三、強制排除のエンコーダ
『ボクは、ボク一人だ』
それは一歩間違えば、坊主の説法のごときくだらぬ空言で片付きそうなほど馬鹿馬鹿しい事実だった。海馬はそれを確かに認識している。「武藤遊戯」は今ここ、目の前に立っているこの男だけだ。海馬が今から「遊戯」とその名を呼んだ時、返事をできるのは世界中でもこの男しか居ない。
しかしほとほと馬鹿げたことに、ほんの数ヶ月前まではそうではなかったのだ。
『今更だ。貴様も知っているだろう。オレも確かに見た。あの男が――非ぃ科学的もいいところだがな。この目で見たものまで否定する気も無いわ』
『うん』
遊戯はひとつ頷くと、たちまち黙ってしまった。アポイントメントも無く、「知り合いだから」を通してここまで押しかけてきた人間の気勢とはとても思えない。苛々とデスクを指で弾いた。意地でも立ち上がるまいとしていた椅子から、仕方なく立ち上がる。
『何が言いたい。用件があるならさっさと言え!ここまで来たからにはそれ相応の――』
『決闘がしたい。君と』
その時ばかりは認めないわけにはいかなかった。この一瞬だけは、確かに海馬はひどく愚かだった。神をも超える決闘者としてその腕を見せ付けた遊戯が、海馬を目指して訪ねてきたとすれば、それは決闘以外に何の目的があるだろうか。思えば今まで幾度か『武藤遊戯』という人間と闘ってきたが、この目前の男と闘うのは初めてなのだ。同じ名、同じ姿を有しているはずなのにおかしな話だ。もちろん海馬は、強い敵を前にして血が騒がないほど腑抜けた気質ではない。間違いなくそのはずだった。
『オレは……貴様と、闘いたいとは思わない』
しかし海馬は、気づけばそんな言葉を口走っていたのだ。
「申し訳ありませんが、もう営業時間は過ぎておりまして……」
裏口から本社に入ろうとして、真っ先に言われたのがその言葉だった。海馬はつい己の耳を疑ってしまった。まじまじと警備の人間の顔を睨みつけ、若干怖気づいた感のあるその顔に指を突きつける。
「貴様……!このオレを知らんのか!」
「はあ……その……」
「貴様、名を言え!このオレの記憶力を舐めるなよ。後でその言葉を必ず後悔させてやる!」
「も、申し訳ありません……」
完全にたじろいでいる警備員を押しのけて、ドアの横のレセプタにロケットを通す。が、何の反応も無い。全ネットワークが停止したとしても、バックアップネットワークが限定的に構築され、ごく限られた人間の持つ信号だけは受け取るようになっているはずだ。しかし認証しないばかりか、ご丁寧にエラーが表示される有様である。エラーが出るということは、ネットワークは稼動しているということだろう。
「どういうことだ……!貴様、管理室のコンピュータを貸せ!外部からアクセスするよりはマシなはず……」
「それはできません」
先ほどまで戸惑うばかりだった男はきっぱりと言い切った。思わず険しい視線で振り返るが、男の硬い表情は変わらない。無線で応援を呼んでいるその様子から、海馬はやっとはっきりと認識した。この男は、海馬のことを完全に異分子と見做しているのだ。ふつふつと泡立ち始めた怒りが沸騰するまでも無く、すぐに人が集ってくる。
「何事だ!」
「不審者だってっ?」
「何者だ!」
口々に叫びを上げている警備の人間たちは、海馬を見てもその態度を改めなかった。見た顔も確かにあるはずなのだが、皆誰もが海馬瀬人――この会社の頂点に君臨する人間を認識しようとしていない。
「何者?何者だと?貴様ら揃いも揃って……オレは、」
「取り押さえろ!厳戒態勢の命令だ!」
「厳戒態勢だと……?」
海馬はそんな命を下した覚えは無い。ネットワークが機能停止したために重役の誰かが咄嗟に下した判断だとしても、海馬に何の連絡も無いのはおかしいだろう。何かがあきらかにおかしい。しかもこのままでは、自分の会社の下っ端ヒラ社員(委託警備会社も当然海馬コーポレーション傘下だ)に取り押さえられる羽目に陥ってしまう。海馬は苦虫を噛み潰して背筋を伸ばした。ひとつ息を吸い込んで、警備員たちが向かってくる直前にぐっと身を屈めた。小さく折り畳んでいた肘を突き出して男を吹っ飛ばす。その勢いで右足を軸にし、左足で別の男を蹴飛ばした。拓けた道を走る。
