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先生と紅茶 (パラレル)



先生と『先生』

 コンコン、という軽い音でハッと目が覚めた。くるまっていた布団をぎゅっと握り締めて自らの体を抱く。布団と布団の隙間から扉をじっと睨みつけていた。

「瀬人くん?瀬人くん、まだ寝てるの?」

 キイ、と重たい木の戸が小さい悲鳴を上げて開く。朝の柔らかい光を背負って部屋に入ってきたのは、この毛唐かぶれた屋敷の主だ。軟弱な物言いと態度がいつから崩れるのだろうか。瀬人はここに来てからそれだけを疑っている。
 男は左右を不思議そうに見渡すと、蚊帳のような天井のついた瀬人には大きすぎる寝台を覗き込んだ。あれえ、と呟いて首を傾げる間抜けな様を息を殺して見上げる。大きな目玉が探るように室内を泳いで、ついには目が合ってしまった。

「あ、居た!」

 大声にびくり、と思わず身が竦んだ。男にもそんな自分にも腹が立って、できる限り男を睨みつけてやる。男は少し考えるように天井を仰いで腰に手を当てた。

「……なんでそんなに隅っこに居るのさ。そこで寝たの?」

 もちろんそうだ。昔見た絵のもろこしの皇帝が寝るような豪奢な寝台は、やたらと体が布団に埋もれてなかなか寝付けない。それにこんな得体の知れない場所で、得体の知れない男が用意した得体の知れない寝台に寝付くことなど不可能である。布団一枚と固い床だけが供だとしても、こうして部屋の隅で寝た方が自分の身を守れている気がする。

「まだ夜は冷えるから風邪引いちゃうよ。寝心地悪かった?プロシャのベッドらしいんだけど……硬かったかなあ。やっぱりフランスの方が良かったかも」
「…………」
「そういう問題じゃないの?まあでもすぐに慣れるから大丈夫だよ」

 男が屈託無く笑って、瀬人から布団を取り上げて寝台の上に畳んだ。それから窓にかかった分厚い布を引いていく。あっという間に部屋の中は明るくなってしまった。

「着替えたら居間においで。朝餉にしよう」

 男が悠然と部屋を出て行く。それを瀬人は、半ば呆然とした気持ちで見送った。

「今日もいー天気だねー」

 朝食とは思えぬ量を腹に収めて、男は長い机の向こうで満足そうに呟いた。ほとんど手のつけられなかった瀬人の皿の上を、食が細いねと信じられないような目で見ている。信じられないのはこちらの方だ。

「瀬人くんが来てから晴れ続きだね。瀬人くんが晴らしてるの?」

 そんなわけは無い。思い切り睨みつけるが、男の視線は瀬人を向いてすらいなかった。窓と、そこから降り注ぐ朝の光を嬉しそうに眺めている。そして突然、何の前触れも無く立ち上がった。

「よし散歩に行こう!ばあや!ばあやー!」
「……ここに」
「うん、コートと帽子を。瀬人くんにもコートを……ボクの昔のがあるかなあ。まだちょっと寒いからね」
「只今。馬車をお呼びしますか?」
「いいよいいよ。散歩に行くんだ」

 うきうきと年老いた女中に指示を出す男には反論を申し立てる隙も無い。ずるずると引きずられるように昼が近くなった街へ出る。通りには人が溢れて、右に左に行きかっていた。

「先生!」
「ああ、こんにちは」
「乗ってくかい?」
「今日はいいよ。散歩なんだ」

 派手な色をした人力車を押している男に、瀬人の手を引く男は笑顔で答えた。瀬人には一目もくれず男は走り去っていく。
 『先生』、それは瀬人が初めて知りえた、遊戯とよばれるこの男の情報だ。

「先生、この前は貴重な文献を貸して下さってありがとうございました。助かりました!」

 教師?

「先生、この前は本当にありがとうございました。息子はもうすっかりいいです」

 医者?

「先生、ボク、ちょっと先日自由之理を読む機会があったのですが……」

 思想家?文人?政界人?唯一の情報はあまり価値を持っていなかった。男は道行く人々によく話しかけられるが、そこから分かったのは男が顔が広いということだけだ。じっと見上げていると、その視線に気づいて男が見つめ返してくる。

「どうしたの?」
「…………」
「疲れちゃった?」

 風呂敷包みを抱えた若い女性が、先生こんにちは、と会釈をしてすれ違っていく。繋いだ手をぐっと引いた。男が納得したようにああ、と漏らす。

「『先生』?……何でかなあ、いつの間にかそう呼ばれるようになっちゃってさ」

 男の回答は曖昧で、瀬人の気になっているところを全く押さえていなかった。不服を顔で表すと、男は苦笑を返してきた。

「知ってる?支那では男の人への敬称は『先生』なんだよ。あっちもこっちも先生だらけ」
「…………」
「そういうことでもないよね。うーん、ボクはね、何もしない『先生』なんだよ」
「……?」
「昼寝とか、遊技や賭けなんかなら誰にも負けない自信があるからね!」

 世の中の人間は、それをダメな奴だと罵るのではないだろうか。誰も罵らないというのならまず瀬人から罵っておくべきなのか。ダメな奴め。
 男は呆れる瀬人に構いもせず、あれはこうだ、それはどうだと街中を歩き回った。おかげで男の屋敷に戻った頃はもう疲れきって、夕飯も口にせず瀬人は柔らか過ぎる『ベッド』に倒れ込んだのだ。そのまま眠りに落ちてしまう。浅い夢のうちで、いくら抵抗しても離れなかった自分より大きな手のひらのことを思い出していたような気がした。

 鳥の声に目覚める。倒れ込んでそのままだったはずの身体の上には、きちんと掛け布団がかけられていた。なんとか埋もれた体を起こし、ベッドから脱け出して窓にかかった布を引いて回る。昨日外に出たきりだった服を着替え、部屋を出て廊下を駆け出した。教えられた扉を叩きもせずに開け放つ。そして自分の部屋と同じように窓の布を引いて回った。ベッドの上の布団を引っぺがす。

「うーん、なに、もう、まだ早いよ……ばあや……」

 早いも何ももう巳の刻が近いあたりだろう。眠そうに目をこすりながら起き上がる男を無言で圧迫する。あくびのために開けた大口のまま男は間抜けに静止した。

「瀬、人くん……!?あれ、おはよう、どうして……!?」

 驚く男の反応に満足してひとつ頷いた。
 先生、おはようございます。

(2007-12-17)

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