五、正真正銘デコーダ
目が覚めてすぐに感じたのは不快感だ。一口に不快などと言ってみても、下敷きにしている新聞紙がガサガサと騒ぐ不快感、硬い寝床の反発による不快感、妙な体勢で寝たせいで肩や背が痛む不快感など、その種類は多岐に及ぶ。低く唸りながら痛む頭を上げ、身を起こした。すぐには状況が把握できない朝の思考回路を強引に急回転し、ここが遊戯の部屋であること、そしてここに至るまでの経緯を思い起こした。遮光性のあまり無いカーテンが日光を取りこぼしている。すぐ手元にあるガキくさい目覚まし時計が昼近い時刻を示しているのに顔をしかめた。未だかつてこんなに寝過ごしたことがあっただろうか。髪を手櫛で撫で付けながらむくりと起き上がり、これまたガキっぽい学習机の向こうにある窓へ手を伸ばす。
カーテンを一気に引かなかったのは、妙な勘が働いたからだった。昔からここぞという時に判断を誤ったことは無い。細く開けたカーテンの隙間から窓の外を見下ろす。
(一、二、三、四、五……)
案の定とでも言うべきか。明らかに一般市民とは一線を画す人間が息を潜めてこちらを覗っているのが分かった。この場所に海馬が居ることは完全に相手の知るところだろう。別に隠していたわけでもないが。恐らくこの家は既に包囲されている。次の一手をどう打つか。目を細めて窓の外を睨みつけていると、ガチャリとドアノブが回る音がした。身構えるが、呑気な表情で現れたのはこの部屋の主である。
「海馬くん起きた?よく寝てたね。何か食べる?」
「そんな暇はない。カーテンに触れずに外を見てみろ」
遊戯は身を乗り出して細い隙間から外を見ている。しばらくそうしていたが、元の姿勢に戻ったその顔は「何が何やら分からない」を体現していた。やはり年中脳内平和ボケの人間には分からないらしい。
「囲まれている。どいつも片方の肩が上がっているだろう。……上着の下に銃を吊っているな」
「え、ええっ!どこ?どれ?」
「一度見て分からんなら何度見ても同じだ。勘付かれる前に窓から離れろ」
素直に海馬の言葉に従った遊戯は、まるで自分が狙われているかのような表情だ。その青い顔からして、よくも巻き込んでくれたな、と続いてもいいものだが、遊戯には全くそういった思考回路が積載されていない。つまり愚かで馬鹿なのだ。
「相手はオレを社会的に抹消するだけでは気が済まないらしい……このオレという事実まで消す気のようだな」
「そんな……!」
「フン、このオレが、この海馬瀬人がそんなことを易々許すとでも思っているのか!」
「海馬くん、どこ行くのさ!」
「とにかくここを出る。オレが気づいていることを相手が知らぬうちに動く必要があるからな。貴様はオレが居なくなったとでも玄関先で騒いでいろ。その混乱のうちに出る」
海馬が窓から離れて歩き出した矢先に、遊戯がその目の前に立ち塞がってくる。その真剣な面持ちをできる限りの渋面で見下ろした。海馬は行く手を阻まれるのが心底嫌いだ。
「一人で?……それで、逃げ切れる?」
「可能性の話などいくらやっても無駄なだけだろうが!上手く行くか行かんか――その二択、結果が全てだ。くだらんことに時間を使わせるな」
「ボクも一緒について行く」
「――何だと?」
「だって……何て言っていいかよく分かんないけど……やっぱり許せないよ。海馬くんはここにちゃんと居るのに、それを無かったことにしようとするなんてさ。だから……ボクも行くよ」
その言葉は、本人も言う通り「よく分からない」、曖昧なものだった。ここ数日の間に起こった事実は全て海馬一人の身に降りかかったことだ。もしこれから危険が急増したとしても、やはりそれは海馬一人だけにしか効果の範囲は無い。だが遊戯は己のことのように慌てふためき、心配し、そして怒っている。
「……フン。相変わらず馬鹿のひとつ覚えのお人好しのようだな。勝手にしろ。今は偽善者を説き伏せているヒマはない」
「偽善者なんかじゃないよ。ボクが一緒に居た方がいいって思ったから言ってるんだ」
「何が言いたい?」
一貫して頑な表情をしていた遊戯が、そこでまた呑気な表情に戻った。苦笑に近い破顔でその手に持っていたものを差し出す。それは昨晩まで海馬が着ていたシャツとスラックスだ。スーツの上着とネクタイも着用していたのだが、行く先々で揉めた際、目くらましに使ってしまった。遊戯の母親が勝手に洗濯し、ご丁寧にもアイロンを掛けたらしい。
「そのままのカッコじゃさすがに……悪目立ちしちゃうと思うよ。それに寝癖、気づいてる?あと……顔も洗った方がいいよ。新聞の跡付いてる」
ね、一人じゃ気づかないでしょ?
