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最終回/回終最



※ 最終回: 2018-05-27 / 蒼天白月・再 (閃華の刻22内いちみかプチ) / A5オンデマ / P44
※ 回終最: Pixiv掲載した補完話(2018-09-09)

※ 刀剣破壊した刀が複数いる設定です。
※ 作品世界観に関する独自解釈・捏造が多分に含まれます。
※ 複数の本丸、複数の名も無き審神者が登場します。
※ 性格逆転気味の変種山姥切と長谷部が主人公、添えいちみかを楽しむ話です。

最終回

一、隘路のひと

 山姥切はぴくりと背筋を伸ばした。不穏な物音を微かに耳が拾っている。左手で耳元の襤褸布をわずかに引き上げ、右手を柄にかける。初夏の湿った風が青葉を揺らす音。鳥がばたばたと慌ただしく羽ばたく音。その更にひとつ先で、きいん、きいんと高い音が絶えず繰り返されている。間違いない、剣の合わさる音だ。それも次第に大きくなっている。どうやら一方が圧し負け、後退を強いられているらしい。布を再び深く引き下げ、小さくため息を吐き出す。ひとまずは様子見だ。人間同士の争いならば見なかったことにして踵を返せばいい。腰を低く落とし、踏む度に恨みがましく青く匂う野草の上を滑るように走る。すぐに何者かが木々の隙間で蠢いているのが見えた。荒い呼吸の中にどこか馴染みのある気が混じっていることにすぐ気が付く。間違いない──刀剣男士だ。気配を殺すことをやめ地面を蹴り跳躍する。鼻先で留まっていた血の匂いが喉の奥までむっと迫った。

「参る」

 大口を歪め不気味な笑みを浮かべているのは大太刀だ。山姥切が突如現れても、それは微塵も崩れなかった。嫌な音を立てて呼気を吐き出し、ゆっくりと、しかし隙無く刀を振り上げている。両手で強く柄を握り込んだ。ちらりと背後へ目をやると、血まみれの男がそれでもなんとか刀を構えている様子が窺えた。

「へし切長谷部か」

 この刀の気性からして、何か言い返されるかと思ったが、男──長谷部は小さく頷いただけだった。相当失血して霊力が弱っているのかもしれない。しかもこの足と血の匂いでは逃げるのも隠れるのも難しいだろう。

「……斬ればいいんだろ」

 山姥切の独り言を合図にしたわけでもないだろうが、敵が勢いを付けて太刀を振り下ろしてくる。それを刃先で滑らすように交わし、力任せの勢いを殺さずに横に跳び、脇の木の幹を蹴りつけ跳躍する。長谷部を横凪ぎに折ろうとする巨躯に足蹴を入れてわずかに体勢を崩すことに成功したので、そのまま脇腹に斬撃を加える。野太い声を上げて敵が後退した。その隙に距離を取って長谷部の腕を強引に引きずる。

「後退するぞ」

 やはり長谷部は小さく頷くのみだ。呼吸の度に肩が上下している。厄介なことに錬度がそう高くないらしい。対する敵の大太刀は装備も強さもそれなりに見え、山姥切にも一撃で倒すことは難しい。あと二三撃は入れたいが、その前に一発は向こうの反撃を覚悟しなければならないだろう。そんなことを考えていれば当然防戦一方になる。敵の重い一撃をやっと受け流したところで、山姥切はこの長谷部も同じことを考えた可能性に行き着いた。
 つまり、ここで文字通りに肉を切らせ勝利を収めたとしても、手入れする者が誰もいないならばただの相討ちだ。ふと、手入れの時のあの、くすぐったいような、暖かいような不思議な感触が蘇った。審神者の気遣わしげな表情も。山姥切、手入れしよう──走馬燈だろうか。縁起でもない。

「俺なんて、血で汚れているくらいで丁度いい」

 一撃の覚悟は決めた。その後のことは後のことだ。今更、手負いが一振ひとりだろうが二振ふたりだろうが悪い状況は変わらない。審神者と政府に幾重もの結界で守られた本丸を抜け出した時から、いくつも死線をくぐり、幸運にも生き延びてきた。今回もそうなればいいだけのことだ。鼻で息を吸い、腰を低くして刀を掲げる。細く息を吐き出して目を見開いた。大太刀と力勝負は不利だ。相手の大ぶりな動きの隙を付いて間合いに入ろう──再び地を蹴ろうとする。

