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幸福の匙加減 (パラレル)



「今日はどこまで行くんですか」

 ジョンのリードを引きながら、キースはううんと唸ってみせた。キースは今まで朝の散歩のコースを特に限定していなかったらしい。初日に黙ってそれに付き合い、隣町にまで足を踏み入れそうになったのは苦い体験だ。あれは比喩じゃなかったのか、信じられない。適度な運動は必要だが、朝からそんなに疲労してどうするのか。元気に帰宅したキースとぐったりしたバーナビーの対比を虎徹と楓が面白がったのも地味に傷ついた。バーナビーだってそれなりに鍛えてきたというのに。この人が過労で倒れただなんて嘘に決まってる。

「決まらないなら今日も僕が決めますよ」
「うん!いいね!君が行きたいところにしよう!そうしよう!」
「ダウンタウンはここより治安が悪いですし、その手前で引き返すことにしましょう」
「そうだね。君も居ることだし!」
「……僕は別に平気です」

 シュテルンメダイユは広い。そしてここブロンズから隣の地区まで行こうとすれば、ブリッジを使わない限りはダウンタウンを抜けることになる。早朝のダウンタウンはまるで廃墟のように静かで、人の気配が全く無い。危険だとは思わなかったがどこか不気味だった。しかも同行しているのがキースなのだ。この大人は年相応という言葉からどこかズレている、ということを毎日ひしひしと実感している。ダウンタウンのような場所を一緒に歩いていたらうっかり何かに巻き込まれた時ややこしいことになりそうだ。――バーナビーは虎徹に時折言われる「バニーちゃんもどっかズレてんだよなあ」を全く真に受けてはいなかった。僕はバニーじゃなくてバーナビーですし。

「でも、良かったのかい」
「何がですか?」
「君は朝が苦手なんだろう?もう少し寝ていても良かったのに……」

 一度寝過ごしたからと言ってその習慣を改める気にはならなかったし、虎徹や楓のために何かしたいという気持ちはやはり強い。それにキースに朝の仕事の全てを任せることは、借りを作っているようで嫌だった。しかし事実として、バーナビーの家事仕事はほとんどキースに奪われている。つまり早くに起きてもやることが無いのだ。

「……体力は必要だと思いますから」

 夢で何度も繰り返す顔の見えない男。あの男の姿を現実で目の前にした時、何が起こるかは分からない。キースにも届かない体力では、それに対処できないかもしれない。くだらない対抗意識と、ほの暗い決意に奥歯を強く噛み締める。うん、朝日を待ちわびる白い空の下、キースは相槌を清涼な空気に違和感無く溶かした。

「そうだな……バーナビー君はもう少し体力をつけた方がいいね!」

 やっぱりこの人、僕とは合わないと思う。

「あーあ。また起きれなかった」

 初日はバーナビーが途中で体力切れを起こしたために、慌ててパンを頬張る楓とそれに叩き起こされて上機嫌な虎徹に出迎えられたが、それもその一日だけの話だ。今日もいつも通りに楓に皿とカップを差し出して虎徹を(楓ちゃんじゃなくて悪かったですねと嫌味も忘れずに)起こすことができた。じゃれついてくるジョンに苦心しつつブラッシングしてやりながら、楓へ視線を飛ばす。

「何か早く起きてやることが?」
「違うよ、キースとバニーさんについて行こうと思ってたのに!」

 バーナビーが楓の呼び方を変えてから、自分もと思ったのだろう、楓も今までと違った呼び名を試みていた。結局この形に落ち着いたらしいが、バーナビーとしては少し複雑だ。僕はバニーじゃない、バーナビーです。とはこの少女相手に言いにくい。キースのように呼び捨てでも構わなかったのに。

「なに?お前ら朝どっか行ってんのか?」
「……ジョンの散歩ですよ」
「え?あの日だけじゃなかったのか?今日も行ったの?」
「毎朝二人で一緒に行ってるなんて、私も近所のおばさんから聞いて初めて知ったんだよ?」

