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先生と紅茶 (パラレル)



先生とこえ

 ちりりん、

 涼しげな音が軽やかに響いた。ついこの間どこぞの商人が持ってきた風鈴だろう。藍を薄く引き延ばしたような硝子の色を気に入っていた。さてどこの軒に吊り下げてあるのだったか。長い縁側を走る。

 ちりちりりん、

 走っているのとは逆の方向からからかうような軽い音が聞こえてくる。逆だったのか。縁側の古い板をとたとたと踏み抜く音だけが風鈴の後を追っている。そう言えば今日は妙に静かだ。ふと足を止める。いつもはたくさんの使用人が忙しく行き来しているというのに。

 ちりん、

 縁側に降り注ぐ夏の日光が急に陰った。いつの間にか風鈴の音はすっかり止んで、外は夜だ。つんと何か鋭い匂いが鼻をついたと思った瞬間、目の前が真っ赤に染まった。

『忘れるなよ』

 気づけばそこは両親の寝間で、瀬人はぼんやりと血しぶきで染まった障子を眺めていた。

『浅ましくその口で助けを請うたからお前だけは命を永らえたのだ。それを忘れるな』

 はっと飛び起きる。慌てて周囲を確認するが、右も左も真闇しか無い。布団の波を掻き分け、ベッドから飛び出して手近のカーテンを引くが、窓の外もまた闇でしかなかった。ぎゅっとカーテンの裾を掴む。頼りない月明かりだけでも窓枠から取り入れるために部屋中のカーテンを引いて回った。

 こんな調子で、最近あまり眠れない。

「瀬人くん瀬人くん!」

 はっと目を見開いた。先生が書斎に飛び込んでくる。先生の書斎ときたら、仕事のために造られたとは思えないほど日の入りがいい。ベッドと同じくらい柔らかいソファに、これまた埋まるようになりながらうつらうつらと舟を漕いでしまっていたようだ。足元に読みかけの本が落ちている。もうすぐ読み終わるところだったのに。

「出かける準備してくれるかな?城之内くんのとこに行くんだ!」
「…………」
「……嫌そうだね」

 くす、と先生は笑ったが、笑い事ではない。すぐに怒鳴るわ、その内容に正当性も筋道も無いわ、言うことを聞かなければすぐ腕づくで来ようとするわ、全く粗悪な男だった。二度と会いたい顔ではない。

「瀬人くんは苦手かもしれないけど、すごく頼りになるいい友達なんだよ、城之内くんって。あ、でも見た目はちょっと怖いかもなあ……最初は……」

 怖いわけではないのだ。ただ気に入らないだけだ。先生を睨みつけると、分かってるよと頭を撫でられる。これは絶対に分かっていない。手を振り払う。

「ねえ瀬人くん、一緒に行こうよ」
「……」
「だって、珍しい紅茶を仕入れたって連絡が来たからさ!持ってきてもらってもいいんだけど城之内くんも忙しいし……。早く飲むためには取りに行くしかないでしょ?」

 一人で行け。

 心底そう思ったが、先生は気づく素振りもない。アッサムの王室御用達ブレンド……などと全く意味が分からない単語をうっとりと呟いている。仕方なくその手をぐい、と引っ張った。行くよね、と聞かれたので首を横に振る。

「ええー!だめだよ!」
「……」
「絶対一緒に行くんだからね!……ん?」

 顔を近づけて喧しく駄々をこねていた先生が、そのままの位置で眉根を寄せた。何だ、と目で問うと、黙って額に手を当ててくる。

「……顔色が悪いよ。大丈夫?」

 悪くない。断じて。心配そうな先生の手を思い切り振り払い、隅に控えていた年老いた女中から自分の外套を奪い取る。

「い、行くの?お留守番しててもいいよ?」

 面白い。逃げるのは自分の性分ではないのだ。城之内の家でも地獄でもどこまでも行ってやろうではないか。でも紅茶を受け取ったらさっさと帰るんだからな。

「When shall you come to see me next time?」
「ああん?何だよ?オレも向こうじゃ頑張ってエゲレス語喋ってんだから、お前もこっち居るときぐらい日本語使ってみる努力とかしてみろって!」
「What?」
「あー、Ah―ったく!ん?……おー!遊戯じゃん」
「やあ、城之内くん」