「参、」
「一期一振、参る」

 偵察にはそれなりに自信と経験があるのだが、一切気配を感じなかった。まさに「唐突に現れた」と言うしかない声の後、一拍遅れて紺色の背中が飛び出し、敵の動きよりも遙かに早く刀を振り上げた。初夏の青空に敵の首が飛び、残った胴からは血飛沫が舞う。それから刀を庇うように背を向け、男は山姥切の視線に答えるようににこりと微笑んだ。

「一期一振……?」
「お初にお目にかかります。山姥切殿」
「だが、その刀は」
「ああ、失礼。こんなお姿のままにさせてはいけませんな」

 一期は徐に懐紙を取り出すと、白く薄い刀身から血脂を丁寧に拭き取った。かちり、と身を起こして拭き漏らしが無いかを確認している間に、初夏の強い日差しがちらちらと特徴ある打除けを美しく光らせる。その様を凝視する山姥切に嬉しげな笑みを返し、一期はゆっくりと刀を腰の鞘に納めた。

「仕方がないこととは分かっていますが、あまり見惚れんでください。私の伴侶ですから」
「……は?」
「ああ、落胆させてしまいましたか?だとすれば申し訳ない。これは私のつま、三日月宗近です。片時も離れんようにしております」

 誰も彼もすぐに魅了してしまって困ります、などと続けている一期に返す言葉が浮かばない。山姥切に気配を一切察知させず唐突に現れた一期一振が大太刀を一撃で倒し、その刀は三日月宗近であり、この一期の伴侶──いや、意味が分からない。整理する気も起きない。その時、ぐいと襤褸布を引かれ慌てて振り向いた。そう言えばこの場にはもう一振、手負いの長谷部がいたのだ。

「ああ、すまない。大丈──」
「俺たちの元は刀だろう。だがあいつは一期一振を佩いていない。するとあいつは、三日月では?」

 あ、これややこしくなるやつだ。山姥切はとりあえずそれだけを悟った。そして言葉を失っているうちに襤褸布で額の血を拭われ始めて困惑した。確かに血で汚れているぐらいで丁度いいとは言ったが、そういう意味ではない。

「ははは、そちらの長谷部殿は面白い方ですな。ですが、刀剣の婚姻では姓を変える必要はないんです」
「……いや、そうじゃないだろう」
「そうか、よく分からんから一期と呼ぶ」
「……流すな」

 どさり、荒々しい物音を立てて長谷部がその場に腰を下ろした。膝づいて傷を確認すると、右脚は服ごと切り裂かれ血がどす黒くこびりついている。少なくとも手当はしておかなければまずい。一期はともかく、長谷部が先ほどからどこかとぼけたことを言っているのもこのせいだろう。意識が朦朧としているかもしれない。

「お前、単騎……ではないだろう。錬度が低い」
「そうだ。主が出ていけと言うので出てきた」
「そ……そうか」

 長谷部はあっけらかんとした調子で言っているが、聞くほうはそうもいかない。刀剣男士にはずしりと重みのある言葉だ。それ以上の事情を聞き出すことは躊躇われて口を閉ざしてしまう。

「それはいかん」

 代わりに答えたのは一期だった。山姥切のすぐ隣にしゃがみ込んだが、相変わらず気配が羽根のように軽い。かつて自分の本丸に居た一期一振とはまるで違っていて奇妙だった。

「どんな事情かは存じませんが、政府の認めん戦場などに迷い込んでは事です。ここは一旦こちらの本丸でお休みになられては?」
「ああ、助かる」

 即決である。

「では早速……」
「ま、待て……お前、いいのか、それで」

 遠慮は必ずしも必要でないにしても、単騎でなく『一振』でいるなら疑念は持つべきだ。ここには三振の刀剣男士が揃っているが、それぞれが互いを知らない。仲間だという言葉を信じる根拠がないのだ。加えて、裏切られてもなんとか応戦できる腕が山姥切にはあるが、長谷部にはそれがない。
 しかし他に長谷部の怪我を治す道があるかと問われれば答えられないのもまた確かではある。時の隙間を走る街道は本丸をその道々に隠しているだけでなく、時折万屋や宿屋のある城下町に導いてくれることもある。どこか大きな本丸か人ならざる者の城の裾で栄えたものだろう。しかしそこで刀の手入れを行うような舗を見かけたことはない。もしかすると隠れているだけで何らかの繋がりを辿れば見つかるのかもしれないが、出来る限り事物との接触を避け一振で旅を続けている山姥切にそんなツテなどあろうはずもない。主の居るもの、居ないもの、人であるもの、ないもの。時には敵さえ行き交う道を当て所なく彷徨って有るか無いかのものを探すのは──襤褸布の影で小さくため息を吐き出した。