 前からそれを不満に思っている節があったが、楓が起きた時には既にジョンの散歩は済んでしまっている。加えて近所での噂を聞いたのだと言う。どうやらバーナビーとキースは、同じようにペットの散歩をする人々や早朝通勤する人々、特にマラソンやウォーキングに熱心な奥様方の話題の的となっているらしい。キースは元々愛想がいいし、バーナビーも自身の容姿と外面には一定の自覚と自信を持っている。分からない話ではないかと思った。ハイスクールにバーナビーのファンクラブがあるとも聞いたことがある。特別嬉しくもないが。

「ジョンともっと遊びたいし、今度マラソンがあるし、ダイエットにもいいって友達が言ってたし……」
「楓ちゃんはそのままで充分素敵ですよ」
「えっと……えへへ、ありがとう」
「おい、バーナビー」

 過保護の過ぎる虎徹のじっとりした視線は無視して、楓は夕方の散歩の担当なのだから無理しなくていいと告げる。正確には楓を迎えに行ったキースがジョンを連れているだけの話だが。あのペースと距離を楓がこなすのは無理だろう。何故だかまだ少し不満げな楓の頭を虎徹が軽く撫でている。

「しっかし、いつの間にかすっかり仲良くなったもんだなあ……」
「そんなんじゃありません」

 きっぱり言い切った。そこは間違ってほしくないところだ。繰り返すが、バーナビーがキースに同行しているのは、様々な感情と事情が複雑に絡み合っているためなのだ。単純な話と片付けられては困る。

「お?そうか……?」

 何故か嬉しげな虎徹を今度はバーナビーが睨んでいると、洗剤の泡だらけのフライパンを片手にキースがキッチンから声を上げた。そろそろ行かないと遅刻するよ、時計を見上げ楓と共にバタバタと身支度を済ませた。ここ最近の日々はやはりペースが狂いっぱなしだ。だが、不思議と苛立つことは無くなっている。

 午前のAPクラスひとつだけ出て、後の授業は休んだ。急遽人と会うことになったためだった。普段の素行から言っても、成績から言っても、特に問題は無い。シルバーステージのハイスクールからモノレールを乗り継いでゴールドステージに上る。官庁や会社の居並ぶ道を抜け、低層の白い建物に足を踏み入れた。横長く奥行きのある構造で、どこか病院を髣髴とさせる。交付されているカードでゲートを抜けると、長い廊下に幾人か白衣を着た人がうろついていた。バーナビーに気づいて声をかけてくれる者もあれば、忙しそうにして全く気づいていない者もいる。構わず廊下を進んだ。その傍らに窓が並ぶようになり、その向こうには中庭が見える。中央にはトラックが、その周囲には緑地があり、まるで学校のグラウンドだ。陽の燦々と当たるそこに見知った姿を見つけ、バーナビーは中庭に続くドアを出た。

「虎徹さん!」

 数人の子どもと一人の老人と共に、ジャージ姿で柔軟運動をしていた虎徹がオーバーアクション気味に振り返る。虎徹はたまにわざとらしいくらい大げさだ。分かりやすいのでいい、と今では思えているが。

「おっ!?バニー?」
「トレーニングですか?」

 虎徹が何か答えようとする前に、オジサン助けてと悲鳴が上がった。幼い少年が屈伸の格好のまま体を半分ほど地面に埋めている。友人らしき少年がおろおろと引っ張ろうとしているが、あれでは一緒に地面で溺れてしまうだろう――と表現するとなんとも妙だが。虎徹は慌てず、オジサンじゃなくて先生だっつってんだろと少年の両腕を掴んで引き上げた。少年の瞳の青い発光が収まるのを見届けて両手を離す。ドサリ、少年は地面に吸い込まれること無く着地した。

