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先生と紅茶 (パラレル)



先生と決意

 先生は前以上に瀬人をあちこちへと連れて行きたがった。だが実際、外に出たのは初詣ぐらいのもので、幾度か晩餐に出かけた外はずっと屋敷の書斎に篭りきりだ。年老いた女中に涙を浮かべて縋られたら、さすがの先生も我侭を通せないのだろう。

 穏やかでない、もやもやとした何か性急なものが、確かにこの屋敷まで迫ってきているのを感じる。

 だが先生は瀬人が口を利かないのを良いことに、いつものように振る舞い、いつものように笑って何でもないことにしようとしているのだ。問い詰めた方がいいのか放っておいた方がいいのか、瀬人の方も考えあぐねている。いつか扉越しに聞いた見知らぬ男の言葉を思い出した。

『己の命とよその人間、どちらが大事なのです!本当ならば、今すぐにでもこの国から出てもらわなければ!』

 きっと先生の態度よりずっと、瀬人の思うよりずっと、事態は緊迫しているに違いない。でもそれには、不吉な予感しか伴わないのだ。

「瀬人くん?」

 筆の止まっている瀬人を先生が覗き込む。それからいくつかの間違いを赤いインキで訂正して、らしくないねとまた笑った。相変わらず先生には客人が絶えない。そして服装から想像するその身分や職は以前よりも遥かに多岐に渡ってきた。
 己の命、だって。先生は、自分の命が危ういくせにこんなにへらへら笑っているのか?
 もう聞いてしまいたい、のにそれができない。もう書庫に現れなくなったあの男のように、相手の考えを読み取れれば楽だというのに。先生は瀬人の言おうとすることを何故か大抵拾ってみせるくせして、本当に卑怯で不公平な話だ。

「疲れたかな。休憩する?ばあやを呼ぼうか。疲れた時には甘いものだよね」

 そう同じようなことを言って二刻ばかり前にミルクティーと洋物の煎餅菓子を平らげたばかりである。それでは夕飯が入らないだろうと思うが、先生の胃袋は大きい。きっと瀬人の何十倍もある。

「え、さっきも食べたでしょって?大丈夫、人間甘い物は別腹に行くようにできてるんだよ」

 嘯く先生は瀬人の疑う視線を気にした様子も無い。だがもう放っておくことにする。きっと呼んだ女中に小言を言われて終わるに決まっているのだから。
 如月の頭の日差しには、ほんの少しだけ春の匂いが混じる。相変わらず仕事に向かない書斎にあたたかく明るく光が満ちている。この部屋はあらゆるものをふやけた幻想に日光浴させると思う。例えば、この部屋がずっとここにこうやって存在し、先生が瀬人を呆れさせる毎日が不変であるような。そんな錯覚を。

 結局のところ、先生が言わないのではなく、瀬人が聞けていないだけの話なのかもしれない。

「遊戯ー?居るかー?おし!居るな!」
「ああ、城之内くん。ずっとこっちに居たのに久しぶりだ、ね……って、ちょっと!?」
「コイツ借りてくぜ!」

 戸を叩きもせずに部屋に入ってきた無礼者は、更に無礼を重ねてぞんざいに瀬人の腕を引っ張った。その乱暴な力に引きずられるようにして歩く。先生がばたばたとその後を追ってきた。

「ちょっと城之内くん!」
「大丈夫だって。取って喰うわけでもねえんだから」
「当たり前だよ!取って喰うなんて絶対ダメだよ!?」
「だあから、しないって言ってんだろ」
「じゃあボクも行くよ!どこに行くつもりさ!」
「ヒミツー。お前はダメー。よし!出せ!」
「あああ、待ってよ!人さらいーっ!城之内くんー!?」

 馬車に放り込まれたと思ったらもうあっという間に先生の悲鳴など遠ざかってしまう。あれは後で騒ぎになるぞ。

「そう睨むんじゃねえよ。話があるだけだ」

 馬車でそこらを一周して遊戯の屋敷まで戻るころにはもう終わってるからよ、城之内は淡々と言った。瀬人はもっと抵抗しても良かった。体格差はかなりあるが、本気を出して暴れたら城之内ももっと手を焼いて時を稼げただろう。今だって、この馬車から飛び降りるなんて容易だ。―――飛び降りた後のことはともかく。
 だがいつかはこうなるだろうことは分かっていたのだ。先生がいつも通りに毎日を過ごすのは、恐らくは瀬人のためなのだ。死ぬ間際まで愚かに祈る、あの男の姿がまぶたの裏から消えない。

「いってててて!コラてめー!」

 ただそのいつか来る日が城之内によってもたらされたことが腹立たしいので、手近の二の腕を思いっきりつまんでやった。

「あ、帰ってきた!」

 屋敷の門前に乗りつけた馬車に、真っ先に先生が駆け寄ってくる。恐らく女中が渡したのであろう外套に袖を通すのもほどほどで、非情にみっともない姿だ。

「瀬人くん!」

 馬車から降り立った瀬人を先生がぎゅうぎゅう抱きしめる。今だけだ。今だけだと思って、何も抵抗しなかった。寒い中立ち尽くしていた先生のシャツは冷たくて、やっぱり昼下がりの紅茶の匂いがする。

