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先生と紅茶 (パラレル)



先生と瀬人

 その日はいつもと違うことと言えば、先生が随分早くに起き出して来たことくらいだろうか。ひょっとすると眠れなかっただけかもしれないが、特に寝不足といった様子も見られなかった。かと言って何をするでもない。書斎のソファで本を読む瀬人の隣に座って、こちらをじいっと見ているだけなのだった。
 いつもより少しだけ早い朝食を採って、いつもと変わらずに勉強を始める。瀬人の間違ったところを先生が赤いインキで正して、先生が飽きたら終わりだ。あとは書斎でうだうだしている先生を横目に本を読んで過ごす。だが取り留めの無い話が瀬人の読書を妨げるので、もう本は机に放ってしまった。いつかも聞いたような季節の話や遊歴の体験談をぼうっと聞き流す。いつもは相手にしない瀬人が良い聴衆となってやっているのが嬉しいのか、先生はいつもより楽しそうに話しているようだ。

 ゆっくり日が過ぎればいいのにと思った。
 贅沢は言わない、今日一日だけでいいのに。

 だが一刻一刻と鐘のうるさい大時計の針は進み、一刻一刻と窓の外の陽光は春先のごとく咲き乱れ、冷気を伴って枯れていく。夕飯を済ます頃にはもう、書斎は灯が無ければ真っ暗だった。

「やっぱりまだ陽が短いね」

 先生は無感動にそう言って、書斎の暖炉に火を入れる。木や新聞紙がぱちぱちと爆ぜ、部屋を暖めるのをじっと見ていた。先生の大きな目が瀬人を探して暖炉から戻ってくる。ソファから視線を送っている瀬人をすぐに見つけて、先生はにっこり笑った。

「今日はなんだか、まだまだ話し足りないんだよ」

 だから夜更かししちゃおう。いたずらの相談のように声を潜めて、先生もソファに腰掛けた。折良く、女中が食後のお茶だと言って紅茶を運んでくる。礼を述べる先生に、女中は名残惜しげにしつつも、ゆっくりと部屋を出て行った。

「うん。やっぱりキイムンはおいしいね」

 相変わらず多量に入れられたミルクを喜ぶ先生を呆れる。元々甘い茶だというのに。ぱちぱち、暖炉の火が爆ぜる。二人並んで明後日を見ながら、その音だけを肴に紅茶を呷っていた。静かだ。話し足りないなんて言うくせに。

「君は、」

 やっと先生が言葉を出したのは、先生も瀬人も紅茶を飲み干してしまってからしばらくだった。宙に書いている字を読み上げるように、どこか空々しく先生は切り出す。

「君は、あの日記を読んだ?」

 ひとつ頷く。

「ボクにはたくさん兄弟が居たんだ。でも、みんな死んじゃった。あれを書いたひともね」

 書庫の男の姿は、未だ鮮明に瀬人の中にある。それを先生は知るべきなのに、結局何ひとつ伝わらないままだ。もどかしい思いに身じろぐが、先生は気づかない。

「ボクは立派な人になりたかった」

 意味を測りかねる瀬人の反応を楽しむように、先生はこちらを見て小さく笑う。暖炉の火が小さく揺れて、部屋の光も小さく揺れる。

「ボクは一番下の味噌っかすだったからね。よりによってそんなボクだけになっちゃったから……。だからボクは、あの世で叱られないようにあれこれと頑張ってみたんだよ」

 失敗ばかりだったけど、先生は照れたように続けた。
 確かに、味噌っかすの先生も失敗ばかりする先生も想像は簡単だ。ちょっとは意外って顔してみせてよ、先生はふざけて拗ねてみせる。

「色々やってきたけど……立派な人になれたかどうかは、分からない。多分、なれてないって怒られちゃいそうだね。でもボクは今の毎日を楽しく過ごす方法を知ってるんだ。退屈に勝つゲームの方法をね」

 それって、すごいことだと思わない?
 先生は愉快げに同意を求めてきた。やっぱり呆れて頷くこともしなかったけれど、瀬人にとって先生は『先生』なのだ。立派な人かどうか、勝負の勝者かどうかは瀬人にとって知るべくもない。だが、瀬人は先生を『先生』と仰ぐことに疑問を覚えない。

