四、緩慢シフトレジスタ
見つからない。
そもそもが、どこを捜せばいいのやら見当もつかないのだ。初めは海馬コーポレーションの周囲に居るのではないかと考えたが、どの施設でも門前払いを食らってしまった。それどころか、『海馬瀬人』の名を出すと不審そうな顔をされてしまうのだ。まるでそんな人間など存在しません、とでも言うように。昨日の夕方から今まで、来るかもしれないと期待したモクバからの連絡も一切無い。こちらからもコンタクトは取れそうに無かった。電話をかけてみても、家を訪れてみてもやはりすぐに追い返されてしまう。
ただひたすらに不安が募った。確かに存在しているものを捜しているはずなのに、途方も無い作業を強いられているような気分になる。海馬瀬人、という人間は確かに居る。絶対にこれは間違いない。現に今こうして必死に歩き回っているのは、モクバが「兄サマを捜してくれ」と叫んだからなのだから。だが誰もが海馬など居ないような振る舞いをする。ふざけている様子も無く、ごく自然に。
(『海馬くん』は、存在してなかった……?あれは長い長い夢で、本当は『海馬瀬人』なんてこの世に居ない……?)
とにかくしらみ潰しに歩き回って、棒のようになった足を止める。一旦立ち止まると、疲れがどっと押し寄せてその場にしゃがみ込んだ。ため息を吐き出す。道行く人々が不審そうな目を向けてきているのにも構っていられないほど疲れた。
(海馬くんなんて居ない……?じゃあ……じゃあボクは……何でこんなに必死なんだ?)
道端で小さくなったまま心の中で海馬の名を思い浮かべる。そうすると何の苦労も無く次々とその名前に関する記憶が浮かんできて頭をいっぱいにした。そしてトドメでも刺すように、最後に会った日のことのことが脳裏に急浮上だ。結局決闘しないままで、その理由も教えてもらえなかった。最初はただ呆然としたけれど、今ではただ悔しい。遊戯は海馬の闘志を刺激するような人間では無い、と言外に突きつけられたみたいなものだ。
悔しいけど、何もできなくて、そこで終わりなんて弱虫とは、ボクはもう違うんだ。
「馬鹿なこと考えちゃだめだ!探さなきゃ!」
大きな独り言で気合を入れ直して立ち上がる。と、辺りの景色がひどく見覚えのあるものだということにやっと気が付いた。錆びた鉄柵がずっと道沿いに続いていて、その向こうにはグラウンドが広がっている。お馴染みの母校、童実野高校だ。夏休みに入ってから近づきもしていなかったせいで、強い陽光を反射する白亜の校舎がなんだか懐かしい。進学クラスの生徒は毎日のように課外授業を強いられていると聞くが、勉強面において親にも放任され気味の遊戯からは、校庭で爽やかな汗を流す部活動生しか確認できない。
「学校……、居るわけないよね……」
口ではそう呟きつつも、鉄柵に沿ってとぼとぼと歩みを再開する。気を持ち直したのはいいが、何の手がかりも無い状況は依然変わっていないのだ。とにかく歩き回るしかない。強い日差しに直接晒され続けたせいで汗が滝のようだ。汗を拭い拭い、やっと校門まで辿り着いた時だった。
「いいですか!不審者は一切立ち入り禁止なんです!閉まっている教室に侵入するなんて以ての外ですからね!どこの生徒かは知りませんが、次また見つけたら警察を呼びますよ!」
甲高い女性の声がすると思えば、校門から押し出されたのは長身の男だった。何やら叱責されている風なのに悪びれもせず、むしろ不本意そうに腕を組んでヒステリー気味の女性教師を見下ろしている。
「海馬くん!」
とにかく勝手に口が動いていた。目の前の状況が本物かどうか一刻も早く確かめたかったのだ。呼ばれた海馬も雷か何かにでも撃たれたかのように勢い良くこちらを見返した。
「遊戯……!」
「海馬くん、海馬くん見つけた!」
足がもつれそうになるくらい慌てて駆け寄った。海馬はいつものピシリとした格好でなく、よれた白いシャツと、グレーのスラックスだけだ。血色もどこか悪いように見えて遊戯は思わずその両腕を掴んで大丈夫かと訊いてしまった。ただ、近寄ってみればその目がやはり鋭く強い視線を放っていることに気づく。やっぱり海馬は海馬だ。こんな人間が存在したことを忘れるなんてどうかしている。
