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ハイスピード・ベータブロッカー!



二、揺らぐフリップフロップ

 遊戯が海馬に決闘を最後まで見ていて欲しいと言ったのは、海馬もそこに居なければならない、と思ったからだった。浅からぬ因縁のある、もう一人の自分――ではもうないアテムを、彼はその目で見送らなければならない。それは見る人が見れば遊戯の押し付けがましい感傷ということになるかもしれない。でも遊戯は、アテムにとっても海馬にとっても、そして自分にとっても、それが一番良いと思ったのだ。
 仲間の運命を背負った決闘も、命を懸けた決闘も、いつもいつもアテムは遊戯の前に立っていてくれた。咄嗟には判断できない事態も、恐ろしい局面も、いつも後ろに控えて力になってくれた。パズルを解き明かしてから一緒に居た時間は考えてみれば短いものだったけれど、遊戯はすっかりアテムに頼りきりだったと思う。気弱な自分を言い訳にして頼もしいアテムに寄りかかっていたのだ。だがアテムが居たからこそ、そんな自分にお別れできた。自分に自信が持てるようになった。だからそれを証明して、アテムに安心してほしいと思ったのだ。そしてその証明ができるのは海馬しか居ないと思ったから見ていて欲しかった。

『決闘がしたい。君と』

 アテムは冥界へ向かうことで、最後の最後まで遊戯に勇気をくれた。何物にも代えがたい自信をくれたのだ。だから遊戯は、その自信を試してみたい。それは決闘に限らず、色々な世界で。そうして遊戯は海馬の元へ押しかけたのだ。『武藤遊戯』をその目で証明してくれた海馬と、自分『一人』で闘ってみたかった。

『オレは……貴様と、闘いたいとは思わない』

 少し傲慢なところもあったかもしれない。遊戯は海馬が決闘の申し出を受けるはずだと思い込んでいたのだから。強引に海馬コーポレーションまで乗り込んできた遊戯に怒っているのか、もしくはもっと他に理由があるのか。もちろん海馬は遊戯と闘う義務なんて無いから、その返答もおかしなものとは言えない。しかしそれでも遊戯は海馬の言葉が信じられず、しばし呆然としてしまった。

『海馬コーポレーションは、来月十三日、大規模なイベントを開催するにあたり――』

 麦茶を注ごうとしたところで、テレビから聞こえてくるその声を耳が拾った。思わず動きが止まる。テレビをよく見るため、麦茶のペットボトルとグラスごとリビングへと移動した。冷蔵庫ちゃんと閉めなさい、と怒られたのは聞こえないフリをする。
 暑さがじわじわと引っ張り出していく首筋の汗が気持ち悪くて、ひとまずペットボトルとグラスをテーブルの上に解放した。椅子に引っ掛けていたタオルで汗を拭う。テレビではニュースキャスターが、真面目な顔でよく見知った会社の名前を連呼している。それを少し愉快に思いながら麦茶を注いで、グラスを傾ける。

『こちらが今日の会見の映像です』

 フラッシュを浴びながらマイクに向かっているのは年端もいかない少年だ。落ち着いてはいるが、どこか戸惑っている様子も見て取れる。まだ十数歳なのだから当然だろう。大変だよなあまだ小学生だっていうのにあんな大きな会社の社長だなんて―――よく冷えた麦茶を一気に飲み干す。それからふと、疑問に思った。その名を聞いただけでテレビの前に吸い寄せられてしまったのは、こんな感想を持つためだったっけ?なんだっかもっと、怖いような、嬉しいような感情を覚えたくて、テレビの前を陣取ったはずなのに。

「あれ、なんか忘れてるような……」

 空になったグラスを流しに置いて、ペットボトルを冷蔵庫に戻す。うんうん唸りながらパタン、とドアを閉じたところで、急に思考がクリアになった。

「――あれ?海馬くんは?」

 キッチンから身を乗り出して確認した画面には海馬モクバ『社長』とテロップが出ている。それを確認した途端に他のニュースに移ったため、テレビから目を離した。

「何でモクバくんが……」

 おかしい。モクバは副社長だったはずなのだ。海馬コーポレーションの社長は、もっと強烈で頑固で理屈っぽい――彼の兄のはずだ。いや『はずだ』ではなく、これは間違えようのない事実だ。だが今のテロップは何だろう。そもそもどうして遊戯は、それを当然のように見過ごそうとしていたのだろうか。

「遊戯、どうしたんじゃ」
「じーちゃん……。そうだじーちゃん、今テレビで海馬コーポレーションの社長がモクバくんって言ってて……」
「ああ、小学生なのにエラいもんじゃよ。まあ昔は色々あったが……今はこうしてカードの心も分かってくれているようだし……」
「え……?」

 一瞬、祖父が何を言っているのか全く分からなかった。だがどう聞いても、何度聞いても、祖父はモクバの話をしている。しかもその内容のほとんどが、本来海馬がやったことの話なのだ。

「じーちゃんついにボケが……!」
「い、いきなり何を言うんじゃ遊戯!」

 ぶうぶう文句を垂れている祖父を置いて電話の前に駆け込む。口ではそう言ったものの、そんなわけがないことは遊戯が一番知っているのだ。もう覚えてしまった番号を急いで押していく。十数回のコール音の後、やっと受話器が取り上げられたようだ。

『え、えー……あー……カネならありませんので、ピーという発信音の後に……』
「城之内くん!ボクだよ!」
『おう、何だよ遊戯か。どうした?』
「城之内くん!海馬くん!海馬くん分かるよね?」
『……何言ってんだよいきなり……。モクバがどうかしたのか?』

 お前モクバくんって言ってなかったっけ?城之内の言葉に、遊戯は何と返せばいいのか見当も付かなくなってしまった。動転のままに受話器を置いてしまう。

 一体、何がどうなってるんだろ?