 乗り心地の悪い馬車から降りると、城之内が背丈のある異人と話しこんでいるところと遭遇した。二人の男の背後にそびえるのは城之内邸の門で、その後ろに大きな屋敷が控えている。良い思い出の全く無い場所だ。酷かった馬車の揺れに若干酔いつつも、忌々しくそれを睨み上げる。

「しっかし、本当お前って紅茶って言った時だけは飛んでくるよな」
「ごめん、忙しそうだね」
「いいっていいって、そうでもねえから。今もう家に帰るとこだったんだよ」

 間抜けな笑顔のままの城之内の視線がふと瀬人の位置まで落ちてくる。冷たく笑ってやると、城之内はたちまち気色ばんだ。単純な奴め。

「遊戯、ソイツ連れてきたのか?」
「うん!もう可愛くて仕方なくて!ちょっとでも離れたくないんだよー!」
「……へー」

 城之内がげんなりと顔を歪ませて、お前はこれで良いのか、と声に出さず問うてくる。もちろん良いわけはない。だが城之内に同意するよりはマシだ。フン、と顔をそらしてやる。

「んのクソガキ……!」
「城之内くん?」
「Hey, Mr.Goulden! He’s Yugi Muto.You know him, right?」
「Oh, yes, yes! Hi, Mr.Muto! I’m glad to meet you, sir.」
「Nice to meet you, Mr.Goulden?」
「Oops, sorry.I’m Albert Goulden. The book moved me deeply!」
「Thank you. I’ll tell Grandpa.」

 全く意味の分からない音の連なりが、意味を持って三人の間を行き交っている。どこか違う世界に突然迷い込んでしまったかのような疎外感だ。城之内が愉快そうに瀬人を見下ろしてくる。悔しいが対抗策は無い。また噛み付いてやろうかと構えていると、先生がふと異人との会話をやめた。

「あ!城之内くん!そうだよ紅茶だよ!」
「……はいはい。Mr.Goulden, I have to say good bye.Do you know your way?」
「That’s all right. See,」

 先程乗ったものと同じような馬車が門の前に滑り込んで来る。二、三先生と言葉を交わして、男は馬車と共に道の向こうに小さくなっていった。それを少し見送って、城之内がこれ見よがしに腰に手を当てた。

「どーだ?この仕事ぶり!見たか!参ったか!参ったって言え!」
「……っ!」
「城之内くん!」
「止めんな遊戯!こいつ、オレのこと一発あたりの運だけの商人とか思ってんだからよ!絶対そうだから!」
「もー!そんなこと思うわけないでしょ!ねえ瀬人くん」

 心の底から思っていた。心を読まれたのかと思った。

「大人気ないよ、城之内くん!瀬人くんってすっごく頭良いんだからね!教えたらエゲレス語なんてすぐにボクたちより上手くなっちゃうぜ!」
「無い無い、無いね。オレだってここまで覚えんのに結構かかったんだぜ?」
「やってみたら分かるよ!よし瀬人くん、今度からエゲレス語やってみようね!」

 先生の言葉に深く頷いた。毛唐の言葉に興味は無いが、すぐに覚えて城之内の鼻を明かしてやるのだ。城之内はいささか面白くなさそうにしつつも、先生を家の中へ招き入れた。その後に続く。

「帰ったぞー!」
「相変わらず……入り乱れてるというか……すごいね」

 平安時代の絵巻物にでも出てきそうな屋敷の中には、見たことも無いような異邦の物が統一感無く転がっている。

「エゲレスやそこらの奴らには、こういう日本『っぽい』のが受けるんだよ」
「お兄ちゃーん!」

 古い板の張られた廊下の向こうから響く声にびくりと肩が跳ねる。無理やり手を掴んで来ている先生はそれに気づいたようで、不思議そうにこちらを見下ろしている。

「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
「おう!今日は遊戯たちも一緒だぜ!」
「わあ、本当!こんにち……」

 この世に生れ落ちてから一度も人を疑ったことのなさそうな大きな目が、きらきらと瀬人を視界に入れた。後ずさりたくなる衝動を必死で抑える。

「瀬人ちゃん!!」

 嬉しそうな笑顔が弾けて、城之内の妹、静香はくるりと廊下を戻っていった。先生も城之内も不思議そうな顔をしている。これから始まる悪夢などまるで知り得ないに違いない。
 とたとたとた、とまた廊下が鳴る。

