七、劇薬ベータブロッカー
「ふう……前闘った時とは全然違うね。別人みたいだ」
「別人だったよ。でも、ボクでもあった」
「そう言えば大下だったか……武藤遊戯には二タイプあるって言ってたかな。まあ、もうどうでもいいけど」
結果は半ば分かっていたようなものだ。だがその闘いは、乃亜の言うとおり脳内にあるものと随分違っていた。一度はこの男の決闘を確かにこの目で見たはずなのだが、全く印象が違う。言うなれば、最高の決闘者が最高の決闘をした。それだけのことだ。
「乃亜……ボクが勝ったよ。だから君はもう海馬くんのこと憎んだりしないで、」
「心配しなくていいよ。ボクが勝ったところで、瀬人を乗っ取るなんてできなかったんだから。ボクはもうじき消える。嬉しいかい、瀬人」
「フン……」
「どういうこと?」
乃亜は先ほどまでとはまるで違った表情をしている。澄み切った海のような、満足げな表情だ。最高の決闘を作るには、片方だけが最高であっても意味は無い。つまり乃亜も全力で闘ったのだ。そして遊戯は海馬抜きで闘い、見事に勝ちを収めた。
「オレが二度も同じ轍を踏むとでも思っているのか。社のネットワークに危害を加えるプログラム、またはそれに類似したものは徹底的に排除するようカウンターシステムを設置してある。オレが社外に居たために随分手間は取ったようだがな」
「『君に有ってボクに無いもの』が随分頑張ったみたいだね」
「じゃあ、乃亜……君はまた消えちゃうってこと?」
勝者になったくせに、乃亜のせいで少なからず痛い目を見たくせに、やはり遊戯は葬式にでも呼ばれたような顔をしている。海馬と似たようなことを考えたのか、乃亜は呆れたように笑った。
「データ通りの偽善者だね、君って。ボクは嬉しいんだよ。放っておいてくれないかな」
「当たり前だ、さぞ嬉しいことだろうな。最初から貴様の筋書き通りだったということか。オレは八百長のようなことは嫌いだ!何度死んでも陰湿な男めが!」
おかしいと思ったのだ。本体の所在地をああも簡単に認めるなど。カウンターシステムにしても、全世界のネットワークシステムに同化したような男である乃亜に、全く勘付かれなかったわけが無い。海馬が近づけぬ内にさっさと破壊しておけば済んだ話だ。
「ひどい言い草だね。八百長ってことは無いさ。瀬人が何もできない内に死んだら……瀬人に取って代わろうと思ってた。本気さ。ボクはそうプログラムされてたんだから、当然の権利だろ?」
「何が権利だ!死人の亡霊ごときが!」
乃亜が愉快そうに笑う。その瞬間にその姿が揺らいだ。カウンターシステムはウイルスと似たような構造を持っている。対象をじわじわと食い潰すのだ。もう姿も保てないほど侵攻したらしい。
「乃亜、君はやっぱり乃亜じゃないか……!なんでこんなことっ、もっと別の方法だったら、消えなくて済んだかもしれないじゃないか!」
「しつこいな。ボクはそうプログラムされてたんだから仕方ないだろ。それにボクはバックアップだよ。そういう言葉はオリジナルに言ってほしいものだね」
乃亜の姿がいよいよ崩れ始めた。この目の前の男の言を借りて表現すれば、オリジナルの死に目の情報まではバックアップは共有していないことになる。だが人間は死ぬ時何を思うのだろうか。二度も死にたいと思えるものだろうか?
「乃亜……!」
『ボクは、寂しかったのかもね。それこそ、瀬人の言うように、孤独に怯えていたのかもしれ……ない。本当はボクは、オリジナルの……意向に沿っ……消えるべき……った。でも、でき……かったよ』
声も鮮明には聞こえなくなり、精巧だった映像が安っぽいホログラムのようになる。掴めもしない虚像だというのに、遊戯は駆け寄ってその姿を留めようとする。無駄なだけだと忠告しなかったのは、この男には何を言っても無駄だと知っているからだ。
『消え……代わりに……瀬人の存在……消して……さ……清々したよ!』
「フン、根性の歪曲したところまで剛三郎似だな」
乃亜は乱れた映像の中で驚いたように目を見開いた。それから、ただデータだけの存在のくせして、泣きそうに笑ってみせる。
部屋中に光が溢れた。
ソリッドビジョンを作り上げていた室内の機器がカウンターシステムに乗っ取られて、乃亜を殲滅に来たのだろう。光の氾濫はほんの一瞬のできごとで、それが収斂したあとは静寂と穏やかな午後の日差しだけが残った。
「……そんなこと、オレの知ったことか。ただ貴様は、オレの持たないものを持っていただろうが」