「……俺も行く」
「ええ、初めからそのつもりでしたが」

 一期はにこやかに黄金色の記章を懐から取り出して見せた。それは審神者が部隊長に任じる際に渡すもので、これを持つ刀剣のみが審神者の示す戦場に部隊の刀剣を率いることができる。だがこの記章は飽くまで審神者の命を確実に遂行するためのもので、出陣や退却の判断を好き勝手行うことはできない。これを持っている限りは審神者の意思に反することはできないのだ。山姥切も数え切れぬほど隊長を務めてきたから勿論分かっている。

「何故だ。俺は怪我をしてないし、こいつとはここで会ったばかりだぞ」
「私では長谷部殿を運べませんので」

 言葉の意図が掴めない。怪我人を運ぶのに確かに人手はあったほうがいいだろう。しかし一期は太刀なのだから、肩を貸すくらいなんでもないことだ。沈黙から山姥切の困惑がやっと伝わったのか、花が綻ぶような柔らかい笑みをふわりと一期は浮かべる。

「私の両手はつまを抱きしめるためだけにあるもので」

 ──率直に言って面倒臭かったので、黙っていることにする。
 ちなみにその間、長谷部は自分の首や両手を山姥切の布の端で熱心に拭っていた。やめろ。俺の襤褸布はおしぼりじゃない。

「どうぞ」

 一期が先に部屋へ入るよう促すので、油断はせずに障子の先に足を踏み入れる。だが敵が待ち伏せている──などということはなく、ただ文机が中央に据えられているだけだった。陶器の花入れや色鮮やかな掛け軸、蒔絵の文箱や桐の書物棚がさり気なく部屋を彩っていて華やかだった。
 手入れ部屋に横たえた瞬間、長谷部は昏々と眠りに落ちてしまった。元々縁もゆかりも無い刀剣だ。何の感慨もなく、手持無沙汰にその寝顔を眺めていると、一期に声をかけられた。少し話しませんか、問われ拒む理由もない。こうなった以上、この本丸の審神者と顔を合わさないわけにいかないことくらい覚悟していた。

「部屋のものは好きに使って頂いて構いません。せるふさーびす、ですな」
「……ここは」
「近侍部屋です。今は私が使っております」

 凝視する山姥切に、一期は優しい笑みを返してみせた。一期一振が近侍を務めていること事態は何ら不思議ではない。兄弟想いで礼儀正しく、柔らかい物腰を持ちながら芯の通った男でもある。元居た本丸では同じ部隊に組まれたことも度々ありよく知っていた。

「近侍……だったのか」
「ええ。何か」
「いや……」

 だが、ここの本丸の一期は、なんとなくどこか山姥切の知る一期と違っている上、何故だか「大丈夫なのか?こいつで」という感情が込み上げてくる。しかしそんなことを当人に言えるはずもないので、言葉を濁してその場に腰を下ろした。一期も相変わらず気配なくその正面に座す。姿勢がいやに正しい。そこはどの一期一振でも同じなんだなと思った。いつもの癖で布を目深に被りたくなる。

「初めにまず、この本丸について少し話しておきましょう。この本丸は少し変わっておりまして、『清めの本丸』と呼ばれております」
「清め?」
「はい。まあ、野戦病院のようなものですな。刀傷はふつう主の手入れで治るもんですが、敵は得体の知れんところがあるでしょう。時折穢れや呪いをその身に受けて癒し切れない刀が出てくる。そういう者を受け入れ、癒しております」
「それで……」

 この本丸に足を踏み入れた瞬間、体がすっと軽くなる感覚がした。久々に「本丸」と呼ばれる場所へ入って体が勝手に緊張を解いたのだろうとひとりで納得して、そしてそんな自分に呆れ、深く考えずにいた。だがそれはここがどの本丸よりも気を清浄に保たれているからだったのだろう。
 この本丸には神刀や霊刀と呼ばれる刀が他の本丸よりも多く属しており、戦には出ず刀剣を癒すことにのみ従事しているらしい。

