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先生と紅茶 (パラレル)



先生と晩秋

 夏が終われば、秋はあっという間に過ぎた。裸の木を見上げては嘆いている先生は、別に文学的感傷に打ちひしがれているわけでも何でもない。落ち葉を集めて芋を焼けないのを惜しんでいるのだった。相変わらず食い意地が張っている。

「うー寒い!」

 暇を持て余した先生は、狭い庭をブラブラ歩き回っていたが、すぐに屋敷の中に戻ってきた。霜月ももう終わりに近いのだ。そのような薄着で外に出るのは無謀というものだろう。呆れ眼で駆け寄ると、先生はにっこりと微笑んだ。

「へへー、ほら、冷たいだろー!」
「っ!」

 先生の大きな手のひらが、瀬人の頬を包み込んでしまった。あまりの冷たさに身を竦ませる。先生を睨みながらわずかに身じろぎすると、名残惜しげに解放された。

「瀬人くんはあったかいねー!」

 ずっと火の入った暖炉の前で本を読んでいたのだ。外から帰ってきた先生よりずっと温かいのは当たり前だ。少し暖か過ぎてぼうっとしてきた頭を冷やすために長い廊下を窓の外を見遣りながらぶらついていたのだから。

「でもこんな格好じゃ風邪引いちゃうでしょう、部屋に入ろ」

 先生にだけは言われたくはない。だが去就に迷っている隙に、もう先生は瀬人の手を捕まえている。いつもは先生の方が温かい気がするのに、今日の先生の手は思わず悲鳴を上げそうなほど冷たい。だから振りほどかずに黙って引きずられてやった。
 瀬人の温度がじわじわ先生に伝わっていく。それが分かる気がした。

「悪いな、急に」
「いいんだよー!いつでも大歓迎だって。いつでも退屈してるんだからさ」
「それもどうなんだよ……」

 立襟を窮屈そうにいじりながら、居心地悪そうにソファに座り直すのは、警察官の本田だ。事件の後にすぐ仮で瀬人の身元を引き受けることを申し出た男である。瀬人の方を気にしつつも、直視はしないように気をつけている、そんな不快な動きを見せている。

「本田くんは忙しくてめったに会えないから嬉しいよ。待って、今ばあやに何か……」
「いや、いい。すぐ帰るからよ」
「そう?」

 腰を浮かしかけていた落ち着きの無い先生は、本田の言葉でやっと柔らかすぎるソファに深く座り込んだ。それからそわそわと指を組んだりほどいたりして、ようやく用件を聞いた。

「ソイツを半日貸して欲しい」
「……警察に?」
「ああ」

 一瞬先生が体を強張らせたのが分かった。瀬人の視線の先で先生の両の手が拳を作る。

「今は……今は、まだ……瀬人くんは話せないし……、まだ……」
「死刑になる」

 つい顔を上げた先にある本田の表情は、苦虫を噛み潰したかのようなそれだ。深いため息を吐き出して、がしがしと頭を掻いた。

「あの男は近いうちに死刑になる。もう時間が無い」
「もう、もう決まったんなら、そんな奴のところに無理に瀬人くんが行かなくったって!」

 先生の服の裾を強く引く。先生が反射で言葉を止めてこちらを見下ろしてきた。その表情はとても苦しそうで、切なげだ。

「瀬人くん……無理しなくていいんだよ?」

 無理か無理でないかは関係の無いことなのだ。
 瀬人は瀬人の義務として、あの男ともう一度向き合わなければならないのだろう。つい止まってしまう呼吸を整えるために静かに深呼吸を繰り返した。今にも蓋を弾き飛ばして溢れ出そうな記憶を今はまだ必死に抑える。

「君はここに居ていいんだから。君はここで……」

 それ以上先生の言葉を聞いていると、うっかり頷いてしまいそうだった。だから手を伸ばして、先生の今は温かい手のひらを握り締めた。何か言いたそうな先生は結局一言も言葉を発さず、瀬人の手のひらを両手で包んだだけだった。

