかに潤んでいるように見えた。どこか遠くを見つめていた優しい目がバーナビーに巡ってくる。

「俺の大丈夫は信じていいから」

 何か手元に触れたと思えばそれは涙で、バーナビーの目から零れ落ちたものだった。

 キースは二日も寝込んで点滴を受けていたが、三日目には目覚めたらしい。伝聞になってしまったのは、まだ一度も見舞いに行っていないからだ。行けない、が正しいだろうか。虎徹も楓もバーナビーに無理強いはしなかった。それはバーナビーがこのままではいけないと思っていることを知っているからなのだろう。

「……よし」

 今日はマーベリックとの約束があるためいつものように早退していた。少し早めに学校を出て病院へ寄ることにする。花束は楓がいつも抱えて行っていた。病院の受付まではいつもついて行くので当然知っている。悩んだが、結局はいつもの本を持っていくことにした。病室の番号とそこにある名前を確認する。何度か深呼吸を繰り返した。気道が塞がれている気分だ。ドアは半自動でタッチすれば開くようになっている。往生際の悪い自分を振り切って手を伸ばせば、簡単にドアがスライドした。

「あの」

 意を決して入った病室のベッドはもぬけの殻だった。

 後ろから入ってきた看護スタッフが呆れた様子で多分屋上ですよと教えてくれる。何故だかとてつもなく悔しい。大股で屋上を目指した。出鼻を挫かれたが、おかげで妙な緊張はすっかり霧散している。階段を半ば駆け上りドアをスライドさせた。高い柵に囲まれた庭園を見渡す。思ったより人影は無く、甘い色の金髪はすぐに見つかった。柵際のベンチで空を眺めているようだ。足音を忍ばせるようにゆっくりとその正面に回りこむ。

「……寝てなくていいんですか?」

 キースは丸めた目を何度か瞬いた。驚いているらしい。すぐに表情には笑顔が含まれたが、わずかに目線がずれて行ってしまった。バーナビーの背には太陽があり、その影にキースが収まっている。

「もう一生分じゃないかってくらい寝たよ。そして、怒られた。すごく怒られた」

 キースはしばらくの検査入院を経て、生活指導を受けた上での退院になるらしい。不摂生で出戻りしたことが医者を呆れさせたのだ。しかし、彼を主に叱ったのは医者よりももちろん虎徹である。虎徹はキースの不調に気づいていたが、口で言っても分からないので頭を悩ませていたのだ。そこにバーナビーが現れたので、しばらくは静観することにしたらしい。キースが倒れた日などは実際に見守られていたと言うから、今思い返しても色々と気まずい。

「君は怒らないでくれるとありがたい」
「僕には……その権利も資格もありませんから」

 虎徹や楓、キースにさえバーナビーを責める気は無いようだが、やはりバーナビーにもキースが倒れた責任はあるだろう。結局、またキースに八つ当たりをしてしまったに過ぎない。

「座っても?」
「……君さえよければ」

 キースの正面から移動してベンチに腰掛ける。太陽の光が眩しいが、薄暗い部屋よりこんな場所の方がこの人には似合っているかもしれない。用意していたはずの言葉が出てこない。時折沈黙の隙間を風が通る。太陽の光を受けた金髪が目端で揺れた。

「謝ります」
「え?」
「謝りたいんです。……僕は貴方に謝らなければならない。今ではちゃんと僕が間違っていたと分かっています」

 制御不全としてNEXT研究の権威である施設に登録されている人間が、巨大だと思われる犯罪組織に深く関与していると考えるのは難しいだろう。もちろん巧妙なカモフラージュの可能性が無いわけではない。しかしキースと両親の事件との関係はあまりに希薄で、結びつけるには強引過ぎる箇所が多い。そもそも、能力が制御できないフリだとして、あれだけの騒ぎを起こす意味が無いし、演技であんなに傷ついた顔ができるだろうか。

「冷静になれば……色々、矛盾することも分かっています。だけど僕は両親の仇を探すために生きてきた。探して、探して、探して……でも何も分からない、掴めないということを何百回、何千回繰り返して……!」