「良かった……海馬くん、捜したんだよ……!」
「貴様は……貴様はオレが分かるのか」
しかしわずかに戸惑う気配のある海馬のその言葉が、この異常な事態をより真実味のあるものにしたのだった。
「えっ……!じゃあ、一昨日の夜からずっと何も食べてないし寝てもないの?それで歩き回ってたって……」
どうりで血色が悪く見えるはずだ。
海馬はひとまず遊戯の家に引っ張って来ている。他に最良の選択肢は無い様子だったからだ。海馬から聞き出したところによると、海馬コーポレーション関係の施設の全てで門前払いを喰らったらしい。海馬コーポレーションの社長であるはずの海馬が、一般人の遊戯と同じ扱いを受けたわけだ。
「どっかホテルとか泊まればよかったのに……お金無かったの?」
とは言いつつも、外を歩き回って居てくれたおかげで遊戯は海馬を発見することができたわけだが。海馬が普段使うのだろう『お高い』ホテルなんて、遊戯には入っていく勇気もない。
海馬は遊戯の部屋のベッドに腰掛け、ゴミの山でも見下すように室内に視線を彷徨わせている。海馬の普段住んでいる大豪邸からすれば、こんな部屋トイレよりも狭いんじゃないだろうか。部屋に入る時も天井が低いことに文句を連ねていた。
「小切手帳もカードもある。だがこの状況下、敵のこの影響力だ。どのような思惑でどいつが動いているかはまだ把握できないが、既に相手の手が回っている可能性は充分にある」
「……使えなくされてるってこと?」
「それだけならまだいいだろうな。最悪、不正使用だの偽造だの騒がれてブタ箱行きだ」
「なるほど……」
いつもニコニコ現金払いが口癖のママは正しかったのか……などと思いはしたが、不興を買うのは目に見えていたので遊戯は無難な相槌を打つに留めた。遊戯のような庶民イメージ通り、海馬が現金を持ち歩いていないことに場違いにもつい感心する。
「でも休んでないんじゃキツイよ。特にこんな……よく分からない状況だし……」
「だからこそこんな時に落ち落ち休んでいられるか!オレへのこの最大限の侮辱……!敗北に甘んじるなどこのオレの性分ではない!どんな手を使ってでも倍は返上してやるわ!」
どこからどう見ても健康そうには見えないのに目だけはギラギラと光っている。おかげで海馬の本心からの執念が遊戯にまでビリビリ伝わってきた。ここで引かずに休むよう言い続けたって、どうせ海馬は横になろうともしないだろう。誰とも知れない相手への怒りが主成分だとは思うが――不安も、多少あるに違いない。
「一体……どうなってるのかな……。ボクも君を捜すために色んなところを回ってみたんだ。でも皆、何も知らないって顔するんだよ。あれは隠してるって顔じゃない……。本当に何のことか分からないって感じで……」
「この『オレ』など、まるで存在しないのが当然とでも言いたげにな」
海馬は歯を噛み締めながら拳を強く握っている。その力は震えるほど強い。もしいつもの日々と同じように寝て起きた時、自分の存在が皆の中からまるで消え去っていたら。遊戯には平常心で居られる自身が無い。不安になって、自分を見つけてくれる人を探すだろう。それでも誰も分かってくれなかったら――もうそこから立ち上がれなくなるかもしれない。
「ボクは!ボクは……分かるよ。君のこと……海馬くんだって。ちゃんと分かってる。同級生で、ゲームに強くて、スッゲー会社の社長で、青眼の持ち主で……」
「もういい、鬱陶しい。わざわざ確認せんでもオレはオレだ」
「アテムだって……!アテムも、もしこんなことになっても君のこと、絶対忘れなかったと思うよ」
「……そんなことを聞きにここまで来たわけではない」
元気付けようと思って必死に稼動していた口が、海馬の不機嫌そうな雰囲気のせいで動かなくなってしまった。気まずくなって視線を明後日へ彷徨わせるが、特に代わりの話題も見つからない。一人だけで勝手に焦っていると、海馬が呆れたように息を吐いた。
「何か……パソコンは無いのか。何でもいい。ネットに繋がってさえいればな」
「あー……ちょっと古いやつみたいだけど、リビングに一台だけあるよ。使う?」
