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先生と紅茶 (パラレル)



先生と初夏

 ちりりん、

 また風鈴が鳴る。いつもと違うのは、絶望した暗澹たる気持ちを抱えたままでそれを聞いていることだ。心がずしりと重いと体まで重い。漬物石でも背負わされているようだ。それでも何とか首を巡らせて辺りを見回す。

(違う……。)

 違う、ここはいつもの『家』ではない。影を作る梁も人影が透ける障子も縁側も無い。高い屋根と硝子を使った大きな窓と、木で作られた重厚な扉。毛唐被れた造りの屋敷だ。

 ちりちりりん、

 風鈴の音がびくりと焦燥を追い立てた。どこから聞こえてきている、この音は。弾かれたように走り出した。迷わずに廊下を駆けて、ひとつの扉の前に立つ。鼻につんとした匂いが突き刺さっているのに、それでもその扉を開けるまでは。この目で確かめるまでは、そう思っている自分が醜かった。

 ちりん、

 血みどろの部屋で血みどろの人は、いつものように笑いかけてこない。立ち尽くす瀬人に、先生は口を開いた――

 いつもは朝日を惜しげもなく取り入れているはずの窓は、その向こうにどんよりと重い灰色の雲だけを描いている。屋敷の中はその空模様に感化されたかのようにじめじめと湿気ていて蒸し暑い。もうすっかり歩き慣れた廊下を、一歩一歩踏みしめながら歩く。それだけでじわりと汗がにじむようだ。

 耳を注意深く澄ます。だが、風鈴の音は聞こえない。

 易々足音を追い越す心拍に歯を噛み締めた。胃のあたりまで重く湿気て、気分が悪くなってくる。なんとか重い足を引きずって目的の扉まで辿りつき、二度ためらって取っ手をひねった。

「……お坊ちゃま?」

 当主の部屋のカーテンを開けて回っていた年老いた女中が、面喰った顔で瀬人を凝視している。普通の人間が起きるには遅い時間でも、先生にはまだまだ早い。それはこの屋敷に住まう者の周知なので、そんな時間に先生の部屋を訪れた瀬人を驚いているのだろう。

「旦那様はまだお休みですよ」

 ベッドの上で幸せそうな寝息を立てている先生は、瀬人が見ている目の前で呑気な寝返りを打った。起こしましょうか、と問われて首を振る。寝が足りていない寝起きの先生ほど目も当てられないものは無いのだ。

 この部屋がいつも通りの寝間なら、何も問題はない。

 一歩書庫に足を踏み入れると、ひやりとした空気が瀬人を出迎えた。蒸し暑い地上が嘘のようだ。どこから入ってくるのだろうか、時折風がそよぐ。それに小さく息を吐いて、ランプを片手に闇の中を進む。先生が起き出して遅い朝食を取るまでの時間、いつも瀬人は書庫に足を運ぶ。読み終えた本を元の本棚に戻し、次巻を手に取る――ことができなかった。隣から差し出された本の書名はまさしく探していたものである。気まぐれに現れる人ならざるものを睨み上げた。いい加減に、オレが読もうとする本は避けろ。

「悪いな。人が読んでると読みたくなっちまうだろ?」

 ちっとも悪いとは思っていない口ぶりだ。むっとしつつも本を奪い取る。真夏でもひやりと冷えた薄暗い書庫。このよく分からない先生の偽者は、ここにしか現れない。

「オレが何だか気になるか。……そう警戒するなと言ってるだろ?オレはお前が結構好きだけどな。分かりやすくていい」

 別に好いてほしいわけでもないが、あまりの理由に先生と同じくらいの背丈を再度睨み上げる。だがほらそういうとこ、と笑われただけでほとんど意味はなかったが。
 悪いものではないだろうな、お前。

「悪いもの?」

 そうだ。人に害なすものではないのか。

「さあ。生きている人間からすると……いつまでもこんなとこに居るってのは悪いものかもな。だけど、お前やあいつになにかしようって気は無いぜ」

 何故こんな暗いところに居る。何故先生にお前は見えない。お前は何なんだ。

「質問が多いぜ?」

 男は笑って、闇で紛らわすのさ、と答えた。それは何一つ答えになっていなかったが、それ以上偽者が口を割る気は無いようだった。ランプが切れ掛かっている。これ以上の長居で先生にやかましく騒がれるのも面倒だ。

「おい」

 踵を返したところで声をかけられる。男の手が肩に触れたのが分かった。だがそれは人の感触とは形容しがたいものだ。一瞬で瀬人の中にある暗い記憶が脳内を駆け抜けて行き、それはすぐにまた瀬人の胸中の闇に沈んでいった。

『……夏は嫌いか』

 ぶれた声に怒りを込めて振り返ったが、もうそこには何の影も無い。遠くの方で、心配性の先生の呼び声が聞こえた。

「よお遊戯!今日もぐうたらしてんなー!」
「暑いからさ……。城之内くんは元気だね……。プロシアはどうだった?」
「ちょっときな臭えが……まあ、船出すのに困るほどじゃ無かったよ。ほら土産。はちみつ入れるといいってよ」
「わあ!ありがとう城之内くん!んーいい匂い。食後に良さそう」

 嬉しそうにはしゃぐ先生の隣に座って、瀬人は黙々と本を読んでいた。紅茶の葉の香がこちらにも流れてきて、瀬人の鼻腔を刺激していく。朝から重たい胃にそれは伝わって、思わず悪心を覚えた。気づかれないようにそっと口元に手を運ぶ。