「特にね、君と出会ってからのボクは勝ち続きだったんだよ」

 瀬人くん、先生が瀬人を呼ぶ。少しためらいながら、困ったような笑顔で明後日を見て何かを言いかけた。

 声を――

 でも途中でやめてしまって、なんでもない、と言いかけた言葉を暖かい部屋の空気に霧散させてしまった。

「ひとつ、お願いがあるんだ」

 しばらくこうさせてて。先生が瀬人を抱き締める。もう瀬人は抵抗することも馬鹿らしくて、それを甘んじて受け入れた。だってもう、先生の気まぐれに呆れることも、先生の我侭に引っ張りまわされることも、こうしてうるさいぐらいに触れられることも、明日からは無いのだ。全く無になってしまうのだ。だったらもう、瀬人は黙るしかない。

 先生が本当に瀬人に頼みたかったことは、分かっている。

 ぎゅっと、優しい先生のシャツを初めて握り返した。そう、先生は優しい。こんなにも浮世に生きるものを優しいと思うのはきっと、後にも先にも先生だけだ。なのに先生は、明日からはもう瀬人の傍には居ないのだ。

 先生の膝の上で瀬人は寝付いてしまったようだった。明るい光の中で揺すり起こされて、朝餉にしようと先生が笑う。それにむっとしつつ起き上がった。いつも寝汚い先生に起こされるのは屈辱だ。やたらと手の込んだ朝食をやっと半分ほど胃に収めて箸を置けば、先生はもう全てを平らげたところだった。相変わらずこんな日にまでよく食べる。
 昼が近くなると城之内が訪れてきて、先生を急かした。と言っても、先生の荷物はほんの少ししかない。あれこれ持っていこうとする先生を女中が諌めて、必要最低限の物を鞄に詰めてやったのだ。その一番下にはあの男の日記が敷かれているのを、瀬人は知っている。

 くすんだ茶色の外套を身に着けた先生の後を追って、玄関に出た。

「目立つといけないから……ここでお別れだね」

 握手しよう。先生が手を伸ばして無理やり瀬人と握手をしていく。瀬人をしばらく見下ろしていた先生は、城之内の声でやっと瀬人の手を離した。踵を返して、屋敷から出て行こうとする。先生はこれから、人の目を避けながら少し西へ下って、商船に紛れて異国へ旅立つのだという。海をいくつも渡って、遥か遠い国で暮らすのだと。

 書斎がふやけた幻想を見せるのではない。
 瀬人自身が、ずっと、あんな毎日を繰り返していたかったのだ。

「……っい!」

 かすれた、ほんの小さな音でしかなかったのに、大音声でも聞いたように先生が振り返ってきた。その驚いた表情に喉が潰れかかるが、ずっと封じていた音の出し方を必死に思い出す。口で言わなければ、呼ばなければ、先生はもう行ってしまうんだ。

「せ、せんせい」

 しばらく驚いた表情のまま動かなかった先生が、ゆっくり瀬人の元まで戻ってきた。そしてしゃがみ込んで、瀬人と目線を合わせる。

「……ずっと、待ってた」

 先生の大きな目は、赤みがかった色をしている。その瞳いっぱいに、瀬人の姿が映り込んでいた。それを忘れないように、瀬人も目に収めておく。

「ボクは、ずっと待ってたよ。ずっと君のその声が聞きたかったんだ。ボクはね、今、とっても嬉しい。分かる?」

 瀬人が頷く前に、もう一度先生は瀬人を抱きすくめた。

「ボクは君にとっていい『先生』じゃなかったかもしれない。でも、ボクはいつでも君の全てを待ってるんだから。いい先生では無いけど、それだけは確かだから」

 瀬人から離れた先生が、瀬人の右手を取って、先生の左胸へと運んでいく。だから、君の心がボクを探す時はいつでも――

「また、会おう。そして一緒にまた、紅茶を飲もう」
「……はい、先生」

 ずっと声を出すことを忘れさせていた喉は、かすれてひしゃげた変な声しか出さなかったけれど、先生は満足げに笑った。

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