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先生と紅茶 (パラレル)



先生と偽者

 先生の屋敷はとても広い。先生と女中の二人暮しのくせして、部屋の数は数えるのも億劫になるほど多いのだ。しかもどの部屋も基本的な家具と埃ぐらいしか無い。私室と書斎、それから地下の書庫ぐらいしか使っていない先生にとって、それらは無用の長物としか思えない。だからと言って簡単に省略できるものでもないとは分かっているが。だが『先生』の呼び名のとおり、その教えを請いたい人間は多く居るようなので、書生の二、三は居てもおかしくないはずだ。

 瀬人は分厚い本を片手に日光が大きな窓から溢れるような長い廊下を歩いていた。先生はまだ眠っているのだろう。数少ない親戚が危篤だとかで、世話焼きの女中が暇をもらっているのだ。そのせいで先生の生活はすっかり不規則である。昼近くまでは寝台に沈み込んだままに違いない。

 先生の起き出さない朝は静かだ。

 扉の取っ手にかけられたランプに火を付けて、古びた木の階段をぎいぎい言わせながら地下に降りる。どこからか冷たい風が流れている書庫は、屋敷に比例して広い。心許ないランプでは到底照らしきれない規模だ。記憶を頼りに本棚をいくつか過ぎて、本を元の場所に戻す。そしてその隣の次巻を手に取ろうとして眉をしかめた。

 無い。

 丁度一冊分ほどの空間が虚空を作っている。以前見た時こんなものは無かったはずだ。先生が持ち出したのかとも思ったが、そんな様子は無かったし、ここらの本棚に先生はあまり手を付けない。瀬人のために次巻を取って行った可能性もあるが、その場合間違いなく瀬人にそのことを報告するはずだ。不慮の事態に苛ついてランプを虚空に近づけても、本棚の木目しか映らない。

「なんだ?こいつを探してるのか?」
「、っな!?」

 慌てて口元を押さえ、後方に素早く鋭い視線を送った。油断していた。こんなところで、聞いたこともない人間の声を聞くなどという予想ができているわけもない!

「悪かったな。オレも丁度読んでいたんだ」

 差し出された目当ての本、それからそれを持つ手、腕、肩と顔。そうやって視線を上げて、目を疑った。さりげなく浮かんだその微笑は、ぞっと背筋が冷えるほど先生に似通っている。違いと言えば、顔の造詣が先生よりやや鋭いところだろうか。

「そう警戒するな。怪しいモノじゃないさ」

 これが警戒せずにいられるか。先生はこの屋敷に女中と自分しか居ないとよく漏らしていた。つまりこの目前の人物は『居るはずのない』人間である。

「それにしても……お前、声がきちんと出るんじゃないか。あまりあいつを困らせるなよ」

 あいつ、とは先生のことだろう。怪しい人間の言い分にしてはあまりに偉そうである。大体どこから瀬人のことを知ったのか。口元を押さえたまま瀬人は睨む力を強くした。こんな男が現れたぐらいで声を出す自分が浅ましく、腹が立った。

「睨むなよ。ほら、本」

 申し訳程度に困ったような笑顔で尚差し出された本を引っ手繰る。上に戻って先生を叩き起こして来るべきだろうか。じりじりと床を踏みしめる。

「じゃあ、勝負で決めようぜ」
「……?」

 男はポケットに手を突っ込んで、小さな紙の束を嬉しそうな顔で取り出した。ただでさえそっくりなのに、その顔は先生とうり二つだった。

「勝った方が正しいってことだ。それなら目に見えて簡単でいいだろ?」

 そんな信用性の欠片も無い主張の仕方が一体どこで通用するというのか。視線に若干呆れを混ぜたが、男に気にした様子は無かった。そんなところまでそっくりだ。

「カード。知ってるだろ?エゲレスあたりの本にも出てきたと思うが。ルールは教えるぜ、何がいいか……」

 確かにいくつかの本でその名を見たことがあったし、先生がどこからか持ってきたエゲレスの童話にもその名が出てきた。だが現物を見たのは初めてである。今までその名を見てもいまいちどういうものか思い描けなかった。

「やるか?尻尾巻いて逃げるか?」

 挑発的な笑みのおかげで、瀬人の中から上へ戻るという選択肢は無くなった。座り込む男にランプを床に置いて続く。初めは戸惑ったが、男の説明は的確だった。すぐに要領を得る。『チップの代わりだ』と男が本棚の本を使ったのは少し頂けなかったが。

