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先生と紅茶 (パラレル)



先生と日記

 朝に近づくにつれ、雨はその足を休めていった。まだ閉じたままのカーテンから薄霧をまとったような朝日が漏れ出ている。ひどい雨がやがて窓を責め立てるのをやめて、諦めて、どこかへ去っていってしまうまでをずっと聞いていた瀬人はぼうっとその細い明かりを見ていた。
 結局、朝が来てしまった。
 いつも同じだ。瀬人が何を考えていようがいまいが朝は来てしまうのだ。そして何を惜しんでも昼は来て、何を悔いても夜は来る。それは子供にも大人にも変わり無く訪れる真理というやつだろう。夜通し起きていたのに、考えが文字になったのはそれぐらいのものだった。ひどく疲れて、のろのろと寝台を降りる。

「……」

 足が触れたのは、昨日に書庫の男に渡された題字の無い冊子だ。広すぎる室内に満ち溢れた早朝の冷たい空気を白く濁しながら、床に打ち捨てたままのそれを手に取る。寝台に腰掛けて飾り気の無い紺の表紙を開いた。

 この日を至上の幸いに思う。
 この日を一生涯にて思い返さぬ日は無いだろう。

 そのような御大層な書き出しで文章は始まっていた。正確には二文目だが、一文目には随分昔の日付が入っている。下手なことはないがひどい癖字が、紙上の罫線を追ってびっしりと詰まっていた。書き手には姉や妹しかおらず、やっとのことで念願の弟が生まれ、そのお産に立ち会って右往左往をしたことがやや興奮気味な過飾で綴られていた。誤字が多い。
 日を追うごとに誤字は減っていったが、書き手はあまり「まめ」な性質では無かったと見える。日付は飛び飛び、下手をすれば一年も間を空けていた。だがそのような文章中にも弟の名がよく出る。弟の名は『遊戯』、周囲の反対を押し切ってでも祖父が名づけたがった名前らしい。
 それは間違いなく日記だった。そして間違いなく先生の縁者が筆者だ。そしてそれは恐らく――

 はらり、と何かが滑り落ちて床に落ちた。それは写真館で撮られた写真のようだ。良い着物を着た女性たちが華やかに並ぶ中で、写真越しにも分かるほど緊張した少年が笑顔を作るのに失敗している。その肩に手をかけ、後方で笑う男は、書庫の男と寸分とも違わない。またその下の少年も、先生の面影を強く感じるのだ。
 瀬人は日記をぱらぱらと見送った。それが途切れる日付まで。

 これが最後の日記とならぬよう、神にも、仏にも、デウスにも、エホバにもお祈り申し上げなかった。愚生がお祈りしたいのは、そんな些末なことではない。

 最後の日付は、それだけで終わっていた。あとは白紙が幾らか綴じられているだけだ。居るか知れぬ神に頼まなかったせいでも無いだろうが、その日記はそれぎり続くことは無かったらしい。

「オレは――」

 瀬人が書庫の階段を下るなり、男はいかにも呆れた風情で目前に立ち塞がった。

「あいつの書斎に置いてくれとは頼んだが、覗き見をしてここに返しに来いとは頼んでないぜ」

 責めるような口調ではあったが、やはりその表情に大した怒りは感じられない。どうせ最初から瀬人に読まれることは想定していたに違いない。

「めちゃくちゃだな」

 今のお前はめちゃくちゃだ。また瀬人の知ったことではないことを言い捨てて、男は瀬人の後方の階段に腰掛けた。古びて色の褪せた写真の中の人間が鮮やかに動くと、強烈な奇妙を覚える。

「そんなんじゃ話もできないだろう。退屈なやつだな」

 瀬人を攻撃するような言葉を選んでいるのだろう。それは分かった。だが今の瀬人は何かひとつに感情を集約できないほどには動揺していたのだ。どうしようもなく何かを責めたてたいのに、その対象が自分なのか、この目の前の男なのか、それとも先生なのか、それすら分かりかねて行き場を失っている。
 立ち尽くす瀬人を、座り込む男はじっと見上げる。座れば、わずかに瀬人の方が目線が高かった。ジジジ、と左手のランプの中で灯が揺れる。男のほの暗い紅玉もそれに合わせて揺れた。

