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先生と紅茶 (パラレル)



先生と凍雨

 たっ、窓の硝子を雨が弾く。その一音はやがて一節になり、一楽章になり、音楽になった。冷気の立ち昇るような窓を震わして、その向こうの庭が揺れる。廊下だというのに身体の端からじわじわと冷たさが侵食していく。

「よく考えてくださいよ、先生」

 雨音に紛れて声がした。書庫に向かう足を休ませて、廊下の角から声のする方を覗き込む。先生の書斎から、見たことの無い人間が二人、出て行く途中だった。先生の書斎に見知らぬ人間が出入りすることはしょっちゅうだが、いつものような和やかな雰囲気が感じられない。男たちはどちらも緊張した、張り詰めた表情だ。

「でもボクは……」
「双六殿もご心配なさっているご様子。このご時勢、いつ何が起こるか分かりませんので」
「……ありがとう。少し、考えてみるね」
「なるべく早急に。それでは」
「うん」

 黒い外套を羽織った男たちは靴音高く玄関に向かう。それを年老いた女中が追いかけている。先生はそれを書斎の戸口から見送っているだけだ。だがふと、首を瀬人の居る方角へ向けたようなので、それ以上立ち往生をやめて走り出した。

 寒さに用心して外套を羽織って降りる地下の書庫なのに、不思議と警戒したほどの冷たさは無いのだ。夏はあんなにひやりと地上を小馬鹿にするような温度を持っているのに、冬は廊下より少しだけ暖かい気がする。
 木の階段をぎいぎい降りる。どこに居ても雨の音と匂いが五感に絡みつく地上と違って、地下は静かなものだ。ランプを片手に目当ての本棚へ歩く。最早書物を読み解く以外に、瀬人にできることは何も無いのだ。瀬人はあの日のままだ。立ち上がれずに、血だらけの障子を見つめている。

「……」
「ああ、また来たのか」

 書庫の偽者が持つ本は、相変わらず瀬人が読もうと思っている本なのだった。恐らくわざとなのだろう。余程瀬人をからかって怒らせたいらしい。

「怒らせたいわけじゃない、思い出と本だけが話し相手じゃどうにも寂しいのさ」

 『寂しい』など微塵も感じさせない愉快げな笑みに、もう怒りすら浮かばない。ランプを足元に置いて、右手の本を棚に戻した。男の差し出す本を素直に受け取る。すると男はそこで初めて、面食らったような顔をした。

「……今日のお前は、何を考えてるか分からないな」

 そんなことは瀬人の知ったことではない。瀬人の考えは至って単純だ。寒々しい雨の中で集っては散る鬱陶しい地上の者より、この地下で浮世を離れて暮らすこの男の方がよっぽど善なるものだろう。疑ったり信じたり、惑いの多い地上こそ悪しきものだ。

「悲しいな」

 男は棚から本を出しては仕舞って、手持ち無沙汰を慰めている。瀬人が見上げると、男は手を止めた。

「あいつが悲しんでるのは、お前のせいか」

 知らない。そんなことは、オレには関係が無い。
 もう目当ての本は手元にあるのだ。地上に戻ってしまおうとして、肩に手がかけられた。男に正面を向かされる。男の温度の無い両手が確かに瀬人の頭に触れて、動きを止めた。目が近づく。そのほの暗い赤の目が、瀬人を呑み込みそうに覗き込んできた。何もかもが見透かされる感覚に初めて背筋に恐怖が流し込まれていく。そんな情けない瀬人を認めて、男はやっと離れていった。

「悪いな。怖がらす気は無かった」

 怖がってなどいない。瀬人の強がりは笑われるだけだ。瀬人の目を気にすることも無く、男は本を出し入れする作業に戻った。

「周りを顧みずに自分を責めることは、他人を責めていることと同じだろうにな」

 分かった風に言葉を使う男は、瀬人は初めから気に入らなかったのだ。もやもやと不定形な怒りが胸に思い返されて、強く男を睨む。だがやはり、男はゆったりと笑って見せるだけなのだ。

「あいつが悲しいのはお前のせいだけじゃないさ」

 そんなことは誰も気にしてなんかいない!
 地上の何もかもは瀬人の敵だ。そう思っていないと、いつ後ろから突き刺されるとも知れない。もう男との会話に見切りをつけて駆け出そうとする肩を、また止められた。

「ただの臆病者だぜ、おまえのそれは」
うるさい!
「うるさくて結構、ほら」

 男がもう一冊本を差し出した。それは紺色の厚紙で綴じられた、表紙に何の文字も無い薄い冊子だ。怪訝に顔をしかめるが、無理やり持たされてしまった。

「これはあいつの書斎に置いてくれ。直接渡さなくてもいいから」

 何故オレがそんなことを、と思ったが、これ以上の押し問答も煩わしかった。勝負などを持ちかけられればまた、この男の卑怯な口車に巻き込まれることとなるのだから。

 自分の本は一度寝室に戻って寝台の上に置いた。押し付けられたとはいえ引き受けてしまった仕事だ。嫌々ながらも先生の書斎へ向かう。先生が中に居るようなら明日の朝にでもどこか適当なところに放っておけばいいのだ。どうせ先生の朝は遅い。

『先生』
『……今朝方は別の人が同じことを言って行ったよ。昼にも来たかな』
『……それは申し訳ないことを……。ただ、我々は皆先生を心配しているのです。煩わせたいわけじゃない』
『知ってるよ』

 細く開いた戸から漏れる声は、少しの苛立ちが混じっているように聞こえた。平生聞かない先生の声に、つい立ち去るのを忘れてしまう。

『ただ、今ボクは預かっている子が居るから、その子のことがちゃんと落ち着くまでは……』
『先生、時間が無いのです!書生なら里へお返しなさい!己の命とよその人間、どちらが大事なのです!本当ならば、今すぐにでもこの国から出てもらわなければ!』

 深いため息が瀬人の足元にまで届いてきた。日没の早い冬空は、雨雲に覆われていつもより遥かに早く薄暗い。雨に揺れる夜の空気を見つめながら、瀬人はしばらくそのまま立ち尽くしていた。

(2009-01-05)

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