「ベット。コールするか?」
「……」
「その度胸、気に入ったぜ!さあ、手札を見せてもらおうか。……ストレートか、良い引きだ。だがまだ甘いな」
「……っ!」

 どのくらいの時間が経っただろうか。そんなに長い間でも無かったように思う。視線を上げれば、本棚の最下段一列の本が全て男の横に積み上げられている。得意そうに男は微笑んで見せた。

「まだやるか?」

 悔しさで噛み締めた歯が折れそうだったが、渋々首を振る。ここで続けるのは、相手に勝ちを懇願しているようで嫌だった。

「じゃあオレの勝ちだな」
「……」
「さて、本を戻さないとな。半分頼んだぜ」

 男が脇に置いた、半分になった本の塔を黙々と本棚に収納する。長年陽にも当たらずに陳列させられていた分厚い本たちはどれも埃っぽい。

「なあ、」
「?」
「あまり、考え過ぎない方がいいぜ」

 男との間を隔てていた本の壁はもう幾冊も無かった。少し困ったような微笑の目の前に、自分の考えが染み出て浮かんでいるように思えた。不気味なような、腹立たしいような、とにかく男から距離をとった。

「何も考えずに突進して、こけて、泣くぐらいでいいさ。子供なんて」

 それで――立ち上がれなくなったら、もう突進などできないだろう。

 最後の一冊を本棚に納めた男は、少し驚いたような顔で瀬人を見た。そして瀬人を見下ろしながら立ち上がる。

「お前は、立ち上がれないままなのか」

 今度は瀬人が驚く番だ。先ほどのような油断は決してしていなかったはずだ。声は絶対出していない。

「悪いな。お前みたいに気性の激しい奴が強く考えることは、伝わるようになってしまってるんだ」
「……!?」
『もう、オレは人じゃないからな』

 男の声が妙にぶれた、と思った瞬間に、男の姿までもが揺れ始める。呆然と見上げる瀬人を男は笑った。

「……くん、瀬人くーん!」

 ランプの褐色の明かりが部屋の奥からちらちら近づいてくる。どこか間延びした呼びかけに視線を移すと、一目で寝起きと分かる顔が暗闇に浮かび上がっていた。

「居たー!どうしたのさ!こんなに真っ暗なところで!」

 寝癖のひどい先生にそう指摘されて初めて、瀬人は自分が今まで暗闇の中にいたことに気づいた。足元のランプはとうに燃え尽きている。今までどうやって本の題名やカードの図柄を確かめていたのか。

「ランプが切れて困ってたの?だから読むのは上に戻ってからにしてね、って言ったのに……」

 先生は珍しく咎めるような口調で、足元の本を拾った。瀬人の目当ての本だ。これを持っていくの、と聞かれてとりあえず頷く。

「じゃあ早く上に戻ろう。起きたらどこにも居なくてビックリしたよもう……」
「……」
「でも、ちゃんと見つかって良かった」

 にっこりと微笑む先生に手を取られる。足を踏ん張って歩き出すのに抵抗すると、不思議そうな視線が返ってきた。おかしい。おぼろげながら、あの男の姿が先生の持つランプに間違いなく照らされているはずなのに。

「瀬人くん?」

 後ろを振り返るが、男はゆるく首を振ってその姿を闇に溶かした。困ったような、寂しいような、不思議な微笑だった。

「……お、お化けとか言わないよね……!」
「……」
「は、早く行こう!ランプが切れちゃう!」
「……、」
「こ、ここ怖いわけじゃないよ!ただね!ここでかくれんぼして迷子になったら本当2度と出られないくらい怖いんだから!泣いて大声出してやっとみつけてもらったりすることも……あ!ボクの話じゃないよ!本当だよ!」

 相変わらず瀬人は何も言っていないのだが。語るに落ちる言い訳を必死で並べる先生に連れられて、黙って階段を上った。

 この広くてがらんどうな屋敷にも、かくれんぼできるぐらい人の居た時期があったのだろうか。だったらあの男は、そのまま誰にも見つけてもらえなかった間抜けな霊だったりするのだろうか。どんくさい先生によく似た姿を、瀬人は思い出していた。

(2008-05-18)

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