そのしたり顔を蹴りつけなかった自分を褒めたいところだ。せめてもの意趣返しとして遊戯の手から服を奪い取った。何の効果も望めないようだったが。
「遊戯!遊戯、お客さんよ」
丁度服を着替え終えたところだ。ドアの向こうから遊戯の母親の声がしている。遊戯と目線だけを交わした。遊戯の母親は何も知らず、また海馬のことも覚えていないはずなのだ。もし外の人間が海馬の関係者だとか申し出ればどうだろう。遊戯の母親はそれを疑いもしないだろう。
「……ママ、お客さんって?」
「早く降りてきなさい!城之内くんよ!」
一瞬の緊迫だったが、遊戯は息を止めていたらしい。深い安堵のため息を吐き出している。海馬も思わず舌打ちしてしまった。相変わらず人騒がせだけが得意の男である。
「とりあえず行ってみよう」
「何故オレまで行かねばならん!」
「何か力になってくれるかもしれないし……。海馬くんのこと、顔見たら思い出すかもよ」
「あんな雑魚の力を借りるなど、今の状況以上の屈辱だ!あの男の記憶の一部にでもこのオレが存在していると思うと虫唾が走る!永久に忘れていればいいのだ!」
「そう言わずに!ね!」
遊戯が背を押すのに渋々従って狭い廊下に出て、やはり狭い階段を下る。店舗になっている玄関口まで出ると、そこで待っていた城之内が気安げに片手を上げた。
「よお遊戯」
「城之内くん、どうしたの急に」
「一昨日、お前急に電話切っちまったじゃねーか。待っても待ってもかけ直してこねえしよ。オレからかけても良かったけど、直接行った方が早いなと思ってな」
「あー……ごめん。あの時はちょっと慌ててて……」
「慌てる?何にだよ。……っつーかダレよ?この人」
ジーンズのポケットに気だるげに両手を突っ込んでいる城之内が、何の遠慮も無く海馬を見上げてくる。海馬は己がそれほど気の長い方でないことをよく自覚している。そしてそれは今回も例外ではなかった。理由と言えばただそれだけのことだ。ほぼ反射的に城之内の襟を掴み上げる。
「あっ、ちょっと海馬くん!」
「おいっいきなり何しやが……っだ!」
そして迷わず頭突きを食らわしてやった。言葉にならない呻きと共に縮こまっている城之内に満足し、両手を払う。遊戯は間抜け面のまま硬直だ。唖然としているらしい。
「海馬テメー!出会い頭に頭突きはねえだろ頭突きは!相変わらず何考えてんだよお前!オレの頭はお前みたいにガチガチに固まってるわけじゃねえんだ!へこんだらどうすんだよ!」
「城之内くん……!」
「何だよ遊戯!止めんなよ!今日こそサシで……」
「城之内くん、海馬くんのこと分かるの!」
「ハァ?何言ってんだ。分かるも何も、こんなワケ分かんねー最低野郎、海馬以外に居てたまるかよ」
遊戯が見開いた目をこちらに向けた。海馬を社会的に孤立させた犯人は、広い範囲で口裏合わせを工作したわけでは無かったらしい。元々その可能性は小さく見積もっていたが、これで完全にその仮説は消えた。だとすれば有り得るのは洗脳の類だろう。それも、外的衝撃で元に戻ることが実証された。
「フ……クク……ククク……ワハハハハハ!」
「……海馬くん?」
「分かったぞ!勝利の女神はいつもオレに微笑むということがな!行くぞ遊戯!」
「う、うん」
大股で一歩を踏み出そうとすると、またも前進を阻まれる。城之内だ。わけが分からない、という顔でたらたらと文句を並べている。やかましい上に邪魔なので、再びその襟を掴み込んだ。そして先ほどより強く頭突きを繰り出す。相手に考える暇を与えない電光石火だ。城之内はまたも額を押さえて苦しんでいる。
