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6月4日はバスに乗って



 その荷物は、何の変哲もない夕方、学校から帰ってきてごろごろゲームをやっているところにやってきた。青一色の味気ない箱で、表面には『天地無用』『取扱要注意』が殴り書きされてある。不思議に思って箱を持ち上げようとしたところで、慌てて母親に止められた。

「できるだけ動かさないようにって言われたのよ!怖いからあんまり触らないの!」
「誰から?伝票とか付いてないみたいだけど……」
「それがアンタに渡してくれの一点張りだったのよ。一体なんなのかしら……アンタまた何か怪しいことに巻き込まれてるんじゃないでしょうね?」
「そんなことない……と、思うけど……」

 残念ながら、厄介ごとというやつには巻き込まれようと思って巻き込まれているわけじゃないのだ。遊戯に全く身に覚えが無くても、突然現れて物知り顔で挨拶してくる、厄介ごとなんてそんなやつだ。
 用心して持ち上げてみたところ随分軽い物のように思える。危険物の可能性に恐れを成しながらも、恐る恐る箱を開けてみる。

「何だった?」
「……」
「遊戯?」

 言葉を失った遊戯を、母親は不審そうに見つめてきてている。

 特に理由が無い、というのは、本当に珍しいことだったように思う。特に、海馬と遊戯の間に関しては。だがいくら探そうとしたって理由もきっかけも見つからないのだから、それは「なんとなく」ということになるのだろう。
 しばらくアメリカで会社の仕事と自分の夢とに精を出していた海馬は、卒業を半年ほどに控えて学業に構う余裕を見出したらしかった。ちゃんと卒業する気あったんだなとは城之内の言だが、クラスの誰もの胸中の代弁でもあっただろう。そうして度々その姿を学校で見つけることができるようになってから、遊戯は海馬とよく決闘をするようになった。始めは放課後教室に残って闘っていたが、そこではもちろん海馬の納得のいく演出などできようはずもない。そういうわけで、次第に舞台は海馬の屋敷に移ることとなった。

 本当にきっかけらしいきっかけは無かったのだ。自分や友の命運を背負っているわけでも、負けて恐ろしい罰ゲームが待ち構えているわけでもない。顔を合わせれば言葉も無く、なんとなく決闘が始まる。

 その日もそんないつもと変わらない一日にカウントされていて、遊戯はなんとなく海馬の家に居た。高い背中はまっすぐピンと伸びていて、比較的広いスペースのある応接室に遊戯を導いている。いつもは黙ってそれに続くが、今日の遊戯は少しだけ事情が違うのだ。

「海馬くん」
「何だ」

 遊戯が立ち止まると、煩わしそうにしながらも海馬も足を止めた。怪訝げにこちらを振り返ってくる。

「あのさ、少し時間ある?」
「……何が言いたい」
「今日は決闘は休み、ってことで……だめ?」
「意味が分からんぞ」

 海馬にとってすれば遊戯はここに決闘をしに来た対戦相手に過ぎない。決闘をしなければ一体何をするというのか、とかなんとか、その渋い顔が雄弁に語っている。なんだかそれが少しおかしくて、笑ってしまいそうだ。

「ちょっと付き合ってほしいんだ。ちょっとでいいからさ」

 どうせ口の上ではいい返事は返ってきそうにないので、遊戯は身を翻してカーペットの敷き詰められた廊下を逆戻りし始めた。少し緊張して後ろを確認すると、不本意そうな顔をしつつも海馬は後に続いて来ている。それに満足して大股で歩いた。手を大きく振る。長い廊下を抜け、広い玄関を抜け、大きなドアを抜け、噴水や庭木など浮世離れした前庭を抜け、門を出たあたりで海馬は耐えられなくなったようだった。

「どこへ行くつもりだ。あまり時間を取るようなら車を……」
「いいよ。歩けるよ。歩きたいんだ」

 海馬はやはり腑に落ちない、といった表情をしている。それをこっそり笑いながらまた歩く。なんだか海馬の前に立って歩くというのも不思議な気分だ。海馬邸を出てすぐの坂道を登ると、そのてっぺんにはバス停がある。昔、『お見舞い』に使った道だ。