「もう、私の知らない内に遊戯さんのところに行っちゃうんだもの!せっかく部屋をお掃除してこんな可愛い服見つけたのに!」

 ばさあ、と静香は広げたのは、この家のように和洋入り乱れた数枚の服だった。――女物の。

「あの……静香?」
「なに?お兄ちゃん」
「えーっと……分かってると思うけど、瀬人くんは男の子だよ?」
「はい!でも私妹が欲しかったんです!」

 何が『でも』なのか全く分からない。分かりたくもないが。
 この静香と言う女は、二人きりになるとどうにかして瀬人にこういった服を着させようと必死に画策してくるのだ。思い切り顔をしかめていると、先生は苦笑した。

「静香ちゃん……その、残念だけど……今日はホラ、紅茶もらいにきただけだから」
「あ、ごめんなさい私ったら!遊戯さん忙しいのに……」
「あはは、そうでもないんだけど今日はちょっとね……」
「あーじゃあオレ紅茶を……」
「私取ってくるね!」

 とたとたとた、また静香の背が遠くなる。
 そういうわけであんまり長居していかないけどごめんね、と先生が城之内に謝った。城之内は複雑そうな顔で笑っただけだ。
 その場の空気を取り繕うように始まった雑談を横目に、長い廊下とその天井を見上げる。縦横に走る梁を目で追っていくと、そこにできた薄闇が蠢いているように見えたりする。どこまでも長い廊下は似ていると思っていた。昔の家に。

「……瀬人くん?」
「持ってきましたー!」
「悪ィな静香、ホレ」
「うん、ありがとう城之内くん、静香ちゃん。じゃあ……」

 頭の上に優しく手のひらが乗せられた。視線を動かすと、柔らかい笑顔とぶち当たる。書斎をふと思い出した。仕事には全く向かない、あの。

「じゃあ、帰ろっか。瀬人くん」

 長い廊下の向こうには何があるだろう。
 薄暗い梁の下には何があるだろう。
 梁の続く先の寝間には何があるだろう。
 それを見た自分は何と言うのだろう。

 ちりりん、

 瀬人はむくりと身を起こした。右も左も、やはり真っ暗闇だ。布団に溺れながら何とかベッドから抜け出して、いつものようにカーテンを引いて回る。しばらく暗い窓の前で呆然として、そして何かに弾かれたように部屋の扉を飛び出した。明かりひとつない暗い廊下を走る。そろそろすっかり慣れてしまった道を辿って、月夜に薄く光る扉の前に立つ。
 取っ手にかけた手を引っ込めて、また伸ばす。それを4回ほど繰り返して、舌打ちを吐き捨てた。まったく、何を考えているのか。威勢よく踵を返そうとする――その瞬間に目の前の扉が動いた。

「っ、!」
「うわ!あ、あれ?瀬人くん?」

 部屋の主であるはずの先生は何故かひどく驚いて、珍しくかけている眼鏡について『老眼じゃないよ』などと間抜けな言い訳をしている。

「どうしたの?……ボク?ボクはね、本を書庫に戻そうと思ってね――題?題までは言えないよー!瀬人くんにはまだ早いぜ!」
「…………」

 何も聞いてすらいないのだが。冷たい目で見上げるが、先生は応えた様子もなくにっこりと笑ってみせた。扉を軽く押して瀬人が通れるぐらいの隙間を作る。

「でも別に明日でもいいかな。入っておいで」

 夜でも先生の寝間は仄かな明かりが揺らめいている。扉の前で逡巡していると、先生は無理やり手を引っ張ってきた。そのままベッドに連行される。ほら、と押し込められたそこは瀬人の部屋のものよりずっと柔らかかった。

「眠れないならボクのおしゃべりに付き合ってよ」
「……!」
「眠れないわけじゃないの?でもいいでしょ?ばあやが寝ちゃったら、夜は誰もボクの話を聞いてくれないからさあ」

 瀬人の隣に並んで横になった先生は、昼間のように明るい声を弾ませている。エゲレスやフランス、プロシアなどを遊歴して回った話が多い。少しは落ち着けんのか。

「それで、女王様に挨拶をだね――って、あれ……」

 どうしてだろう。
 血のつながりも利害関係も何もあったものではない、数週前に知り合ったばかりの人間なのに。

「もう寝ちゃったかな?」

 どうして、

「今日はゆっくりおやすみ」

 先生には分かってしまうんだろう。

(2008-01-14)

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