「ここの主が顔を見せないのもそういうわけか?」
「いえ、ここの主は極度の人見知りなんです。そのように麗しいかんばせを見ては恥じ入って何も言えなくなるでしょう。まあ、麗しいと言えば我がつまに比肩するものはないですが」

 否定する暇を一切与えないのろけ話への転換に追いつけず、口をまごつかせながら布をぐいぐいと引き下げた。なんなんだこの男は。俺が写しだからか。

「ともかく、ここは特殊な事情がありまして、よその本丸の刀を好きに招き入れることができる代わりに、滞在する刀剣について政府に届け出る必要があるんです」

 引き寄せたままの布をぐっと握り込んだ。こうなる可能性ももちろん、考えていた。だがいざ突きつけられると顔を上げられなくなる。山姥切殿、静かに一期は山姥切の名を呼ぶ。そろそろと上げた先の顔はやはり優しい笑みだ。

「──ただ、特殊故に多少の自由が隠れるところもある。安全と潔白が担保されていれば、ですが」

 事と次第によっては山姥切の事情を黙っている、そう言いたいらしい。そんなことが一介の刀剣にできるとは思えないが、できないとも言い切れない。この特殊な本丸は一期の間合いであって、山姥切はその中に既に入ってしまったのだ。選べる選択肢は無いに等しい。

「俺は……別に、何と報告されても構わない」

 それでも言いたくなかった。いや、言ってしまってもいいのかもしれない。そう珍しい話でもないだろうと思う。だが、話しながら思い出したくなかった。あの時に感じた、心と体が離れていくような気持ちを、もう繰り返したくはなかった。

「あいつの許しを得ずに勝手に外へ出た。それだけだ」
「旅慣れた様子でした。随分長くお一振だったのでは?それが突然終わっても構わんのですか」
「……外に出て何か変わることを期待したわけじゃない」

 別に何かがしたいと思ったわけでも、あいつから逃げたいわけでもなかった。ただ、毎日が苦しく、悩ましく、外に出れば何か分かるかもしれないと思い這い出て、やはり何も分かっていないというだけのことだ。折れることも覚悟していたが、他の刀が折れるのだけは見たくなかった。何事もないようにすれ違った刀が、その先で知らぬ間で折れてしまったとしたら、そう思うだけで恐ろしかった。だから長谷部を助けたことでこの旅が終わることは少しも惜しくない。
 山姥切殿、思考へ沈み再び俯いていた顔を上げさせたのは凛とした一期の声だ。

「この本丸へ刀を招くのも送り出すのも、みな私に一任されております」

 何もかも見透かすようで、相手の領分を踏み荒らすことはないと信じさせる、凪いだ色の金の瞳だ。こうしていれば確かにこの男からは風格のようなものを感じる。

「この話はしばらく留め置きましょう。考える時間が必要であれば、何も外でなくとも、ここでも構わんはず」

 柔らかい声に言葉を失い、布を引き下げつつもすまないとだけなんとか返せば、緩やかに首を横に振る。そしてこの場でこの話は本当に終わったらしく、一期は音も無く立ち上がった。にこり、と人好きのする淡い笑みを浮かべる。

「では、次は厨へ参りましょう」
「……くりや」
「ええ、先ほども申し上げましたが、この本丸には癒しを必要とする刀とそれを癒す刀ばかりが居るのみ」

 相変わらず話の転換に付いていけていない山姥切を覗き込み、一期は手が足らんのです、とにこやかに続けた。

「山姥切殿。この本丸へ刀を招くのも送り出すのも、みな私に一任されております」

 先ほどとは何かが違って聞こえたが、山姥切は言及を差し控えた。

「……長谷部」

 結論から言うと長谷部のとぼけた言動は怪我のせいではなかった。己の主の手入れを受けたわけでもないのに怪我はものの三日で完治し、この本丸で『特別元気』などとあだ名されるほどだったが、言動は三日では治らなかった。

「お前……何をしているんだ」
「なんだ!何か言ったか!」
「だから、何を」
「悪いが!もう少しかかりそうだ!」

 庭にまで引っ張り出されたコードを電源から引き抜くと、庭石の土埃を執拗に吸い込むことを強いられていた掃除機が断末魔を残しつつやっとその役目を終えた。

「どうした。他でも使うのか」
「どうした……じゃないんだが……お前、今まで掃除をしたことがないのか……?」
「何か違っていたか。埃取りだと堀川が言っていたが。前の本丸では他の刀が全てやっていたから詳しくはないな」
「そ、そうか……」