「ッチ、何から何まで……!」
全速力で駆け出した外には、先ほどまで乗っていた車の姿はどこにも無かった。携帯も襟元のバッジ型の通信機も本社には相変わらず通じない。それどころか本宅にまで繋がらないのだ。咄嗟に頭に浮かんだのはモクバの顔だった。
「クソッ!」
思わず悪態を吐き出して、半ば車道に飛び出るようにタクシーを止める。文句でも言いたげな運転手の顔に小切手帳を叩きつけて睨みつけた。
「好きな額を書け!いいからさっさと発進しろ!」
「いやあの、うちは現金しか……」
「これだから国内で金を落としたくないのだ!そこに書いてある銀行にそれを持って行け!そうすれば現金と変わらんわ!それとも貴様は実力行使でその運転席から引き摺り下ろされたいのか!さっさとしろ!」
「ひ……!」
小切手の解説が効いたのか海馬の恫喝が効いたのかどうかはともかく、運転手は慌ててアクセルを踏んだ。急発進した車の窓の間近で警備の男たちの姿が流れていく。どうやら間一髪だったらしい。
きっちりメーターと同じ金額を書いた運転手に呆れながらサインをし、小切手を叩きつけて車を降りた。目の前には背の高い門扉が聳え立っている。一度も使用したことの無い備え付けのインターフォンのボタンを押した。いつもは何もせずともその鉄門が開くはずなので、その煩わしい作業に苛立つ。
『―――どなた様でしょうか』
「オレだ。さっさと開けろ」
『……申し訳ありません、お名前をよろしいでしょうか?』
カッと頭に血が昇るのが分かった。一体何が起こっているのか、そもそも誰が動いているのか。疑念は尽きないが、ただひとつ言えるのは、この状況は海馬自身と海馬の作り上げてきたものをことごとく侮辱しているということだ。金で買われたか何に釣られたかは知る由も無いが、最早この屋敷に味方は存在しないらしい。
「名前も何もあるか!貴様らは雇用主の名も覚えていられない無能だったのか!」
『失礼ですが……』
しかしおかしなことに、金で買われた人間の声にしては、その声にはあまりにも戸惑う気配が強すぎた。真実を否定された人間の声にしか聞こえないのだ。
『この屋敷の主人は海馬モクバです。どこか別のお屋敷とお間違えではないでしょうか?』
『な……何でか聞いてもいい?』
しばらく呆然とした様子で海馬を見上げていた遊戯が、やっと口を開いた。それもそのはずだろう。遊戯も海馬がそのような返答をするなど予想もしなかったに違いない。海馬自身が驚いている始末なのだから。だが海馬の口はまた勝手に言葉を連ねる。
『聞こえなかったのか。断る、と言ったのだ。それ以上に理由など無い』
『でも、ボクは君と―――!』
『嫌だ』
嫌だ?嫌だだと?まるで子供の駄々だ。相手を蹴るにしてももっとマシな理由は無いのか!他人事のように己の行いを批判する理性に対して、胸の奥には何とも言えない気分の悪い感情が燻っている。そいつが勝手に海馬の口調を攻撃的に働かせ、態度を険悪にさせた。意味の分からない腹立ちのまま、帰れと冷たく一蹴する。
『海馬くん……!』
『嫌だと言っているのが聞こえんのか!』
『どうしても、決闘はしてくれないんだね』
『くどいわ!』
『分かった。そんなに迷惑だって言うなら、帰るよ』
まだ何か言い足りないような表情ではあったが、遊戯は静かにそう宣言した。名残惜しげに海馬から離れ、ゆっくりとドアへと向かう。海馬も話は終わっただろうと椅子に戻った。ディスプレイの向こうに山積している仕事に手を付ける。元々予定外の会見だ。あまり悠長なことをやっていれば後のスケジュールに響く。だがこの状況で集中できようはずもない。出て行こうとする遊戯に苛々と声をかけた。
『おい、』
『ボクと……アテムはそれぞれ別の魂、別の心を持った人間だよ』
『さっきも聞いた!』
『そしてそれぞれで、海馬くんが尊敬すべき決闘者だって知ってたんだ。ひどいことされた時もあったけど――君がずっと頭に残って、気になってたんだよ』
強敵を前にして血が騒ぎ、その相手を完膚なきまでに叩きのめしたいと思うことこそ、決闘者の本能だ。遊戯がドアを出て行ってから、海馬は、自分自身の行動に自分で疑念を抱くという滑稽な思考を辿らなければならなかった。