「遊戯」
「うん、良かった。間に合った」

 海馬の声には遊戯を咎める色が多分に含まれていたが、遊戯は気づかないフリをして自分の時計と時刻表とを見比べた。何せこんなところにあるバス停だから、一本逃せば次のバスまで随分待たねばならない。だがタイミングにも祝福されているらしく、間髪を入れずにボロなバスが滑り込んできた。ためらい無く乗り込もうとする遊戯の腕を海馬が取った。

「おい」
「あ、ひょっとしてアレでしょ、カードしか持ってないとかそういうやつ!漫画とかのお金持ちの定番だよねー。大丈夫大丈夫、ボク持ってるから。今月はおこづかい多めだったんだよ」
「そういう問題では……!」
「あ、すみません今乗ります!」

 運転手がマイク越しに声をかけてきたのに返事をする。体格差から言って、海馬が本気で抵抗すればバスに一歩だって入れなかっただろうが、遊戯は易々と乗り込むことに成功した。不機嫌と不本意と怪訝を遠慮なく遊戯に突き刺している海馬までちゃんと付いてきている。嬉しくなって思わず微笑む。

「貴様は何がしたい」

 低い唸りには聞こえないフリで対応しておく。きっと言えば怒り出してバスから飛び降りでもしそうだ。本当に激しい人だし。敢えて言うなら今日の遊戯は浮かれている。そして今日は浮かれていても構わない日なのだ。

「よし、海馬くん着いたよ!」
「……」

 二人分の料金を払ってバスから飛び出す。夕暮れ時、人の流れの激しい駅前だ。この距離なら車でも問題なかったはずだろう、海馬の文句は絶えない。それをBGMに街中を進んでいく。

「おい、遊戯聞いているのか!」
「うん、聞いてるよ」
「ならばさっさと事情を……」
「聞いてるから、ほら、あれ行こ」

 海馬の服を少し引っ張って指で示した先には、大きなゲームセンターが待ち構えていた。城之内たちとよく行く店だ。最新のゲームもすぐ入るし、何より遊べるゲームの数が多いから重宝している。

「……商売敵だぞ」
「何て言うんだっけこういうの……えー、あー……そうそう、テキジョウシサツ」

 ドス黒い声色にも動じずに嘯いてみるが、やはりしかめた顔しか返ってこない。だが今日行かなければ、他にいつ行くのだろう。遊戯と海馬はしばしば向き合って決闘する、互いにとって互いは対戦相手でしかない。少なくとも海馬は、今、遊戯に対してそれぐらいの認識しか持っていないだろう。遊戯もそれで構わないと思っている。だが、今日ぐらいはそれだけで終わってしまうのはもったいない。

「貴様はそんなことのためにこんなところまでこのオレを連れ出したのか!……くだらん。オレにはこんなことのために割く時間は持っていないぞ!」
「……やっぱり、そんなに時間無いかあ……」
「当たり前だ!貴様のような暇人とこのオレを一緒にするな!」

 でも、決闘のためだけど、ボクとの決闘には時間を取っといてくれるんだよね。

 お怒りの海馬のご機嫌をこれ以上損ねないために、遊戯は若干慌てて左右に視線を飛ばした。一応目当ての店は頭にあるが、滅多に行かないので少し自信が無い。

「じゃあ、ひとつだけ。ひとつだけだからさ。ちょっとだけ」
「貴様最初にもそういうことを言っていたぞ」

 ブツブツ言いつつも、遊戯が歩き出すと、苛つきのすぐに出る足音が続いてくる。おぼろげな記憶を辿りながら、後ろからの威圧に耐えつつ街を歩いて、やっと目当ての店を探し当てた。

「あった、あったよ!」

 遊戯の浮かれた声とは対照的に、海馬は何も答えず黙ったままだ。いささか不安になって視線を上げると、海馬の方はこちらを見ておらず、ひたすら店の看板を睨みつけている。やがて遊戯の視線に気づいて、鋭すぎるそれで遊戯を突き下した。

「貴様は本当に何がしたい。いつもオレには……貴様という人間は理解ができん。したいとも思わんがな」
「まあまあ」

 海馬の言葉には皮肉の色が強いようだが、遊戯は日本人らしい反応に撤することにしておく。海馬の後ろに回りその背を軽く押して店に入る。一般的な男子高校生として、先頭を切って入る勇気はちょっと沸いてこない。いらっしゃいませ、と微笑む店員の真下には、ガラスケースの向こうで華やかな菓子細工が並んでいる。遊戯のようなためらいを全く感じさせない様子の海馬は、腕を組んだままつまらなそうにケーキの行列を眺めている。