 高くない錬度でありながら一振きりで彷徨っており、その理由が主が出て行けと言ったからで、戦どころか内番や日頃の生活すら慣れた様子が見えないとくれば、嫌な想像しか働かず、それ以上尋ねることが憚られる。今やすっかり長谷部は「主との確執を経て『こう』なってしまった」というのが定説になり、誰も彼もが気遣って接している。

「それは室内でしか使わない。後は俺がやる」
「分かった」

 素直である。そう、素直ではあるのだ。へし切長谷部と言えば主以外は眼中に無く、その他へは刺々しい言動をすることも多い。山姥切のかつての本丸でもそうだった。長く付き合っていればいい奴だと分かるのだが、主が絡むと途端に面倒臭くなる。主が居ないからこその素直だというのは、なんともやり切れない想像だ。

「あ、山姥切しゃん、その掃除機まだ使っとーと?」
「いや……持って行っていいぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
「僕の本丸では拭き掃除の後に掃除機をかけているんです。そうすれば埃が舞わないと主が」

 博多、五虎退、平野は「清めの本丸」に居た短刀たちだ。どの刀もそれぞれ別の本丸から療養のために預けられているが、ほとんど同じ時期にやって来たためすっかり仲良くなったらしい。

「……運ぶ。どの部屋だ」
「広間です」
「こっちこっちー!」
「長谷部も来い。あいつらを手伝う」
「分かった」

 目を離すと仕事を増やされそうな気がする。五人連れ立って広間へと向かうことにした。

「それにしても……これだと『清め』というより『掃除屋』だな……」
「お、それうまかあ!よかビジネスになりそうやん」
「あの本丸の石切丸さんは、掃き清めるのも立派な清めだって、言ってました」
「でも確かにこんなことまで頼まれているとは思いませんでした」

 今山姥切たちが居るのは「清めの本丸」ではなく、一期が送り出した「どこかの本丸」だ。なんでも、大掃除をするのにとてもじゃないが手が足りないので手伝ってほしい、ということらしい。様々な本丸の刀たちを預かっているうち、療養以外のところでも頼られるようになってしまいまして、と一期は苦笑を浮かべていた。山姥切と長谷部を助太刀したのも、そういった頼まれ事の帰り道だったらしい。

「そう言えば……一期はどうしたんだ」
「いち兄は本丸です。別のお仕事がある、って」
「お前たちになら安心して任せられる、と僕たちに一任してくださいました。」
「いち兄にそう言われたら張り切るしかなかねー!」

 物は言いようである。なんとも言えない気持ちを抱えつつ広間へ入り、電源にコンセントを差し込む。

「一期だが、おかしいと思わないか」
「おかしい、ですか?」

 きょとん、と愛らしく首を傾げる五虎退に掃除機を手渡し、広間を見渡す。既に物は運び出されているのかがらんとしていて、他に手伝えることは無さそうだった。

「いや……三日月が伴侶だと言っているが、その三日月を見たことがない」

 確かにいつも腰元に佩いているのは分かるのだが、こうも男士としての三日月を見なければ奇妙にも思うだろう。まさかとは思うが、その「伴侶」とは想像上の存在にすぎないのではないだろうか。
 しかし五虎退はくしゃりと柔らかい笑みを返した。博多や平野も似たような笑みを浮かべている。

「三日月さんは、いつもいち兄のお傍にいますよ」
「それは刀だろう」
「人の体のほうもちゃんとおるばい。あの二振、ラブラブやけんねえ」
「……そうか」

 そうだとすると余程の出不精なのか、山姥切の運が悪いだけか。あの一期とこの長谷部と出会ってしまっただけに、後者の可能性があまりにも高い。思わず頭を抱えて蹲りそうになるが、なんとか踏み止まって広間を出ようとする。笑みを含んだ平野の声が背中にかかった。

「お会いできるといいですね、山姥切さんも。きっと話を聞いてくれます」

 どういう意味だと聞き返そうとしたが、五虎退がもう掃除機のスイッチを入れてしまったらしい。後で聞くことにして、長谷部と連れ立って廊下を進む。忙しく立ち働く刀たちは皆どこか楽しそうで、時々は足を止め、屋敷や荷物についての思い出をあれこれと語り合っている。そしてすれ違いざまに山姥切や長谷部にわざわざありがとうと礼を言っていくのだった。