「オレは死んだ。その最後の日付の明くる日だ」

 知っている。そして先生は生き残ったのだろう。一人だけ夏は冷たく冬は暖かい物言わぬ書庫の優しさに甘え、その命を生き永らえたのだろう。他の家族が血を流そうとも助けを請うて泣こうとも、関せずにじっとしていたのだろう。さすがの良い子だ。

「悪趣味などこかの小僧は、最後の日記を読んだだろう」

 そうだ、死ぬ間際に呑気に日記の心配など誰がするものか。普段は信じぬ神にでも、己の命が生き永らえることを頼むだろう。瀬人だってそうだ。そしてそれは死に行く者も同じはずなのだ。

 先生が憎いだろう。

 瀬人の心はその結論で凪いだ。嵐の前に湿った空気を抱え込んだ海のように、静かに重々しく瀬人は男の目を見つめ返した。だが瀬人の導き出した真理に対し、男の反応はあまりにも愚鈍だ。目を小さく見開いて同意する素振りも無い。

「憎い……?」

 そうだ。先生だけがのうのうと一人生き延びて、日記の続きの書ける浮世を生きている。紅茶を楽しんだり、友人との談話を弾ませたり、来客を喜んだりしているのだ。守るべき家族を目の前で失っておいて何もせずこうして苦も無く呼吸をしている!憎いに決まっているんだろう!

「……お前は、そんなことを考えているのか。平生」

 呆気に取られたような男の反応に苛立ちは募った。怨霊は怨霊らしく、目前の瀬人でも地上の先生でも呪って取り殺してしまえばいいのだ。その考えまで漏れ聞こえたのか、男は不意に咳をするように体を丸めた。そして何かと思う間もなく笑い始める。

「そうか……!そうか!そうなのか!そんなことを考えていたか!そんな馬鹿なことを!」

 馬鹿なこと?馬鹿なことだと!怒りを通り越して呆然とする瀬人を前に、男の笑いは尚止まらない。もう生身の体も無いくせに苦しそうに身をよじって、やっとのことで息を整えた。

「そんなに怒るな。悪かったな、笑って」

 男は涙も浮かんでいない目尻を拭う仕草をして、それから突然に真率な表情を作った。瀬人の両肩に手をかけ、先生と似た大きな瞳で惜しみなく瀬人を覗き込んでくる。

「家族が憎むなんて考えるか。お前がお前を独りにした家族を憎まなかったように、家族もお前を憎んだりしない」

 オレの話じゃない、今は先生の話だ!
 身じろいで抗議するが、男の手は離れない。

「オレは最後の日に祈った。神にも仏にもデウスにもエホバにも祈った。どうか、オレの家族が皆息災でいられますように。皆は無理でも、オレが居なくても、誰が居なくても、残った者は幸せに生き永らえますようにと、何度も何度も祈った。祈ったんだぜ」

 血を凝縮したような男の瞳の向こうには、男が思い描く最後の日が広がっていた。瀬人の見た寝間がそれに重なって見ていられない。だが目を逸らすことができなかった。男は祈っている。自分の命などとうに投げ出して、愚かに祈っていた。

「だから、あいつが、こうして、笑って生きていてくれて、オレはとても嬉しい」

 ひとつひとつの言葉を言い聞かせるように、ゆっくりと男は言い切る。そうしてやっと男の目から解放され、数歩退がって目を逸らす。
 だが、お前は死霊だろう。未練があるからこんな暗い書庫に残っているのだろう。
 瀬人の言葉にも、男は揺らぐ素振りすら見せない。ゆったりと笑って、己の懐を探り始めた。