「……大変そうだ」
「まあな。お前みたいに物心ついた時には力をコントロールできてる、ってのは稀だからな」

 ここはNEXTと呼ばれる突然変異で現れた特殊能力者の研究施設だ。虎徹はここで、力の制御に苦しむ人々のケアワーカーとして働いている。ひと昔前はこの施設を題材に能力者兵士を養成しているとか、ここで実験によって能力者を作っているだとか、悪趣味な報道や三流創作物が量産された時代もあったと言うが、最近はNEXTについて正しい認知が広がってきているように思う。

「特に、自然の力を操るような能力の奴は苦労するぜ」
「力が大き過ぎると制御も難しいでしょうね」
「ああ……って、お前なんでここにいんの?」

 何気なく会話を続けてしまったが、ここには人に会いに来たのだった。待ち合わせです、と慌ててその場を去る。マーベリックさんによろしくな、背中にかかる声は何故だかぎこちなく聞こえた。しかし、もう約束の時間を数分は過ぎていたのだ。振り返らず廊下に戻り、エレベーターで一番上の階の応接室に向かう。ノックをすると、柔らかい声が返ってきた。

「久しぶりだね、バーナビー。変わりはないかな」
「はい、マーベリックさん」

 遅れてすみませんと謝ったが、マーベリックは気にした様子もない。芳香の漂う紅茶をカップに注ぎ差し出してくれる。それにホッと息をついた。テーブルを挟み、ソファーに向かい合って座る。

「すまないね。最近は忙しいものだから、なかなか時間が取れないんだ」
「いえ、忙しい貴方が僕のために時間を割いてくださるだけで嬉しいですから」

 マーベリックはメディア関係を中心に様々な事業を展開しており、この施設のオーナーでもある。更にバーナビーの両親の古い友人でもあった。虎徹の家で世話になるようになり、その情報がどこからか耳に入ったらしく、突然虎徹の家を訪れバーナビーを抱き締めてきたのには驚いた。オーナーとしての面識しかない虎徹もバーナビーと同様に驚いていたようだった。

「君の行方を探して……やっと辿り着いた孤児院からは脱走した後だと聞いて、肝が冷えたよ」
「もうよしてください、その話は……」
「はは、今では笑い話だ。学校でも頑張っているようだね。主席だと聞いているよ」
「僕は……あの両親の息子として、恥ずかしくないように生きたいんです」

 不意に部屋へ沈黙が訪れる。正面からバーナビーを見据えていたマーベリックは、思案するように一度目を伏せ、そして口を開いた。

「まだ……諦めていないんだね」
「諦めません。諦められるわけがない。この手で……犯人を突き止めるまでは」
「突き止めて、君は一体どうするんだ」

 それは何度も何度も自問した疑問のひとつだ。答えは無い。分からない。だが、だからと言って犯人が分からないままで放っておけるはずもない。警察は頼りにならない。犯人をこの目で見たのはバーナビーだけだ。しかし両親はバーナビーがそうすることを望んでいるだろうか。尋ねたいがその相手はもうこの世界のどこにも居ない。

「……悪いことを聞いたかな、すまない。私としても大事な友人たちを殺した犯人を知りたい。何としてもね。できる限り協力するよ」
「ありがとうございます」
「本当に協力は惜しまないんだよ、バーナビー。私は独り身だ。息子のように思っている君の面倒を見るくらい……」
「いえ、それは……」

 虎徹と楓の顔が浮かんだ。何の縁もゆかりも無い父子の世話になることは、いくら虎徹がいいと言ったって負担をかけていることに違いはないだろう。でもここでマーベリックの申し出に頷けないのは、バーナビーの意思に引っかかるものがあるからだ。――君が決めていいんだよ。脳内でカンカンとスプーンがカップの淵を叩く。

「鏑木君とうまくいっているようだね。それはいいことだ。無理にとは言わない」
「はい……ごめんなさい」
「謝るようなことじゃない。ただ、これくらいは許してくれるね」