「本当こいつは……人が来てもちらりとも見ようとしねえな……」
「瀬人くん今日調子悪いみたいなんだ。朝も昼も全然物を食べないし……。ごめんね、許してあげて」
「確かに急に暑くなっちまったけどよ……ちょっと甘やかし過ぎじゃねえのか?こいつは年中こう可愛げがねえだろ」
「そんなことないよ!瀬人くんは年中可愛いんだから!」
「……はいはい。分かりましたよ」

 城之内の不躾な視線にすらまともに応酬できない。何でもいいから早くその紅茶を女中に渡してしまってほしかった。街中にあるせいで手狭な屋敷の庭から蝉の声が絶え間なく響く。開け放たれた窓の向こうは相変わらず重たい曇り空だ。いつ雨が降り出してもおかしくない。

「そうだ、今日はもうひとつあるんだったぜ!」
「え!まだお土産あるの!?」
「土産ってえとまた違うかもしんねえけどよ……今日の暑さにぴったりな一品だぜ。こっちでの商売は静香たちに任せてあんだけど、そこらの職人にもらったらしいんだ」
「へえ……わ、ありがと」

 何かな、と楽しそうに先生が木箱を開けた。何気なく視線を上げると、先生の手には硝子の風鈴が吊るされている。先生の手の内で揺れる薄藍の風鈴がちりちりと鳴いた。

 わあきれいだね、ありがとうだとか、いいってことよだとか、そういう声も全て遠くなる。蝉の声すら耳から消えて、静寂の中先生の持つ風鈴の音だけが鮮明だった。

「……瀬人くん?」

 先生が顔を覗き込んできて初めて、呼吸を止めていたことに気づく。弾かれたように呼吸を再開して、先生の手にある風鈴を奪い取った。

「瀬人くん!?」
「おい、お前!?」

 全開の窓から薄藍を投げ捨てる。先生の書斎は二階なので、瑠璃になり損ねた玻璃が曇天の中でひとつだけ滑稽だった。程なくして甲高い音が階下から小さく聞こえる。それでやっと蝉の鳴き声が耳に戻ってきた。

「お前!何やってんだ!オレが嫌いなのは知ってっけど、物に当たるこたねーだろ!」

 がしりと肩を掴まれる。その強く乱暴な力が痛い。先生はそれを止めようとしているようだが、この状況ではさすがに何の弁護も出ないだろう。

「まただんまりか!言わねえとお前が何考えてるかなんてこれっぽちもこっちには伝わんねーんだぞ!」
「城之内くん、その……」
「遊戯!だから言ってるだろ!お前はこいつ甘やかし過ぎだってよ!」

 城之内の集中が先生に向いた隙に駆け出す。もちろん制止の怒声が後から追ってきたが、振り返らずに全速力を出した。どれだけくだらないことをしているかだなんて、そんなことは己が一番分かっている。言葉に迷う先生の表情が脳裏にちらついて苛立つ。
 階段を駆け下りて廊下を回り、庭に出る。風鈴が落ちたであろう場所で足を止めれば、果たして薄藍はあった。だが最早元の形をまったく留めていない。粉々の破片が辺りに散らばっていた。

 ちりりん、

 あんなことは、本当は、もう見たくない。思い出したくない。夢にだって見たくないし、これから起こること全てをそれに重ね合わせて、いちいち憂うなんてうんざりする。でも、もう終わったことだと流すことなんてできない。

 しゃがみ込んで素手で破片を拾う。比較的な大きな物を集めようと心がけたが、すぐに指は傷だらけになる。それも構わず拾い続けている、と、その手が無理やり止められた。

「瀬人くん、危ないよ」

 やんわり瀬人の腕を掴むのは、同じぐらいの目線までしゃがみ込んできている先生だ。せっかく拾った破片をそっと瀬人の手のひらから捨てさせる。

「もういいんだよ。後はボクとばあやで片付けるから。ね」

 先生の後ろでは、複雑な表情をした城之内が手持ち無沙汰に突っ立っていた。先生に何か言おうとして、でもやっぱりそれは口を開くだけで終わる。

「瀬人くんは風鈴が嫌い?」

 何とも答えられない。厳密に言うと『風鈴』が嫌いなわけではない。

「そして、夏も嫌いかな」

 先生は瀬人の血だらけの指先を労わるように両手で包み込んで、いつものように笑ってみせた。やはりこの笑顔には慣れない。だが先生はこの笑顔をしていなければおかしい。

「だったら、夏にたくさんものを好きになればいいね。夏の好きなものが増えると、全部ひっくるめた時に夏が好きってことになるでしょ?」

 先生は先生のくせに、まるで理にかなわない意味の分からないことを言う。瀬人が不服を顔に表すと、先生はまた少し笑った。

「花火を見に行きたいね。祭りもいいし……氷も食べたいなあ。冷麺なんか食べに行ってもいいかもね!最近流行ってるし、海水浴なんかもどうかなあ」
「やめとけって、一日中家に居るお前らじゃすぐバテちまうぜ」
「えー?そんなことないよ!ね、瀬人くん!」

 城之内に馬鹿にされたままなのも癪だ、仕方なく先生に同意して頷く。嬉しそうな先生の向こうの空では、あんなに厚い雲にも少しだけ隙間が出来て、その向こうの太陽がすっと光の線を作っていた。

(2008-09-15)

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