「それで」
「えーっと……どれがいい?」
「馬鹿か貴様は!!」
「海馬くん声大きい大きい……」

 店の奥の方はカフェになっていて、女性客たちが談笑しているわけだが、海馬の大声にその視線が全てこちらを向いたようで恥ずかしい。顔が赤くなっていないといいが。

「先ほどから何なのだ貴様は!このようなこと、オレが居らずとも一人で済む話だ!それほどこのオレを馬鹿にしたいのならば話は別だがな!」
「そ、そんなんじゃないってば……君がいいんだよ。君じゃなきゃだめだったんだよ。ね、どれがいい?」
「フン、知るか!」

 黙り込んでしまった海馬にこれ以上の言葉を求めるのは無理そうだ。できればモクバの好みも伺っておきたかったところだが。困ったなあと頭を掻きつつ、こちらに興味津々な様子の店員に、オーソドックスにショートケーキを3つ頼む。

「あ、それと……」
「はい?」
「あーその……やっぱいいです」

 ケーキちっちゃいし、何より恥ずかしいし。

 遊戯の挙動を不審に思ったらしいが、店員は特に追求もせずにケーキを箱に詰め込んだ。告げられた代金と引き換えにそれを受け取る。

「よし。ありがとう、海馬くん。帰ろっか」

 返事は無いが、相変わらず不機嫌面の海馬はさっさと歩き出して店を出て行ってしまった。それを慌てて追いかける。てっきり車でも呼ぶのかと思ったが、その足は恐らく元来たバス停に戻っているようだ。それに気づいて、遊戯は危うく噴き出しそうになった。なんとか堪えて、またもタイミング良く滑り込んだバスに乗り込む。この辺りから海馬邸付近方面のバスは比較的本数が多い。
 バスの中にはそれなりに人が居たが、丁度二人掛けの一席が空いていたので、海馬の背を押して促した。視線は厳しかったが、海馬は一応その片手に従って座ってくれた。ガタガタよく揺れる車内は、街の喧騒を突っ切って進む。人々の低い囁きが耳に波を作って打ち寄せてくる。

「海馬くんってさ、ケッコー変わったよね」

 その波にまぎれてぼそぼそと喋ると、窓の外を見ていた海馬がこちらを向いた。怪訝げに歪められているだろうと思っていたその顔は意外に表情が無い。

「前だったら絶対、ボクがちょっと付き合ってって言ったって、聞いてもくれなかったと思うよ。こうやってバスに乗ってくれるなんて無かったと思うし」
「……せいぜい感謝しろ」
「してる。してるよ。ありがとう」

 思わず笑う遊戯から、海馬は興味も無さそうに目を逸らした。それからまた、ふいと窓の外を見遣る。

「それは貴様の主観だ」
「……え?」
「変わっただの、変わらんだの、それは貴様から見た一面に過ぎん。そこから結論を導き出すのは安易に過ぎる」

 こちらをちらりとも見ずに囁かれた早口言葉は、遊戯の右耳から左耳をするりと通過した。まさかまだ言葉を続けてくれるとも思っていなかったのだ。慌てて海馬の低い声を脳内で反芻して、その意味を探ろうとしてみる。

「それってさ、ボクだから付いてきてくれた……ってこと、に……聞こえるけど……」

 海馬からしてみれば本当に馬鹿らしいだろう時間をかけて、遊戯はやっとそれだけを口にした。やっぱりそれに対する海馬からの返事は無い。フン、と冷たく笑われただけだ。顔は見えないが、確かに嘲笑された。馬鹿みたいに時間をかけた答えは、やっぱり海馬にとって馬鹿みたいなものでしかなかったのだろう。でも、もし、万が一でも、そうだったら遊戯はとても嬉しいと思うのだ。