「怖かったね……よしよし。うちの子に何するんですか!」
「……お前なあ」

 城之内が長い長いため息を吐き出した。先生に聞かせるためだ。もうふざけるのはお終いだぜ、呆れたように続けている。

「オレがソイツを連れ出した理由も、オレが仕事放ってまでこっちに居た理由も、本当は全部分かってんだろ?」
「……」

 先生は何も答えない。ただ、瀬人を抱きしめる腕の力を強くしただけだ。瀬人からは先生の顔が見えない。だが、見なくても分かるような気はした。

「オレだって……親友なんだぞ。おいそれとどっかへ行っちまえなんて言えるかよ。だけど……本当にヤバいんだ。バカのオレにも分かるぐらいヤバいんだよ。遊戯……」
「ごめん……でも、ボクは……」
「ソイツならうちで引き取るからよ。元々オレが任されたことだ。あ、心配すんなよな。うまくやれないことは、ちゃんと話し合ってどうにかするように努力するから」
「いや、でも……ボクだって君から引き受けたんだし……それに瀬人くんだって……」
「ソイツも了承済みだ。うちに来るって」

 名残惜しげではあったが、先生がやっと瀬人から離れる。そして確かめるように、少しだけ悲しげに揺れる目で覗き込んできた。あんまり見つめていると首を横に振ってしまいそうだから、目を逸らして頷いた。一度決めたことは、もう曲げない。

「オレはお前の考えを大事にしたい。だけど……それはお前の命あっての話だろ?ここに居る間に手はずは整えた。頼む、遊戯」
「……ちょっと……」
「もう随分きな臭くなってきたの、分かるだろ!軍の連中が訪ねて来たろ。それも一度なんてモンじゃないはずだ」
「……」
「……下手すると死ぬのはお前だけじゃないかもしれないんだぜ」

 先生が瀬人の肩を握り込んだ。城之内の声にも、これだけは言いたくなかったのにという色が滲む。何かに耐えるように目を閉じていた先生は、しばらくして、やっとまぶたを上げた。

「ひとまず入ろう。これ以上冷えちゃ風邪引くよ」
「遊戯!」
「……ありがとう、城之内くん。君のしてくれたこと、考えてくれたこと、言ってくれたこと、全部に感謝してる。……ボクはそれに報いたい」
「遊戯……?」
「君の準備してくれたことは中で聞くよ。命の恩人にせめて熱いお茶くらいは出させてほしい」

 先生が城之内に笑ってみせた。それを見上げて、ほっとしたはずだった。瀬人は安堵しなければならないはずだった。それなのに、冬の夕暮れの風に滅多刺しにされたような気分だった。

「遊戯の周り、おかしいの、分かるだろ」

 随分頭の悪い言い回しだと思った。馬車に揺られながら、そんな悪態しか思いつくことができない。

「あいつの周りだけじゃねえ。この国はおかしい。段々イカレてきてやがる。いつどこと何が起こってもおかしくないぜ」

 つまり何が言いたい、ひと睨みする。城之内も回りくどい言い回しなど無駄だとさすがに悟ったのだろう。小さく息を吐いた。

「お上さんにちょっとゴタゴタがあってよ。遊戯はこのままここに居たら……遊戯を邪魔だと思ってるような連中に暗殺でもされるのがオチだ。運が良くても、利用され祭り上げられて血の海を見るってとこか。いやもっとヒデーだろうな。アイツは何も悪くねえってのによ……家柄だの血筋だの……馬鹿馬鹿しいったらありゃあしねえ」

 だがそうやって城之内のように一蹴できない人間ばかりいるから、こうして城之内は瀬人を連れ出したのだろう。馬車がガタガタ揺れる。先生とどこそこ行くせいで、多少の乗り心地の悪さにはもう慣れてしまった。先生はいつでも、瀬人から離れず一緒に居ようとする。

「お前、うちに来い。あんま乱暴しねえように……まあ、気をつけっから」

 目を上げると、城之内が渋い顔をしていた。城之内にとっても苦渋の提案なのだろう。瀬人だってその言葉を聞いただけで鳥肌が立つぐらいなのだから。

「正直、お前が居るからあいつはここまで渋ってんだろう、と思う。お前も分かるだろ?」

 血の繋がりどころか見も知らなかった瀬人を、先生は嫌な顔すら見せずに引き取って、家族の一員のように扱った。瀬人が何も言わなくても、先生を拒んでも、先生から瀬人を拒むことは無かったのだ。

「お前がうちに来なきゃあいつは死ぬ、って言っていい。……来るな?」

 迷わなかった。しっかりと頷く。

 瀬人は失くしてばかりで、殺してばかりだった。瀬人がここまで守れたものは、自分の身一つでしかなかったのだ。だが、瀬人も、全身全霊をかけて大事な何かを守ってみたいと思った。自分以外の誰かの幸せを祈ってみたいと思った。それは多分、愚かな行動ではないのだ。

(2009-02-04)

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