 探しても探しても、何も見つからない。やっと見つけたと思った手がかりが、見当違いだったことは今回が初めてでもない。その度に期待して、失望しての繰り返しだ。その期待だって暗いものだ。底なし沼にトンネルを掘っても光は見えない。ひょっとして自分は間違っているのかと思う。でも間違いを優しく正してくれる人はこの世から永久に居なくなってしまった。

「そんなことしている間に……どんどん遠くなってしまう……!僕はあの人たちの息子なのに、殺した奴のことしか考られなくなるなんてもうたくさんだ……!」

 口が勝手に動いているようだった。まるで支離滅裂に言葉が飛び出す。労わるような色の瞳がそんなバーナビーを覗き込んできてハッとする。うつむいていた顔を上げた。

「……すみません、これじゃ謝ったことになんてならない」
「君の両親はどんな人なのかな」

 キースはまるでバーナビーの話なんか聞いていない様子で小さく笑う。バーナビーが答えるまでは動かないつもりらしく、太陽の光をその底で輝かせるブルーの瞳に居心地が悪くなった。やむを得ず口を開く。

「どちらも……研究者でした。ロボット工学の研究で、今も引き継がれているものがいくつかあります」
「それは素晴らしいね。それから?」
「それから……?」

 人を助けるロボットを作るために研究に励んでいた。でもそれは、幼いバーナビーにとってはなかなか遊んでくれないひどい親だった。オペラが好きで、家でもしょっちゅう聞いていて、激しい曲を怖がるバーナビーは笑われた。早く帰ってきてくれた時はベッドに入れてくれて絵本を読んでくれた。今思えばちょっと親ばかで、バーナビーが難しい言葉をひとつ覚えてくるだけでとても喜んでくれたのが嬉しかった。たった4年だったのに、ひとつ零すと止まらない。今ではもう彼らと過ごしていない年月の方が長いのに。

「素敵だ、実に素敵だ!でも、そんなの決まっているね。なんたってバーナビー君が生まれてくるくらいだ」

 バーナビーの言葉のひとつひとつを嬉しそうに聞いていたキースは、ふうと小さく息を吐いた。笑顔のまま薄雲が長く伸びる空を見上げる。

「私は君のパパやママのように世の中の人の役に立ちたかったんだ。能力に目覚めた時はそんなことは無理なのかと思った。多くの人を傷つけてしまったから。けど、うまくやれば誰かを守れる能力だと教わってとても嬉しかった」

 それを教えたのが虎徹なのだろう。虎徹の家を出るまで、キースは虎徹と共に能力を制御するトレーニングに励んでいた。今に至ってもその成果は実っていないが、意識して発動させない限りは暴走もしないのだから完全な無制御状態とは言えないだろう。もう少しでできそうだったんだけどな、キースの能力について説明を求めた時に虎徹は呟いていた。

「でも……私にはそれができなかった。だから考えたんだ。神がお与えになったこの力が使えないなら、そのために誰かを守れないなら、それ以外の私の全てを人のために使おうって。だからコテツ君のところには居られないんだよ」
「……どういうことですか」
「あの家に居たら私が何かをあげる以上にもらってしまいそうだから。君も分かるだろう?」

 内緒話でもするように声がひそめられる。確かにその気持ちは全く分からないわけではない。けれどそれは過労で倒れるまで働き続ける理由にはならないだろう。虎徹は楓を心配させないために黙っていた愚痴もバーナビーに聞かせてくれた。虎徹の家を飛び出したキースは、連絡も取らずボランティアのような仕事をいくつか掛け持って働き詰めていたのだ。病院に身内として呼び出され駆けつけた時は思わず頭を抱えたという。

「……馬鹿です」

 謝罪に来たはずが、声に含まれる温度が思わず下がっていた。不眠症も恐らく、一分一秒でも人のために使わなければという強迫観念から来ていたのだろう。一分一秒も両親のために無駄にしたくないと思うバーナビーのように、いつも何かに急き立てられてやがて重大な見落としをする。そんなの馬鹿だ。

「うん、私は馬鹿なんだ。だからこういう方法しか思いつかない」

 他に方法なんていくらでもあります、そう口に出そうとして失敗する。くしゃ、と音がするような笑みが隣で浮かんだからだ。それはキース自身が自分に呆れ、しかしどうしようもできないことをごまかす笑いだ。