「何してるんだよ海馬くん!」
「フン、言っただろう。こいつの記憶にだけはこのオレが存在するなど許せんとな」
「いや、もう一回頭突きしたって忘れるわけじゃないでしょ!」
「むしろぜってーブチのめす奴って再確認できたぜ……この野郎……!」
「チ、しぶとい奴め」
だが先行きを阻む者は一時的に排除できた。ともかく海馬はゲーム店のドアを思いっきり引き開ける。するとまず目に入ったのは、スーツ姿の男が今にも拳銃片手に乗り込もうとしている姿だった。ドアが開くことを予測していなかったらしく、狼狽しているその隙を逃さない。銃身を掴んで引き寄せ、その鳩尾に膝を落として昏倒させる。
「か、海馬くん……!」
「痺れを切らして乗り込むつもりだったか。どうやら相手は予想以上に手荒だな」
望むところだがな、と手にした拳銃の弾の残数を確認し、倒れた男の懐を漁った。難なく替えの弾倉を見つけ出して遊戯に放り投げる。
「ついて来い!」
「何だ……!何がどーなってやがる!また何か巻き込まれたのか?遊戯」
「ごめん城之内くん、説明してる暇が無いんだ……!とにかく、助けてほしいんだ!」
全開のドアの向こうには、すぐに拳銃を手にした男たちが集まってくる。至って閑静な住宅街の中にあって、随分物騒なことだ。余計なことを口走る遊戯を睨むついでに城之内に目をやると、そこには笑みがあった。
「へっ、任せろよ。ケンカではこの城之内サマの右に出るヤツはそう居ねえからな!」
「不要だ!余計なことはするな遊戯!目障りな奴め……その空の頭から撃ち抜いてやろうか!」
「言っとくけど海馬、テメーのためじゃねえぞ遊戯のためだからな!ま、貸しイチってことにはしといてやるぜ!」
「戯言だ!」
相手に踏み込まれる前に外へ踏み出した。拳銃はあまり使う気が無かったので多少の邪魔ではあったが、相手も街中での発砲には抵抗があるらしく、牽制程度には役に立っているようだ。
「おい、あらかた倒したぜ!」
「後は……あれだな」
「『あれ』?」
視線の先にあるのは、安っぽい白の軽自動車だ。先ほどからこちらを伺っているのを目端に捉えていたのである。外に居た人間が全滅したと見るや、その車は早々に逃げ出すべきだった。が、愚かにもそこに乗っていた男は車を降り、こちらに向かって飛び出してきたのだ。
まず海馬が拳銃で一発、男の持つ拳銃を弾き飛ばした。その隙を突いて城之内が男の頬に拳をぶつける。ほんの数十秒で片付いてしまった。
「ふ、二人ともすごいよね……」
「貴様は散々ラクをしていたようだな。その分これから働いてもらうぞ」
「えっ?」
車内に誰も居ないことを確認し、後部座席のドアを開ける。乗り心地は悪そうだが贅沢も言っていられないだろう。
「運転しろ」
「ええっ!ちょ、ちょっと待ってよ!ボク運転とかできないよ!」
「……貴様十八だろうが!何故免許を持っていない!」
「十八歳って言ってもこの前なったばっかだよ!それに校則違反だし……」
「では運転しろ。フン、良かったな。校則違反はしていないぞ。道路交通法違反だ」
「何でそうなるのさ!めっちゃくちゃじゃないか……それ……」
前部のドアを開け、不安そうな声ばかり上げている情けない遊戯を鼻で笑った。何を馬鹿なことを言っているのだろうか?