 紅茶に口をつけた頭がやんわりと撫でられた。何故だろうか、マーベリックに撫でられる時は妙に緊張する。虎徹の時と違って。

 緊張するなどと思っておいて、バーナビーは応接室でいつの間にか寝てしまったらしい。マーベリックが手配してくれた車の中で目覚め、運転手にそう聞かされた。しかもどうやら虎徹が車までバーナビーを運んだようだ。末代までからかわれるに違いない。一生の不覚だ。しかし同時に、何故目覚めなかったのか分かる気もする。おかしな時間にうたた寝してしまったせいで少し痛む頭を抱えつつ、家のドアを開ける。ジョンが元気良く飛び掛ってくるが、人の声はしない。

「誰もいないのか、ジョン」

 犬に聞いてもしょうがないが、ジョンはクーンと小さく鳴いた。そしてバーナビーから離れ、フローリングをたしたしと踏んでいく。後に続くと、リビングのソファの前でジョンは座り込んだ。尻尾が揺れる。覗き込めばソファにはキースが居た。それは特におかしなことではない。しかし腕を組み、わずかに首を傾げたキースの目は閉ざされている。呼吸に合わせて胸が上下する。どうやらここにも一生の不覚をやらかした人が居るらしい。少し気分が上向く。

 窓から入る昼下がりの光を浴びて、甘い色をした金色が透けている。彫りが深いの一言では片付けられない癖のある顔立ちを、こうしてまじまじ見るのは初めてだ。ふと、目元が暗くくすんでいるのに気づいた。あの夜のことを思い出す。明るいリビングと、つけっぱなしの暖房、それから伏せられた本。時計は4時前。

 唐突に甲高い機械音がして体がびくりと揺れる。洗濯機だ。ということは、キースのうたた寝はほんの数十分か。

「……ん……?おや……、バーナビー君?って、えっ」

 キースが勢い良く立ち上がったので慌てて身を引く。バーナビーに構わず時計を確認したキースはほっと息を吐いた。楓の迎えを寝過ごしてしまったのかと思ったのだろう。目元を押さえ、肩を軽く回している。

「おかえり!そしておかえりなさいバーナビー君!今日は早いね!」
「ええ、今日は特別に。洗濯物、僕が干しますよ」
「いや、私が干そう。君は疲れているだろう?」

 この家には乾燥機も無い。疲れていることなど何一つしていない上にうたた寝までして来たところだ。押し問答も面倒なので、バーナビーは黙ってキースを手伝った。

「しまった……僕としたことが……!」

 バタバタと家を飛び出した。ほぼ夜通しで起きていたため、いつもより数十分寝過ごしてしまったのだ。キースはバーナビーの起床を待ってはいなかった。元々約束をしているわけでも無し、寝かせてやろうとでも思ったのだろう。久々に感情が不穏に波立つ。

「今日は僕がいないからいつもと違うコースを使ったのか……?」

 最近はほぼ決まってきたコースを辿るが、背すら見えない。元々キースはジョンに任せるままに散歩していたようだから、今日はそうしたのかもしれない。時間を気にしつつ走る。すれ違った可能性を考慮して程々で家に戻ろう。そこまで考え、何故自分が散歩一つにここまで必死になっているのか疑問に思えてきた。立ち止まり、荒い呼吸を整え、小さく首を振って踵を返そうとする。

「何だ……?」

 と、喧騒が耳の端に引っかかった。気になって声の元を追う。辿り着いた路地裏では、いかにも柄の悪そうな男たちの正面にキースとジョンが向かい合っていた。その後ろでは気弱そうな少年が身を縮めている。まずい、そう思った瞬間に男の一人が腕を振り上げる。迷わず能力を発動させてその腕を掴んだ。

「朝っぱらこんなところで随分元気が有り余ってるみたいだ」
「な、なんだお前!?う……でが動かねえ……!」
「こいつ、NEXTだ!」
「そのパワー、もっと有意義に利用したらどうなんですか」