「でもね……きっと、私は誰かを幸せにすることで自分も幸せになりたいと思っていたんだ。誰かと一緒に幸せになりたかったんだよ」

 キースの言葉を聞いていると胸に何か柔らかいものでも詰められた気分で苦しい。キースが自分のことを語っているのに、まるでバーナビーのことを象っているみたいだ。違う、僕はそんなんじゃないのに。半ば睨むように目を遣るとキースの柔らかい笑みが待ち構えている。

「夢でじゃなくて本当に幸せになりたいね、君も、私も。君を幸せにしたいよ、バーナビー君」

 現実に一匙の砂糖を加えられたらいいのに。キースは臆面も無くバーナビーという他人の幸福が、自分のささいな願望だと言う。そのあまりに「キースらしい」着地点が妙に腹立たしくて立ち上がった。キースから顔を逸らす。

「いいんです僕のことは!砂糖の量を自分で決めていいって言ったのは貴方でしょう!」
「だから分量を教えてくれたら、きっとそれだけ君のカップに入れてあげよう」
「じゃあ貴方のカップに貴方の好きなだけ入れてください!」
「それじゃあ……一匙だけ」

 視界にキースの手のひらが入ってきた。その不自然な形はどうやらカップを持つ手の再現らしい。まるで子どものままごとだ。呆れて、病室に戻りましょうと突っぱねようとした。しかし、座ったままの姿勢のキースが、立っているバーナビーと目線を同じくしている違和感に言葉を失う。

「う……浮いてますよ!?」
「えっ、本当だ……!浮いてるね!?」
「どうなってるんですか!?」
「どうなってるんだろう……?」

 そうキースは文字通り「浮いて」いた。ベンチから数十センチふわふわと浮いている。幻覚かと己の視覚と脳を疑いかけたが、キースの目が燐光を発しているのに気がついた。

「でも、不思議だ……風が体の一部みたいだ……!」
「ちょ、ちょっと……キースさん!?」

 風がそよぐ。それに煽られるようにして、キースはふわりと空中に浮かび上がった。その場でくるりと回転などしてみせる。あまりに突然のことに動転し思わず名前を呼ぶと、驚いた表情が返ってきた。随分高い位置にあるその顔が瞬く間に笑顔になる。風が乱れてバーナビーの眼前に手が差し伸べられた。

「行こう!」
「え!?」

 制止する暇も無く腕をぐいと引かれた。重力が体の中に浮き上がってくるような感覚で足が地から離れる。慌ててキースにしがみついたが、思ったよりすぐに足場が安定した。まるで足元に見えない床があるかのようだ。実際、キースの能力に操られた風が空気の床を作り出しているのだろう。

「すごい!そしてすごいぞバーナビー君!私たち空を飛んでるよ!」
「能力、操れるようになったんですね」
「え!?」
「……気づいてなかったんですか?」

 一体何だと思ってバーナビーを引っぱり上げたのだろうか。キースのことだ、神の奇跡くらいに思っていたに違いない。あまり制御に苦労しなかったバーナビーは詳しくないが、能力の制御は努力よりもタイミングだと聞いたことがある。

「これが……私の力……」

 病院の屋上が随分下方にある。怖くないと言えば嘘だ。生身でこんな高さに身をさらした経験などあるはずもない。だがそれ恐怖を超える何かがそこにはあった。地上よりわずかに冷たい空気と空の青さが体に染み込むようだ。おかしくもないのについ笑うと、キースも気の抜けた笑みを浮かべた。病院の上空をゆっくり周回する。中庭や屋上の患者が腰を抜かさんばかりに驚いているのが少し愉快だ。まるでミニチュアのような風景をキースの腕を強く掴んだまま眺める。

「ウロボロス……だったかな」
「え?」
「あのマークがどういうものかは本当に何も知らない。だけどあのマークはウロボロスと呼ばれていたと思う。話題に出ることはほとんど無いし、軍での通称かもしれないから、正式な名前かどうかは分からないけど」