「そうだったら、それってさ―――」

 海馬が不可解そうにこちらをちらりと見る。それでもそこまでで口をつぐんだのは、それ以上言葉にしてしまえば、せっかく組み上がったものが崩れてしまいそうだったからだ。言ってしまえば全てがだめになってしまうような気がして、適当な言葉で濁して黙る。海馬はつまらなそうに息を吐いただけだ。
 バスからどんどん人が降りて減っていって、不思議と心地良い沈黙の向こうでやっと海馬邸の近くのバス停に辿り着いた。ケーキの箱をなるべく揺らさぬよう勤めながら正門の前まで下ると、そこには小さな影が仁王立ちして待っていた。

「あ、モクバくん……!」
「遊戯お前ー!兄サマは忙しいんだぞー!!」
「あー……ごめん……」
「もっと言ってやれ。このオレの貴重な時間の損失は貴様ごときでは補償できんとな」
「本当だぜぃ!今日じゃなきゃ許さないとこだからなー!まったく!」
「……『今日じゃなきゃ』?」

 モクバの言葉を、海馬が復唱してみせる。怪訝そうな兄の顔をこれまた怪訝そうに弟が見上げている。遊戯は慌てた。しかし、まずいと思った頃には既に従順な弟の口は開かれている。

「あれ、兄サマ知ってたんじゃ……?」
「何をだ」
「あー!いや、その!モクバくんほら、ケーキあるよケー……」
「何って誕生日だぜぃ。遊戯の」

 ピリ、と硬化した空気に思わず遊戯は肩を竦めた。だから言わなかったのに。祝ってほしいとか、そういうことを考えていたわけではなかった。ただ、せっかく世間では祝われる日なのだから。ちょっとくらい、いつもと違うことに踏み込んでみても許されるだろうか、そう考えただけなのだ。

「なんだー?遊戯、お前……言ってなかったのかよ?」
「えー……いやまあ、ほら、こんな歳だし誕生日ってのもアレかなーみたいな……ははは……ああーこれお土産!じゃ!貴重な時間をお邪魔しました!」

 口を高速で動かしてモクバにそっとケーキの箱を渡し、海馬を見ないまま体を反転させる。モクバが引き止める声も聞かずに小走りに逃げ出す。

 別に祝ってほしいとかそんなこと考えてないってば。夜になったらみんながうちに来てパーティしてくれるって言うし。あーそんなことより海馬くんの機嫌直るかなあ。次会った時も決闘してくれるかな。

 誰が覗いているわけでもないのに、矢継ぎ早に思考を回転させて、がっかりしたような、そんな気持ちを押し隠そうとする。頭を抱えて叫びだしたいような、そんな気分だ。

 それってさ―――ふつうの、友だちみたいだよね、ボクと君。

 言わなくて良かった。いや、もういっそ言ってしまった方が良かった?

「なにこれ、すごいわね」

 覗き込んできた母親も言葉を失っている。開けた蓋の下には大きなホールのケーキが待ち構えていた。細かな意匠の飴細工が、そこらのケーキ屋のものとは違うんだぞと個性を訴えかけてきている。きちんと年齢分の蝋燭が既に立っていて、真ん中には、美しいデコレーションとは一線を画した汚い字のチョコプレートが乗っている。曰く、「ゆうぎ たん生日おめでとう」。この字は見覚えがある。恐らくモクバの字だ。

「誰から?友だち?でもアンタ誕生日間違えて覚えられてるんじゃない?これ……」
「ううん。間違ってないよ」

 蓋の裏にはやはり青い封筒が貼り付けてあった。剥がして中身を引き出してみると、海馬コーポレーション系列店で使える(らしい)商品券が入っていた。きっちり――ケーキ3個分とバス一往復分だ。もう一枚白い便箋が入っていたが、それは開かないままにしておく。

「これ、冷蔵庫入れといて!勝手に食べちゃダメだぜ!」
「あ、ちょっと……どこ行くの!」
「うーん、なんだろ、怒られに?」

 手紙の内容は本人に直接聞いた方が良さそうだ。そっちの方が絶対に嬉しい。これがボクの思い上がりじゃありませんように、そう願いながら履きかけのスニーカーの踵を踏む。友だちだからって何もかも分かるわけではないし、むしろ分からないことの方が多いけれど、(そのせいで臆病になったりもするけれど、)多分遊戯は今、海馬の貴重な時間を奪いに行ったって構わないのだろう。

「それ答えになってないわよ!」
「んー……友だちんとこ!」

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