 面白味のない反応に呆れつつも、掴んだ腕を軽く振って離す。それだけで男は地面にキスをして気絶する羽目になった。手加減はしたが仕方がない。何せ本来の百倍の力だ。怪我をしなかっただけでも有り難く思ってほしい。気絶した男を薄情にも放って、蜘蛛の子を散らすように他の男たちが走り去っていく。

「怖かったね。大丈夫かい?」
「は、はい……ありがとうございます……!」
「……貴方、何もしてないでしょう」

 アジア系の小柄な少年は、首が取れるのではないかと言うくらいキースとバーナビーに頭を下げ感謝を述べて去って行った。こんな時間だ、ひょっとすると人種で若く見えるだけで、通勤途中の青年だったのかもしれない。虎徹も実際の年齢より多少若く見える。

「ありがとう!そして助かった、本当に助かった!コテツ君には聞いていたけど、すごい能力だね!コテツ君みたいだ!」
「……僕が来なかったらどうするつもりだったんですか?」

 ジョンのリードを引きつつ、何事も無かったように帰ろうと歩き出すキースに追い縋る。全身で男たちを威嚇していたジョンまで素知らぬ顔だが、バーナビーはごまかせない。

「まあ、どうにかなったんじゃないかな。彼らも人間だ」
「全部が全部貴方みたいな人じゃないんですよ……まったく」
「じゃあ、君なら放っておいたかい?」

 話せば分かるだとかそういうことを本気で考えているんだろう。この世には何も言えず残せず命を奪われる人だって居るのに。なんだか無性に腹が立つ。困ったようにバーナビーの顔を覗うキースを睨み返す。

「考えます。僕が損せず、見過ごして不快にならない方法を」

 そして今、バーナビーにはその力があるはずだ。持久力ではキースにまだ届いていないかもしれないが。視線の矢の的にある青い瞳がきゅっと小さくなった。何度かの瞬きを経てそれは柔らかく細くなる。

「君は優しいね」
「……どうしてそうなるんですか!」

 この人の思考は一体どうなっているんだろう。腹立ちと、なんとも言えない思いとを霧散させるために足を動かすうち、肝心の話をしないまま家に到着してしまった。なんだかどっと疲れている。念のため注意しておくが、今日のそれはバーナビーの体力に関わる問題ではない、と思う。

「虎徹さん、入りますよ」
「んー?」

 ノックの返事を待たずにドアを開けた。虎徹の答えは鈍い。もう眠りかけていたのかと思ったが、シェードランプに照らされた空気はアルコールの色だ。酔っているのだろう。手元からベッドにパタリと伏せられた写真立てには気づかないフリをする。

「貴方またそんなもの飲んで」
「寝酒だよ寝酒。もう寝るだけだからいいだろお?」

 虎徹の足元にあるアルコール度数の高い日本伝統の酒瓶を持ち上げる。今日一晩で飲んだわけでもないのだろうが、随分軽い。虎徹の手からグラスを奪いサイドボードに置いた。虎徹はしばらく年甲斐も無く口を尖らせていたが、やがて部屋と同じ色をした瞳でバーナビーを静かに覗き込んでくる。

「どうした?」

 何も飾るものが無いと分かるこういう時、どうしてバーナビーの自慢の舌鋒は本領を発揮できないのだろう。いつももどかしく思う。虎徹はキースを心配している。キースの異変は虎徹も知っていた方がいいはずだ。だが、キースが敢えて言わないでいることをバーナビーが勝手に口にしてもいいものなのだろうか。

「僕は……どうしたらいいですか」

 自分でも情けないと思うくらい途方に暮れた声だった。本当はこんなこと考えている場合では無いのに。バーナビーのやるべきことはたったひとつで、それ以外には無いのに。何をしようと言うんだろう。何ができると言うんだろう。少し驚いた様子でバーナビーの言葉を受け止めた虎徹は、眉根を寄せて笑った。