返事を聞く前から立ち上がって廊下に飛び出す。海馬が後に続いているのを確認してから、狭い階段を下りてリビングまで歩く。専らゲーム用と化しているパソコンに電源を入れて、その前の椅子を引いた。やはり古い型だったのだろう、少し渋い顔をした海馬は「前時代だな」と呟いている。
「遊戯、お友達何がいい?とりあえず麦茶でいいかしら」
「あーうん。あと何かお菓子とかあったら……何も食べてないみたいだから」
「そうなの?あの子……あんまり見ない感じだけど、珍しいわね」
キッチンから出てきて遊戯の首根っこを捕まえた母親が囁いてくる。それだけでも少しうんざり来ているところに、アンタ友達少ないのに、などと余計なことを続けられてムッとした。確かに少し前まではロクに友達も居なかったけれど、今は違う。アテムのおかげで遊戯が変わったら、状況もがらりと変わったのだから。
「えーっと、海馬くんだよ。同級生の」
「海馬くん?変わった名前ねえ」
以前名前が出た時は、すぐにあの高校生社長さんかと身を乗り出してきたというのに。奥様のハイパーネットワークでは有名な噂話のひとつだったらしいのだ。それが今日は初めて聞いた話題のように目を瞬いている。こんな状態では、一から説明したところでまともに取り合ってもらえないだろう。悩んだ末、遊戯は持てる限りの力を使って、海馬について有ること無いこと吹き込んでおいた。(有ること一、無いこと九くらいだったと思う)言っている遊戯ですら胡散臭いと思うような話だったが、
「そう……若いのに大変ね……!」
何が功を奏したのか通じてしまった。まあこの緊急事態なのだ、多少の――かなりの嘘も方便ということになるだろう。涙まで滲みはじめた母親の目から逃れるため、海馬の方へ視線を飛ばす。何やら熱心に画面に食い入っているが、キッチンからでは何を見ているかまでは分からない。
「そう、大変みたいなんだよね。だから力になってあげたくてさ。泊めてあげてもいい?」
「いいわよいいわよ。大したことはできないけど……行く当ても無いなんてかわいそうだもの」
快い了承と共に母親から手渡された麦茶とチョコレート菓子を両手に、海馬の元に戻る。何が気に入らないのか、海馬はマウスを忙しく動かしながら相変わらずのしかめ面だ。声をかけるのもためらわれたが、何も飲み食いしていないという状況を聞いておいては放っておけない。両手を画面の前に突き出した。
「……何だこれは。邪魔だ」
「何だこれはって……お茶とお菓子だけど」
「要らん。余計なことはするな。貴様の施しなど受けんわ」
「うちに居る時点で施しも何も無いと思うよ……。本当に要らないかもしれないけどさ、なんて言うのかなー……うちのルールみたいなもんだと思って……」
しばらく煩わしげに遊戯を睨み上げていた海馬だが、心底忌々しげに舌打ちをして、それからやっと遊戯の手のものを受け取った。ほんの気遣いひとつがこんなに嫌がられるのも珍しい話だ。
「あ、遊戯。ゲームが終わったらでいいけど、」
「ゲームじゃないよママ!」
「なんでもいいわよ。とにかくね、近くに健康ランドあるじゃない?この前町内会でタダ券もらったのよー。せっかくだから海馬くんと行って来たら?」
せっかく来てもらってうちの狭いお風呂じゃかわいそうだし……なんて呟いている母親は、海馬が大企業の社長だなんていうことは忘れているはずだが。確かに海馬からすれば遊戯の家の風呂は狭いに違いない。何とも言いがたい、珍しい表情をしている海馬を見下ろす。
「どうする?」
「オレはシャワーさえあればいい」
「いやだ、遠慮しなくていいのよ!ほら、券!海馬くんは着替え持ってるの?パパの出してきましょうか!私、なんにもできないけど、応援してるからね海馬くん!頑張ってね!」
怒涛の勢いで近所のスーパー銭湯のタダ券を押し付けてきた母親は、言葉を終えるや否やバタバタとリビングを出て行った。発言通り父親の服を持ってくるつもりだろうか。
「…………貴様、母親にオレのことを何と説明した」
「聞かない方がいいと思うよ。……ボクが怒られるから」
「芋でも洗うわけでも無いだろうに、こんなにくだらん人間が密集している中で風呂に入れと言うのか。このオレに!オレはこういう場所が心底嫌いだ!大体、悠長にこんなことをしている場合ではないと何度言えば……!」
