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先生と紅茶 (パラレル)



先生と梅雨

 窓の硝子が雨を受ける度に震えて音を立てた。その向こうの景色は濛々として霞んでしまっている。昼下がりだというのにいつもと違って薄暗い書斎で、瀬人は手にしていた本を閉じた。

「あー……。あーあ……」

 読み終わったからではない。はたきで暖炉の埃を払っている先生の頻繁なため息がうるさかったからだ。大体、暖炉の掃除なんて女中にやらせればいいのに、ぱたぱたぱたぱたやかましい。

「ねえー瀬人くん」

 瀬人の煩わしげな視線に気づいたわけでもないだろうが、今日の空模様のようにどんよりと先生は瀬人を呼んだ。その間も、やる気なく先生のはたきは上下している。

「雨だねえ」
「…………」
「もう何日これだと思う?もうヤになっちゃうよ」

 それを毎日、いや数刻おきに聞かされる瀬人ももううんざりだ。梅雨に入った当初は番傘片手に雨を楽しんでいた先生も、さすがにこの長雨には辟易しているらしい。

「はあー……。今日の雨は一際ひどいねえ。こんなんじゃどこにも遊びに行けないよ」

 瀬人くんもそう思うでしょ、と同意を求められて呆れた視線を送る。憂鬱になる理由が丸きり子供だ。もっと他に無いのか。

「明日の夜には少しは上がってもらわないとね……。せっかく観劇に行くんだし」

 楽しみにしてるんだからね、とまた同意を求められて今度は驚いた。そんな話全然聞いていなかったのだ。雨中の散歩も、雨中の外食も、明日の観劇も何もかも唐突で、連れ回される身にもなって欲しいところだ。

「海も大荒れだね、きっと。城之内くんが文で今日支那の港を発つって言ってたけど……これじゃなあ。多分出港は延期だね」

 支那の六茶……などと先生は落胆のため息である。気に入りのキイムン紅茶も切れてしまって、城之内に重々仕入れを頼んでいたから失望も一入のようだ。

「城之内くんちゃんと帰ってこれるかな……心配だなあ。梅雨なんて早く明ければいいのにさ」

 雨の中飛び出して、見つけた紫陽花を愛でながら『ずっと梅雨でもいいね』と言って喜んでいたのはどこの誰だったか。もしかするとあれが祟ったのではないかと教えてやりたい気分である。
 もう何度目か分からないため息を吐き出して、先生ははたきを暖炉の隅に立てかけた。ああいう中途半端なことをするからいつも女中に小言を漏らされるのだ、とは思ったが指摘するのも面倒なので放っておく。後で女中に洗濯物と一緒に竿に干してもらえば少しはこの湿り気も抜けるに違いない。

「んー……」

 手持ち無沙汰な先生は書斎の革張り椅子に飛び込んだ。ギイ、と椅子が悲鳴を上げる。その後はざあざあと絶え間ない雨の音だけが部屋を包んだ。先生が黙るとこの屋敷はたちまち静かになってしまうのだ。

「そうだ!」

 突然の大声に、やっと落ち着いて読めると本を開こうとしていた瀬人は小さく飛び上がってしまった。思いっきり先生に非難の目を向けたが、こちらを見てすらいない。ばあや、ばあやとやかましく女中を呼び立てている。

「ここに」
「うん!何でもいいからさ、いらない布をいくらか探してきてくれないかな?白がいっぱいあるといいな!」
「かしこまりました」

 しばらくして手渡された籠に詰まった大量のボロ布を見て、先生は歓声を上げた。怪訝にそれを見つめると、うきうきと先生はソファの隣に腰掛ける。

「何するか気になる?」
「……」
「てるてる坊主だよ!一緒に作ろ!」

 憮然とする瀬人をふふ、と笑って先生は楽しそうに布を漁っている。てるてる坊主などその姿を見るのも、名を聞くのさええらく遠い昔のことに思えた。本当に幼い頃、奉公人たちに教えられて作ったようなことがあった気がする。それぐらいおぼろげで、安穏の象徴だった。

「城之内くんのためにもたくさん作らないとね」

 色の付いた布をいくつか丸めて、それを包むように白い布をかける。それからその首をきゅっと紐でくくって完成だ。随分と手馴れた手際である。梅雨の度に作っていたのだろうか。呆れる瀬人に先生は無理やり布を押し付けた。

「ほら、瀬人くんも」
「……」
「どうしたの?作り方分からない?教えてあげよっか」

 こんな簡単なもの、作り方が分からないわけもないのだ。手を動かし始めた瀬人を先生は満足そうに笑った。

「うんうん、上手だよ!」
「……」

 別に先生に言われたから作ってるわけじゃないぞ。
 もちろん、瀬人の無言の抗議など先生は気づくそぶりもなく上機嫌だ。先程までの退屈そうな気だるさはどこへ行ったやら。

「晴れてほしい時って、日本じゃてるてる坊主だけど、支那ではほうきを持った女の子の飾りを飾るんだって」

 支那で人に招かれた時にその家で聞いた話らしい。てるてる坊主の話が、気づけばその家で出た桃の香りの白湯の話になり、ついには祝日に合わせて出された月餅の話になった辺りで瀬人は先生の袖を引っ張った。結局食い気か。

「ん?ああ、支那のね。その女の子って、嫁に来ないと街を雨で沈める!って竜王さまに脅されて、皆を救うためにお嫁さんになった子の伝説から来てるんだって。でたらめな竜王さんだよねえ」

 竜王に腹を立ててか、先生はきゅっと一際強くてるてる坊主の紐を引いた。これで三個目だが、まだ作る気なのだろうか。新しい布を探っている。

「ボクだったら、どんな絶世の美女だって、仙女さまがそんなこと言ってきても絶っ対!瀬人くんは渡さないよ!」

 いきなり引き合いに出されて話に追いついていけない。だが見上げる先生の横顔は真剣そのものだ。瀬人くんは諦めてもらって、雨も止めてもらうように説得してみせる、と意気込んでいる。伝説に対して何を勢いづいているのだろうか。そもそも仙女って何だ。
 だが呆れながらも、妲己もかくやという美女仙人相手に膨れてみせる先生が簡単に想像できて、瀬人は少しおかしくなった。

「あ!」

 また突然大声を上げられて顔をしかめると、今度はだめだよ!と窘められた。何について指摘されているかさえ分からず益々眉根を寄せる。

「だめだめ!さっきのもう一回!」
「……?」
「せっかく可愛く笑ってたんだから!瀬人くん、もう一回!」

 笑っていた?しかもそれを先生に見られた?何とも言えない腹立ちがせり上がってきて、瀬人は思いっきり先生からそっぽを向いた。ああ、とまた湿っぽい落胆のため息を漏らす先生を捨て置いて、完成したばかりの顔の無いてるてる坊主を持って立ち上がる。軒端に吊るそうにも、窓が大きすぎて手が届きそうに無い。仕方なく暖炉の端にてるてる坊主を引っ掛ける。もっと雨が降ってしまえばいい、とヤケクソの逆さ吊りだ。

「もー……瀬人くんは」

 後から追いついてきた先生は、瀬人のてるてる坊主をきちんと吊り直した。その手に抱きかかえられている沢山のてるてる坊主は、椅子でも使って軒端に吊るすつもりなのだろう。

「でも、瀬人くんが笑ってくれるなら雨も悪くないけどね」

 笑って、先生はてるてる坊主のひとつを瀬人のものの隣に吊り下げた。

(2008-06-23)

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