「どうしたらいいんだろうなあ」

 虎徹の声もどこか途方に暮れている。無責任な答えを聞いているはずなのに妙に安心する。それはきっとこの人が、きれいごとや上辺だけの嘘が苦手だからだ。普段とは違って、虎徹はバーナビーの頭を優しく撫でた。

「オジサンもまだ迷ってばっかだわ。でも分かるまで、頑張るしかないんだよな」

「おや、バーナビー君。どうしたんだい。眠れな、」
「眠れないのはあなたでしょう!」

 バタン、リビングのドアを開けると案の定キースはダイニングテーブルに座って本を読んでいた。何十巻も続く時代小説で、先日見た巻数からは10は進んでいる。呆れた。ずかずかとテーブルに近寄る。ふと、もやもやと白い湯気を上げるカップに気づいて覗き込んだ。湖面は見事な黒だ。

「コーヒー!?貴方、何考えてるんですか?」
「ば、バーナビー君?」

 深夜に突然乱入し、凄まじい剣幕で言い募るバーナビーに驚いたのだろう。キースはただただ呆気に取られている。それにまたも苛立ったが、これでは拉致が明かない。テーブルに両手をついてキースを覗き込む。

「眠れないんでしょう。知ってます。僕がうなされているのに気づいたのも起きていたからだ」

 昨晩はほぼ一晩中起きていて、勉強や調べ物のついでに一時間おきほどでリビングの様子を覗っていた。結果、バーナビーが眠りに落ちてしまった5時過ぎまでキースは起きていたのだ。今日は一日とてつもなく眠かった。今も眠い。

「いつからですか?まさかこの家に来てからずっとだなんて言いませんよね」

 衰弱した様子で昏々と眠るキースの姿を、バーナビーも確かに見ていた。しかしあっという間に回復し、それからは元気そのものとしか見えなかった。昨晩のことを語って聞かせ、バーナビーが一瞬の隙も許さず見下ろしていると、キースも観念したようだった。二週間ほど前から段々、と口を割る。

「全く寝ていないわけじゃないんだ。昨日みたいにうたた寝してしまうこともあるし……朝方寝てしまっていることもあるんだよ」
「そんなのほんの少しでしょう。そんなコンディションであんな無茶な散歩してたんですか?」
「人間は、いつまでも起きているだなんてことできないだろう?」

 体を動かして、起き続けていればいつか眠れるよ、なんの問題もないと言いたげなキースにため息が出る。小さな子どもでもあるまいし。何を言っているんだろう、この人は。

「原因は?」
「え?」
「普通、そういうものには原因があると考えるのが普通です。行動には順序があります。第一に考え、それを第二に実行するんです。何も考えず動き始めてどうするんですか。うまくいくわけありません」
「……でもそれだけが私にできる、確実なことだからね」

 一部、自分でも自分自身を攻撃してしまっているような気もしたが、キースはそんなこと思いも寄らないようだった。それ以前に、原因など考えたことがないという顔だ。今なら何故虎徹がキースの心配をしたのか分かる気がする。この調子では恐らく医者にもかかっていないし、勧めても断られるんだろう。吐き出した息を吸い込んでコーヒーカップを手に取る。

「ミルク、あっためますよ。砂糖要らないなんて言わないでくださいね」
「ならば、私が……」
「分からないんですか!眠れる方法を一緒に考えるって言ってるんです!」

 半ばヤケクソな気持ちで大股でシンクまで辿り着き、カップの中身をぶちまける。深い夜の色が呆気なく排水溝に飲み込まれるのを見ていた。何故だかふと、気を張っていた体の力が抜ける。脱力した背にのんびりした声がかかった。

「やっぱり、君は優しいね」

 そんなこと言われるためにやってるんじゃないのに。表情が変わるのが嫌で、バーナビーは手で顔面を覆った。

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