「ひとつ賭け勝負をしよう。オレが勝ったら、お前はオレの言うとおりにしなけりゃならないんだぜ」

 瀬人が勝った時の条件は提示されなかった。だが瀬人にも薄々、悔しいことに、その必要が無いだろうことが分かってしまっていた。

「瀬人くん?」

 叩きもせずに書斎の戸を開くと、先生は驚いたように机から立ち上がった。しばらくは書斎に近寄ろうともしなかった瀬人の突然の訪問に驚いたのだろう。憮然としたまま部屋を突っ切り、柔らかすぎるソファへ腰を下ろす。そして目の前の低い机上に紙と筆が転がったままなのを視認した。それをじっと睨みつける。書庫と違って大きな窓が並ぶ書斎は、やはり呆れるほど明るく暖かいのだ。

「……瀬人くん?その……」

 言葉を選ぼうとしつつ、結局失敗しているらしい先生が、物言いたげに瀬人の隣に腰を下ろした。柔らかいソファはその振動を波にして伝えてくる。

「それは……どうしたの?書庫の本?」

 言葉に困りかねた先生が話題を逸らしたので、瀬人はその片手の日記を突き出してやった。恐る恐るそれを受け取った先生は、不思議そうにその厚い表紙をめくる。一番上に挟んであるのは例の写真だ。それをどのような表情で先生が見つけるのか見たくなくて、正面の紙と筆ばかりを睨み続ける。

 しばらくはぺら、ぺら、と古い紙を繰る音だけが書斎に響いていた。庭から飛び込んでくる陽は、昨日の雨が嘘のように明るい。ざあ、と狭い庭の枯木が揺れる音がする。窓がかたかたと小さく鳴いた。

「瀬人くん……これは……」

 わずかに震える声にも気づかぬふりをして、机の筆を取った。白い紙に男から言い付けられたとおりの文字を書き付ける。誰かに強制されて反省文を綴らされるような、苦い気持ちでいっぱいだ。だが勝負に負けた以上、瀬人は手を止められない。

 最初から誰も怒ってなどいない。
 もう誰も責めてはいない。

 それは瀬人が最も書きたくない文句だ。だがこれは紛うかたなき男の言葉なのだ。先生は瀬人の書いた文字を穴が開くほどじっと見つめていたが、不意に手の内の日記を机に放ってそれを隠してしまった。先生の顔を見上げようとする前に、視界が暗転する。先生が瀬人をしっかりと抱き締めたのだ。

「……良かった」

 先生の声はやっぱり震えている。

「君が、怒ってないなら、良かった」

 驚いて身じろいだが、きつく瀬人を抱き締める先生は気づかない。これは瀬人の言葉ではないのだ。あの男が女々しくも死後にまで未練に思い、先生が受け取らねばならない言葉なのだ。瀬人が先生に与えた言葉ではないし、そうであってはならない。違う、これは違うのだ、そう口に出せないのがもどかしい。
 ふと、抗議の身じろぎを封じる先生の肩口の向こうに、陽光に紛れる人影を見た。書庫ではあんなに鮮明に見えたものを、衆愚が汚く生きていく地上の陽の中ではひどく古くさくぼやけている。やはりあの男は浮世のものでは無いのだ。先生の勘違いを気に病む素振りも無く、男はゆるやかに笑った。声は聞こえない。だがするりと流れ込む一文がある。

 逆に、他人を恕すことは、自分を恕すことにならないか。

 冬の陽光は下手をすると夏よりもずっと鋭く、澄んで見える。幾本もの光の剣を呑み込んで、男の姿は淡く消え去ってしまった。後には暖かい書斎が残されるだけだ。朝に辿り着いた真理のように、瀬人が何を思っても、そこにあるのは昼下がりだけだ。

「ボクは、瀬人くんに会えた日を、至上の幸いに思うよ」

 これはまた、御大層な文句だ。馬鹿らしくなって、強張らせていた体の力を全て抜いた。先生の肩口に顔を預けると、先生の舶来品の真っ白いシャツからかすかな紅茶の香りがした。これは先生が苦いからと敬遠するアールグレイだ。香りはいいのにと散々に文句を言っていたので覚えてしまった。何故そんなものをわざわざ飲んだのか、ほとほと馬鹿馬鹿しくて、瀬人はそのまま目を閉じた。

(2009-01-16)

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