「そりゃあ……ちょっと呑気すぎるかなって思わなくも無いけど……もう来ちゃったんだからさー。それに、シャワー浴びるより風呂に浸かる方が疲れが取れるって言うじゃないか。海馬くんだって疲れてるでしょ?ちゃんと休んだ方がいいよやっぱり」
「その説に科学的根拠はあるのか!世界的に見てこんなに湯を浪々と浪費してまで湯船に浸かりたがる民族などそうは居ないのだ!貴様の説が罷り通れば世界中が疲労物質だらけになるわ!」
「ボクの説って言われても……。ボクもよくそういう話聞くだけだし……」
ロッカーに海馬の怒声が響き渡って注目を集めている。しかも内容が内容だけに突き刺さる視線も厳しめだ。内心冷や汗を掻きながら、文句たらたらの海馬を何とか風呂まで押し出した。健康ランドだとかスーパー銭湯だとか言ったところで中身はただの古くて大きいだけの風呂場だが、家の風呂より数十倍マシなことには違いは無い。
「オレはすぐに出るぞ」
「えーもったいないじゃないか。せっかくタダなんだし……」
「タダだからどうした!卑しい貧乏人め!」
「ちょっとぐらいゆっくりしたっていいと思うよ。背中流そうか?」
「要らん!」
なけなしのサービス精神は一言で拒否された。まあここで「頼む」などと返されても困るのが本音だが。とにかく、海馬ほどでは無いだろうが疲れた。ここ二日ほどに起こった様々な奇怪な出来事がまだうまく整理できていないのだ。体を適当に洗い、湯を頭から被って考えをまとめようとする。が、やはりそれぐらいでどうにかなる問題でもなかった。
(でも、良かった。海馬くんが居て)
あんなに傲慢であんなにメチャクチャでも、それでもやはり、遊戯は海馬を見つけることができて嬉しかった。安心したのだ。それをきちんと確かめたくて海馬の姿を探すと、まさしく風呂場を後にしようとしているところだった。滑らないよう注意しながら海馬に追いつく。
「海馬くん!」
「何だ!」
「ダメだってば!百数えなきゃ!」
「一人で百でも千でも億でも数えていろ!」
「ほら、騙されたと思ってさ!」
海馬を引っ張るとかなり抵抗の意志を感じたが、海馬も疲れているのだろう。呆れたように遊戯についてきている。最終的には共に湯船に浸かった。やはり難しそうな顔をされたが。
「貴様に疲れさせられるようでは結局意味が無いわ」
「それは……ごめん」
「フン」
妙な状況だな、ということに隣並んで初めて意識した。あの海馬と肩を並べて風呂に浸かっているだなんて。アテムが見たらどんな反応をするのだろうか。意外にツボにハマりそうだ。
海馬の力になりたかった。今、海馬のために力を尽くせるのは遊戯しか居ない。海馬のことを覚えているのが遊戯だけなのだから。だがこれでは何の力にもなれていないのが現状のようだ。途方に暮れた顔を隠すために顔を洗う。
「遊戯?」
「うまくいかなくてごめん。ボクもなんとか、君のためになることしたいんだけど……」
「余計な世話だ。相変わらずのな」
そう言う海馬にしたって、相変わらず容赦が無い。すっかり次に言う言葉さえ失くしてしまっていると、出来の悪い作品を眺める芸術家みたいな顔の海馬が代わりに口を開いた。
「オレは三年になって一度も学校に行っていない」
「え……うん、そうだね。あ、ボクと同じクラスだよ!」
「知っている。忙しいこのオレの妨害作業にやってきた時に貴様が言っていたことだろうが」
「別に邪魔するつもりは無かったよ……!それで?」
「貴様が言っていた教室には、出席簿が残されていた。そこには当然オレの名もあった」
「それを確かめに学校に居たの……?」
「何か手がかりになるものがあればと思っただけだ。とにかくそこにオレの名はあった。だが――遊戯。貴様の家からネットで見た情報にはオレの名はひとつも見当たらなかった」
「それって……どういうこと?」
「さあな」
あっさりと言い切って、海馬は腕を組み替えた。それ以上何か口にする気は無いらしい。だが遊戯にはその横顔が、もう既に何か答えを得た顔であるように思えた。
「海馬くん?」
「何だ」
「いや、何だじゃなくてさ……。海馬くん何か心当たりあるんじゃない?」
「そんなものあるわけが無かろう。あったとして、何故貴様に懇切丁寧に教えてやらねばならんのだ」