「貴様まで忘れたか。それがオレの長所だ」
一瞬、遊戯は目を点にして動きを止めた。だがすぐにその表情を崩して、笑みを零した。
「よーく知ってるよ。……だからボクが君について行きたいんだってこともね」
城之内の呆れたようなため息が耳障りだが、結局車は城之内が運転することになった。城之内の誕生日を指摘する遊戯の声は徹底的に無かったことにされたのだった。
「で、どこへ向かえばいいんだよ」
「ひとまずは童実野駅を目指せ」
「へいへい。ったく、貸しイチどころじゃねえぞ」
遊戯の余計な口から海馬の状況を知った城之内の口数はぐっと少なくなった。結局はこの男もただの愚鈍なお人好しである。
「海馬くん、これからどうするつもり?」
「オレは勝つ」
「へ?」
「それ以外に知っておくべきことはあるのか?」
「大アリだっつうの!」
運転席の城之内が後方に振り返ったため、助手席の遊戯が慌てて前を見るように頼み込んでいる。そのあまりに間抜けな図に耐えられず、窓の外に視線を運んだ。安定感の無い乗り心地がこの車が安物であることをやかましいくらい主張してきている。ガラスが何か加工をされている可能性も限りなく低い。銃撃でも喰らえば一溜まりも無いだろう――と思った矢先、銃口と目が合い、反射的に身を伏せた。
「な、何だぁ!」
「襲撃だ!逃げ切れ!」
「マジでここ日本かよっチクショー!」
「海馬くん大丈夫!?」
「人の心配より己の心配をしろ!」
広い車線には時間帯のせいか車は少ない。こちらの乗っている物よりは馬力のありそうな車が数台、こちらを囲むように並走している。ヒビ割れた窓のすぐ向こうには並走車が映っており、車内に衝撃が走った。
「っうわ!」
「っで、おいブツけて来たぞ奴ら!」
「やかましい!そんなこと報告されんでも分かっているわ!馬力が違いすぎる!ともかく距離を取れ!」
「取れって言われてホイホイ取れりゃあ苦労しねーよっ!」
車が大きく揺れた。城之内がハンドルを切って、何とか追走してくる車の前方に踊り出たらしい。だが前に出ればただの銃弾の的である。ヒビの広がっている窓を銃把で叩き割り身を乗り出した。
「海馬くん!?」
「ええい、揺らすな!まっすぐ走れ!」
「無茶言うんじゃねえ!」
追ってくる車は四台だ。そのタイヤに照準を合わせて引き金を引く。揺れる車内のせいでさすがに一発では決まらないが、確実に相手の足を奪っていった。だが相手もやられるだけの馬鹿ではない。銃声が響いた。
「わっ、わわ!城之内くん!」
「なんだ!ハンドル効かねえぞ!」
「タイヤを撃たれた!端にでも寄せろ!」
「寄せろっつったって……!」
ガタガタと一際ひどく車内が揺れた。かと思えば視界が大きく動いて、状況の把握に支障を来たす。しばし不快な揺れに身を委ねるしかなかったが、やっと動きが止まったので車から這い出た。体中を打撲している。
「みんな……生きてる?」
「死んでるよ……」
「このオレがこんなことぐらいで死ぬものか」
よろつく足を叱責して降り立った場所は随分と殺風景な空き地だった。車が巻き込んでいる紐の先に結び付けられていたボードを見るに、マンションか何かの建設予定地らしい。運よくそこに転がり込んだということのようだ。派手にスリップした跡が地面に残っている。
「遊戯、弾倉を寄越せ。弾が切れた」
「あ、うん。待っ……」
「動くな」
冷えた声がした。黒服の男が狂いなく海馬の額に照準を合わせて銃を構えている。一台だけ仕損じた車があったことを、あろうことかすっかり忘れていた。
「海馬くん!」
「動くな!そっちの奴、その手のものを捨てろ」
先ほどの弾切れの話を聞いていたのだろう。遊戯はしきりに海馬を見上げ、なかなか弾倉を手放そうとしなかったが、銃を向けられて悔しそうに弾倉を地に放った。しかし、その男は判断を見誤ってしまったようだ。最後まで照準は海馬に残しておくべきだった。
乾いた銃声が男の右手を打ち抜いた。血と悲鳴を噴出して男が銃を取り落とす。その隙に城之内がその頭に蹴りを見舞わせ、勝負はついたようだった。男はピクリとも動かない。
「フン、弾倉を替える時は一発残しておくのは常識だ。誰を相手にしていると思っている、この愚か者が」
「どこの世界の常識だよ……」
「城之内くん携帯とか持ってないよね?救急車呼ばなくていいかな……」