「ああ長谷部、掃除機はどうだった?初めて使うって言っていただろう」

 馬小屋をなんとか掃除してげっそりと屋敷に戻ったところだった。声をかけてきたのは蜂須賀だ。

「ああ、便利だな。助かった」
「……五虎退がな」
「疲れたかい?悪いな、付き合わせて」

 首を横に振ってやる。別にこの疲労は蜂須賀のせいではない。馬小屋の掃除に長谷部を付き合わせた山姥切が悪いのだ。そうだ、どうせ俺は写しだ。
 蜂須賀はこの本丸の初期刀らしい。山姥切の記憶にある蜂須賀は、戦以外の仕事にあまり乗り気ではなかったが、この男はすっかり手慣れた様子で率先して掃除を取り仕切っていた。

「あれだけ物を運び出しているが、どこに持って行くんだ?」
「おや、君たちにも一期は何も話していないのかな」

 短刀だけ知らされていないと思っていたけれど、と蜂須賀は意外そうに眼を丸める。話すどころかここに来て初めて何をするか知ったと答えれば愉快げに笑う。どうやら一期のそういった性格を知るほどの付き合いがあるらしい。

「彼らは本丸の始末もするんだ」
「始末?」
「この本丸は主が戻ってこなくなって、もう何年か経つからね」

 病でね。政府はもう諦めているようだ、寂しげな表情は一瞬で、すぐにいつもの勝気で自信家な笑みが蘇る。聞いたことがある。いかなる理由であっても、審神者が長く離れることとなった本丸は政府が閉ざしてしまうのだと。

「必要ないとは思うが……立つ鳥後を濁さずって言うだろう。虎徹の『真作』として……いいや、主の刀として矜持があるからね」

 山姥切への茶目っ気のある笑みは、以前ここの山姥切と似たような話をしたからかもしれない。ここの本丸の山姥切は先ほどすれ違った時、頭からずれ落ちた襤褸布も気にせずに懸命に荷を運び出していた。

「一期はあの本丸へまるごと移って来てもいいと言ってくれたんだが」
「……強く勧められただろう」
「あそこは年中人手不足だからね」

 心底愉快げに蜂須賀は笑い、それから空を見上げた。「清めの本丸」は小雨だったが、この本丸は五月晴れだ。何がその違いかはよく分からないが、紅藤色の長髪と黄金色の髪飾りとよく似合っている。

「だが俺たちはあの主だからこうして体を持った。弟とともに好きなように過ごさせてもらった。それをただ返すだけだと思うんだよ」

 どこかから名を呼ばれ蜂須賀は屋敷の奥へと消えていく。その後はもう言葉を交わさなかった。

 掃除を終え、礼にとお八つまで出してもらったためか、別れの時も名残惜しげに短刀三口は見送りの刀たちを何度も振り返る。

「本丸を出る時は、振り返らないほうがいい」

 その背中を長谷部が優しく押して本丸の外へやっと出た。平野へ預けられた記章が五人を「清めの本丸」へと連れ戻す。

 主にただ返すだけ、山姥切もそう思えていたら、何か違っていたのだろうか。

 道場を出ると、汗ばんだ肌にじっとりと湿った空気が貼りついた。思わず胃の底から吐き出した吐息さえも重く感じる。屋根付きの渡り廊下から見る空には灰色の雲がぎっしりと詰め込まれていた。細い雨がしとしとと静かに降り注いでいる。
 長谷部と共に部屋で昼餉を摂った後、少し体を動かしたくなり道場へと向かった。長谷部はそんな山姥切をただぼんやりと見送るだけで後を付いてはこなかった。部屋の前の縁側に座り、ただただ雨を眺めている。妙な夢を見たとかでそうしているらしい。相変わらず変わったやつだ。最近こいつが「こう」なのは元々こういう気性なのでは──と疑い始めている。

 この本丸の道場を訪れたのは初めてだった。一期に自由に使って構わないと言われていたが、長く一振で旅をしていたせいか見慣れぬ本丸と見知らぬ刀剣たちに知れず気が立ち、外を出歩く気にならなかったのだ。だが一期にあれこれと遠慮なく物を頼まれるうち、それなりにこの本丸にも慣れつつあった。こうすると逆に刀を取り体を動かさないことが気持ち悪く感じ始める。これまでは毎分毎秒、いつどこで誰に斬りかかられてもおかしくない中で過ごしてきたのだ。突然ぬるま湯に放り込まれたようなこの状況に体は順応できていないのだろう。
 一振で素振りをすることになるかと思っていたが、道場にはそれなりに刀たちの姿があった。刀剣はやはり血気盛んな者が多い。少しでも体が動くようになると、ここに集まってくるようになるらしい。さも見知った仲間のように気安く声をかけられるのには困惑したが、結果としていい運動にはなった。