整理しておくが、この状況はかなり海馬にとって危機と言えると思う。自分の後ろに残っているはずの道から自分自身まで、全部黒のマジックで塗りつぶされてしまうなんてとんでもないことだろう。だから何か手掛かりがあれば聞きたいと思う。遊戯は海馬を助けたいのだ。これは充分『懇切丁寧に教えてやらねばならん』理由になるはずだが。
しかしこの海馬だ。いくら聞いたって答える気は無いに違いない。さすがに少しだけムッとして、意地の悪い気持ちになった。
「……海馬くん」
「何だ。しつこいぞ」
「肌、白過ぎじゃないかな」
「何だと?」
海馬がわずかに身を乗り出してきた。まさかこういう切り返しは想定していなかっただろうし、単純に腹が立ったらしい。だが重要なことを何も教えようとしない方が悪いと思う。今日だってそうだし、遊戯との決闘を避けた時もそうだ。
「たまには外出て太陽に当たった方がいいと思うよ!やっぱ男は色白なんてカッコつかねえって城之内くんも言ってたぜー!」
「……フン。くだらん。そのようなほとほと呆れ果てる暴論を信奉しているから貴様はそこまで貧相なのだ」
「……その貧相ってどういう意味。ねえどういう意味」
「言って決定打を加えられたいのか。変わった趣味だな」
「ボクだって、そのー、あー、大体!まだ成長期が来てないだけだから!」
「馬鹿馬鹿しい。オレはもう出るぞ」
「あ、ちょっと海馬くん!」
ロッカーから出てからずっと、海馬は遊戯の父親の服に小さいだの短足だの散々文句を言っている。その遺伝子を二分の一持っている遊戯はただただ複雑な気分になるしかなかった。丈が短くてくるぶしが見えているズボンを履く海馬は少し面白かったが(もちろんこれ以上機嫌を損ねないために笑いはこらえた)。そのままさっさとこんな場所から脱出しようとするのだろうと思っていれば、海馬はふと足を止めた。
「海馬くん?」
返事は無いが、その目線にあるのは新聞だった。何種類もの新聞や雑誌が自由に読めるように並べてあるのだ。海馬は一昨日の夜からあちこち動き回っていたからチェックする暇が無かったのだろうか。
「読んでく?ほらあそこ、丁度空いてるよ」
空いている椅子を指で示すと、海馬は新聞をいくつか手にとってそこに座った。黙々と安っぽい紙をめくっているその隣に遊戯も腰掛ける。手持ち無沙汰にあちこち視線を彷徨わせていると、並んで座っているこの椅子がただのリクライニングチェアでないことに気づいた。ポケットにねじこんでいる小銭を取り出す。
「海馬くん、これマッサージチェアだよ」
「……それがどうした」
「サービスサービス。はい、」
椅子の隣のコイン投入口に小銭を入れると、たちまち椅子が低い唸りをあげた。ローラーの動きが気持ち悪いのか、椅子から少し身を起こした海馬は気味の悪いモンスターでも眺めているような様子だ。余計なことを、とまたも遊戯に文句を垂れていたが、馬鹿の耳に念仏、時間の無駄だなとやがては黙ってしまった。数分も経つと、マッサージチェアにしっかり背を預けて神妙な顔で新聞を読んでいる。正直かなり面白い。
(ダメだ……見てたら笑っちゃうよ……)
マッサージチェアの向かいの壁には、テレビが備え付けてあるのでそれに目をやった。大型だが少し古そうだ。野球の試合が中継されていて、年配の方々が熱心に観戦している。しかし野球にあまり関心のない遊戯にはただのつまらない映像でしかなかった。どうせなら決闘の試合流せばいいのに、と足をぶらつかせる。と、そこで野球中継の合間の五分ほどのニュースが始まった。放火事件のニュース、政治家の汚職のニュースと続いて、画面に見覚えのある顔が映った。咄嗟に海馬の肩を叩く。
「海馬くん、モクバくんだよ!」
遊戯の言葉で、マッサージチェアに身を沈めていた海馬が身を起こした。何か大事件というわけでもなく、つい昨日遊戯が目にしたような新たな事業展開に関する会見の様子である。数十秒ですぐに別のニュースに移ってしまい、海馬はまた背もたれに沈んだ。
「妙だ」
「……何が?」
「この新聞でも、そのニュースでもそうだ。海馬コーポレーションに関する報道が不自然に増えている。モクバの露出もな」
「言われてみればそうかも……!」