 モクバの兄で、海馬コーポレーションの社長で、遊戯たちの同級生で、『武藤遊戯』のライバルで、傲慢不遜と傍若無人のハーフみたいなあの人は、確かに存在しているはずだ。祖父はただの物忘れで、城之内は遊戯をからかっていただけなのかもしれない。他の、例えば杏子などに電話をしてみれば、これはすぐに認められる事実だろう。だがもし否定された時のことを考えると――遊戯は再び受話器を取れなかった。

(何かおかしい……)

 不思議そうな顔をしている祖父の声も聞かず、遊戯は玄関に走った。ボロなスニーカーを引っ掛ける。外に出た途端広がっているのは茜色の夕空だった。家の中よりは多少風が通って暑さが和らいでいる。それでも蒸し暑い空気がぐっと胃の底まで迫ってきたが。

「……会いに行こう」

 自分を励ますようについ独り言が漏れた。モクバが会見に出ていたということは日本に居るだろうと目星をつける。仮に居なくてもモクバが帰ってきているのは確実なのだ。まさかあの弟が兄を忘れるわけがない。

「なんとかなるよね」

 とりあえずは海馬コーポレーションだ。約束も何も無いが、以前に一度だけあの馬鹿でかいオフィスを訪れた時、どうにかこうにか再会まで漕ぎ着けたのだ。怒られても構わないから、とにかくこの不安を払拭したかった。

「あの……海馬くん、というかその、社長さんに会いたいんですが……」
「お名前をお願い致します」
「武藤です。武藤遊戯」
「少々お待ちください……アポイントメントのお時間をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「それが……その、ボクは社長さんの友人なんです。ほんの少しでもいいですから……」
「大変申し訳ありません。アポイントメントの無い方をご案内することは致しかねますので、後日改めてお出でくださいませ」
「あの、でも……」
「申し訳ありません」

 折り目正しい受付の女性は、最早遊戯の言葉など全く聞いていない様子だ。何を言っても申し訳ありませんで会話が終わってしまう。以前は少し待たされはしたが、一応海馬まで駆け合ってくれていたのだ。だからこそ遊戯は海馬に会いに行けたのだが、今回は埒が明くような兆しが全く無い。

(忙しいのかな……)

 誰も通すなと言われているのかもしれない。だったら出直した方がいいだろうか。未だ不安は胸の内で燻ってはいたが、この受付の対応で随分勢いは削がれている。何かおかしいと思いはしたものの、海馬コーポレーションは依然変わらぬ姿でそこに佇んでいたのだ。もしかしたら遊戯のほんの気のせいで終わる話かもしれない、という考えがじわじわ足元から伝わってくる。効き過ぎの感がある冷房がひやりと首筋を撫でた。
ハッとして、慌てて受付に背を向ける。

(今、ボク……モクバくんが社長ってことに納得しかけてた気がする―――!)

 やはり何かがおかしい。何か抗いがたい大きな力を感じるのだ。恐ろしくなってほぼ駆け足で海馬コーポレーションのビルを飛び出した。だが突然襲い掛かってくる蒸し暑さに軽い眩暈を覚えて足を止める。

「おい止まれ!止まれって言ってるだろ!」

 その瞬間、目の前を聞き覚えのある声が横切っていった。反射的に目を上げると、定番とも言うべき黒塗りの車、その開いた窓の向こうで怒鳴り声を上げている少年と目が合った。

「――遊戯!」
「モクバくん……!」

 その肩にかかる役職に対して見た目はまだまだ幼いためか、何度も誘拐・人質の憂き目に遭っているモクバだが、今回はそういうわけでもないらしい。窓から身を乗り出しているモクバを必死で止めようとしているのは、バトルシティでもよく見た磯野だ。追いつけないことは分かっていたが走って車の後に続く。

「遊戯!」
「モ、モクバ、くん!」
「止めろって!くそ……っ!遊戯!兄サマを捜してくれ!兄サマを……!オレはっ……」

 モクバはまだ何事か続けようとしているようだが、強制的に車の中へ戻されてしまったようだ。高級車は何事も無かったように道の向こうへ小さくなっている。急激な運動に音を上げている両脚に手を付いて、荒い呼吸を整えようとする。ついでに、混乱している脳内も整理したい。

 海馬くんを捜せって、一体どういうことなんだろう?一体何が起こってるんだ――?

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