 あの夏、あの夜、あの血みどろの寝間で、瀬人は確かに助けを請うた。自分の命だけは助けてくれと泣いて縋った。そして親殺しの気まぐれで生かされて、その男の奪う贓品で何年も生き長らえた。それは一体、親の屍を食らって生きるのと何が違うのだろうか。

 お前には帰るところなんてないぞ、道連れだ。

 違う、先生が言った。君はここに居ていいんだからと確かに言った。先生の手が冷たい時は瀬人の手が温もりを伝えるし、瀬人の手が冷たい時は先生がそうする。

 分かっていないようだな。

 お前は親殺しだ。しかも二度の親殺しだ。
 今度は誰を殺す。その小さな手で誰を崖から突き落とすつもりだ!

 違う、オレは、そんなことは……そう反論する前に、己の手のひら短剣が握られているのに気づいた。真っ赤に濡れた刀身からひたりひたりと血が滴る。その先にあるものは―――

「おいボウズ!」

 薄暗がりだった世界に光が満ちた。その突然の光の差に視覚も頭も追いついていかない。呆然と目の前の見慣れない顔を見上げた。本田だ。

「しっかりしろ!大丈夫か?」

 本田の言葉には答えずすぐに己の手を確かめる。が、そこには短刀も血の跡もなくきれいなものだった。夢を見たのか。

「分かるか?お前、倒れて……」

 本田が言葉を続ける前に頷いた。それ以上聞きたくなかった。それを察したのか、本田は話題をさらりと変えた。粗野だが、城之内ほど愚かな男ではない、と記憶している。

「遊戯がすぐ来るってよ。こっちで送るからいいって言ったのによ。あいつもすっかり過保護の親馬鹿だよなあ……」

 先生が、来る。
 その一言で少しだけ胸がすく。別に他意はない。先生が一番話が通じると思っただけだ。瀬人のため息に何を勘違いしたのか、本田は小さく笑みを浮かべた。

「あいつは末っ子だったから、お前が可愛くて仕方ないんだろうよ」

 末っ子。
 瀬人はわずかに顔をしかめた。あのがらんとした広いだけの屋敷には、先生と女中以外の人間の影を匂わせるものが何も無い。一度遠い異国に祖父が住んでいると聞いたことはあるが、その他の人間は話題にすら上ったことが無いのだ。聞いてないか、本田は気まずそうに呟いた。

「お前がまだ生まれたての赤子だった時、戦争があったんだよ。国の中でな。ひでえもんだったが……そん時にお侍が遊戯のとこに乗り込んできて、遊戯以外はみんな死んじまったんだよ」

 祖父は外国に居て助かったが、先生は書庫の奥に隠れていたために命を免れたのだという。ふっと、頭が勝手に忘却を目論んでいたあの男の声が頭の中で響いた。夏、寝間、風鈴、障子、血、刀、どうしようもなく浅ましい自分の、声。

「ボウズ?」
「本田くん!瀬人くん!瀬人くんはっ!」
「オイ遊戯あんま騒ぐなよ……大したことはないって伝えたろ」
「で、でも……っ、瀬人くん大丈夫!?」

 真っ青な顔をした先生が瀬人の手を握りこんだ。外から駆けつけてきた先生の手はひどく冷たい。硬い寝台の布団から出ていた瀬人の手も冷えてしまっている。ひやりとした温度をどうすることもできない事実を否定したくて、先生の手を思い切り振り払った。

「瀬人くん……?」

 いつものように、過剰な心配性な先生が不安そうな表情をする。先生はいつも通りだ。最初に会った頃から先生は変わっていない。変わったのは瀬人だ。いつの間にこんなにこの人間を頼るようになっていた。油断していた?初めはきちんと警戒して疑えていたはずなのに。

 この男も、瀬人と同じでしかない浅ましい存在かもしれないのに。
 どうして信用できていた。

(2008-12-27)

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