「これは――」
「あっ!違う!違うよ!」
もしモクバが、持てる全ての力を使って兄に反旗を翻したとしたら。
新聞をばさりと畳んだ海馬の顔はあまりに苦々しい。飽くまで予想だが、遊戯はその先に続く言葉が分かったような気がして大声を上げた。その場に居た客の注目を集めてしまったが、それでも海馬にその先は言わせたくなかったのだ。
「ボク、何かおかしいって気づいて、君に会いに行こうとしたんだ。海馬コーポレーションまでね。まあ、受付で追い払われちゃったんだけどさ。でもそこでモクバくんに会って……モクバくんが言ったんだよ、君を捜してほしいって」
モクバは車に乗っていて少ししか話せなかったこと、危ない様子ではなかったことを付け加えた。値踏みするようにその話を聞いていた海馬は、つまらなそうな顔を明後日に背けた。
「そんなこと貴様に言われんでも分かっている。勝手にオレを……オレたちを侮辱するような想像をするな」
「うん、そうだよね。ごめん」
申し訳ないような、安心したような妙な気分だ。海馬という人間がこういう輪郭だったと、丁寧に確かめているみたいだった。それを確認するたび、遊戯はやっぱり嬉しくなる。それはつまり、結局は海馬という人間が嫌いになれないということなのだろう。
「……何故貴様はオレのことを忘れなかった」
「海馬くんみたいな人、逆に忘れる方法を知りたいよ」
思わず笑ってしまった。怒られるかと思ったが、海馬は何も言わない。動かなくなったマッサージチェアに背を預けて、こちらを見ようともせず天井を睨んでいる。遊戯は椅子から立ち上がってそれを見下ろした。そろそろ帰ろうかと促すためだ。きっと母親が何か夕飯を用意しているだろう。だが海馬は立ち上がろうとせず、手にある新聞の束を遊戯に差し出した。
「昨日までの分は無いのか。表に出ていなくともどこかに残っている可能性はあるだろう」
「聞いてみる?」
「フン、オレはここを動かんぞ。貴様にはオレの手足となって働かせてやるわ!精々喜ぶがいい!」
「……えーっと、もう一回マッサージお金入れてもいいけど、寝ないでね」
「ママ帰ってきたよー!」
「お帰り。海馬くんは?」
「ボクの部屋上がってちゃったよ」
「あら、じゃあ悪いけどもう一回降りてきてもらってくれる?晩ごはんできてるから」
「はいはい」
「ああ、それと一応おでんで大丈夫か聞いといて」
生返事をして階段を上がる。恐らく母親は大丈夫じゃない場合のことなんか考えていないだろう。もちろん嫌いなものは断固として拒否する海馬の頑固さなど知る由もない。もしも海馬がおでん嫌いだったらどうすればいいものか。しかしこればかりは本人に聞いてみないことには分からない問題だ。しかし、おでんが嫌いという人間は遊戯の周囲にはあまり居ないので、海馬も大丈夫だろうと楽観視しておく。何を出したところで文句を言われるのには違いない。
「海馬くん、夜ごはんさあ――」
一週間ほど前までの新聞各紙をどっさり譲ってもらえることになり、海馬はそれを確認するためだと遊戯の部屋に上がっていったのだ。勝手に一人でずかずかと。らしいと言えばらしいが、人の家に泊まっている振る舞いではない。そんな海馬に呆れ半分、諦め半分、遊戯のベッドを我が物顔で占領し、広々と新聞を広げているのだろうと思っていたのだが。
「……海馬くん?」
確かに海馬はベッドを占領し、新聞を広げていた。が、予想していた姿とはかなり違う体勢だ。せっかくもらってきた新聞を下敷きに、ベッドに横たわっているのである。遊戯が声をかけてもピクリとも動かない。まさか死んでいるのでは、などと縁起でもない想像に焦るが、その体がわずかに上下しているのを確認して安堵する。寝ているだけだ。
「こんな時に落ち落ち休んでいられないんじゃなかったの?」
小さい呟きはもちろん自分だけにしか聞こえない冗談だ。眠いに決まっている。丸三日ほど不眠不休だったのに、あんなに騒げていたのがおかしいのだから。
しかしあの海馬が遊戯と一緒に銭湯に行き、こうして目の前で無防備に眠いっているなんて。今日はおかしなことばかりだ。だがもちろんそれは不快ではない。表情が自然に緩んだ。
「本当、海馬くんのこと、一生懸命忘れようとしたって無理だよ」