 ウロボロス、ウロボロス……口に馴染むまで何度も繰り返した。それは初めて入手した紋章を越える情報だ。考え込んでいる顔面に風がぶつかった。踊るようにくるりと空中で回転する。

「何ですか!」
「すぐに言えなくてすまない……そして申し訳ない。君を危険に晒すかもしれないから、迷ったんだ」
「危険だとか安全だとか、そういうことに構っていられないことは話したでしょう!」
「うん、君の覚悟はよく分かっている。それに、君に何かあれば私が守ればいいんだからね!」

 つい先ほどまで感じていた影はどこにもない。間近の太陽とうっかり見違えそうな笑みについ釣られてしまう。地上で何やら叫んでいるのは医者や看護スタッフだろうか。もう戻った方がいいですよ、と顔を逸らして呟く。

「夢みたいだったかな?」
「……僕の感想は関係ないでしょう。貴方のカップに砂糖を入れたんですよ」

 まあ、貴重な体験ですね。ありがとうございます。できるだけ感情を込めないよう気を遣ったつもりだが、空中で幼子のように両脇で持ち上げられそうになったのはさすがに心臓が冷えた。

「いきなり『グッドマンさんが空飛んでます!』って連絡入った時はどんな暗号かと思ったぜ?本当にキースはなー!」
「その話何回目ですか……」

 朝食のパンにかじりつきながら忙しなく口を動かす虎徹は、バーナビーの声などまるで耳に入っていないようだ。長年キースの能力制御に尽力してきた虎徹が喜ぶのも分かるが、この話は世界一危険な「高い高い」を茶化すまでがワンセットなのだ。バーナビーはいい加減うんざりしていた。正面に座る楓が同情と笑みを隠しきれていないのもなんだかやりきれない。

「楽しそうだね!」
「お前の話だよ!」
「いつもの話ですよ……」

 湯気を立てるコーヒーカップを片手にキースが虎徹の正面に座った。医者にこってり絞られ、ついでに完全に健康を管理されたキースはすっかり血色が良くなっている。寝つきはまだ悪いからとたまに同じベッドで眠るが、それもすぐに解消するのではないかと思う。キースの抱えていた最大の問題は昼下がりの空に消えたのだ。

「また飛んでみたいけど、あんまりその力使えないんだよね。残念」
「すまない……そしてごめん。だけどカエデ君が困った時は絶対に役立ってみせるよ!」
「ほんと!?遅刻しそうな時連れてってくれる!?」
「もちろんさ!」
「いや、ダメでしょうそれは」

 制御不全の登録を訂正すれば、ある程度は自由に能力を使えるはずだ。しかしキースは研究施設に足を運びたくないらしい。虎徹もキースに敢えて勧めることはしない。バーナビーとしては、何故そんな子供のような駄々をこねるのか理解できないが。牢のようなあの部屋は確かに気が滅入るだろうし、制御に苦労してきたキースには良いイメージが無いのかもしれない。

「バーナビー君、今日のカエデ君のお迎えは君に頼んでも構わないかな?」
「いいですけど……」
「ありがとう、そしてありがとう!」
「キース、なにかあるの?」
「面接さ。調子も戻ったし、いつまでもボーっとはしていられないからね!」
「あーポセイドンライン、だっけ?」
「なんでも新しい事業を展開するから人が必要らしい」

 ポセイドンラインと言えば大企業だが、その裾野が広いため必要な人員は膨大なものだろう。少しズレている感は否めないが、キースは真面目な努力家だ。余程のことが無ければすぐに職が決まるだろう。ふう、カップに息を吹きかけるキースがふとバーナビーを見つめた。

「はい、頼むよ」

 カップが差し出される。バーナビーの世界はやはり、両親の事件を中心に廻っている。でも今この一瞬くらいは、キースの幸先を祝ってやるのもいいだろう。シュガーポットから銀のスプーンでさらさらと白い砂糖をカップに溶かす。キースはそれをいつもの笑みで受け取った。ありがとう、そしてありがとう。決まり文句の後カップに口をつける。

「うーん!挑戦してみたけど、コーヒーはやっぱりブラックだね!」

 分かってはいたが、やっぱりこの人とは合わない。ガクっと肩を落とした虎徹の横でバーナビーは深いため息を吐き出した。

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