 屋敷に戻ろうとして、耳が微かに笑い声を拾う。高い声は短刀だろうか。ついつられるようにして声の元を辿ると、庭の奥に三つの朱傘が傾けられているのが見えた。やはりそれは平野たちで、庭木の足元に並んでいる紫陽花についてあれやこれやと相談し合っているらしい。既に五虎退の両腕の中には美しいものを選り抜いたと見える紫陽花がこんもりと抱かれていた。しかし、虎がその腕にぴょんぴょんとじゃれついて今にもこぼれそうになっている。それをわたわたと制したり、五虎退から紫陽花を受け取ったりしながら笑い合っていたらしい。
 自然と足が向いていた。さすがは短刀と言うべきか、すぐに気配に気づいた三口がぱっと笑みを浮かべている。そうなると今更引き返せない。三口の正面でぴたりと足を止め、一度布を目深に引き下げ、意を決して布を剥ぎ取った。まん丸に丸められた大きい瞳が六つ、じっと山姥切の動向を見守っている。

「……代えはある。今から着替えるから、使え」

 多少汗は滲んでいるかもしれないが。せっかく集めた紫陽花を零してしまうよりはマシだろう。目の前で布を広げてやると、三口はそこに紫陽花をそっと置き山姥切を笑顔で見上げた。

「ありがとうございます」
「……いや」

 布がないので仕方なくそっぽを向いた。濡れてしまいますから屋敷へ戻りましょうと袖を引かれたので歩き出す。博多が背伸びをして相合傘をしてくれているので、少し前屈み気味に縁側を目指した。

「山姥切さんは……かわいい、ですね」

 唐突な五虎退の言葉に狼狽えて見下ろしたが、その控えめな笑みには一切の曇りがない。
綺麗と言われることは嫌いだ。まっさらな写しだとでも侮りたいのか、何と比較して物を言っているんだと気分が悪くなる。しかし、可愛いとは。怒るのが正解なのだろうか。しかし五虎退は決して相手を侮るような刀ではない。では礼でも返せばいいのだろうか。いや、多分それは違うと分かるが。

「か、かわいいとか……言うな……」
「あー、かわいいもだめったいねえ」
「えっ、と……ごめんなさい」
「いや……謝るほどじゃないんだが……」

 縁側に辿り着き両手に抱えた紫陽花を布ごと床に広げる。どれも艶があり鮮やかな青紫色をしている。一朶に指先で触れると瑞々しく揺れた。

「……いい色だな」
「は、はい!博多や平野と相談して、選びました」
「俺はこういうことは得意じゃないんだが……さすがだな」
「ありがとうございます!」

 萎れた花のように傾げられていた顔が柔らかい笑みへと戻っていく。それにほっとしていると、博多に背中を指先でつつかれた。

「いや~やっぱ山姥切しゃんはかわいかよ~」
「博多、ひとの嫌がることは」
「分ぁかっとうよ」

 この刀たちはまるで本丸の違いなどなく、人の身を得た時から共にあるようだ。それがおかしくて口の端だけで笑う。しかしやはり短刀たちは気配に聡く、三口とも山姥切のそんな顔に笑顔を返すのだ。

「もう少し……山姥切さんと、色んなことを話したかったです……」

 五虎退がまたしゅんと俯いた。どういうことだと問えば、しっかり者の平野がそれに答える。ほとんど同時にこの本丸へ預けられた三口は、出て行く時も一緒らしい。今日には発つのだと聞いて、確かに急な感じがすると思った。

「山姥切しゃんはしばらくここにおるっちゃろう」

 手紙書くけんね、無邪気に笑われて言葉に詰まる。

 この話はしばらく留め置きましょう── 一度棚上げされた問いは、いつまでに下ろさなければならないのだろうかと思う。漠然と、このままでいてはいけないような気がしている。
 なんとか頷きを返した山姥切に返事待っとうよ、絶対やけん、念を押して博多は縁側に上がった。平野と五虎退もそれに続く。布をお借りしますだとか、ありがとうございますだとか口々に言いながら楽しげに三口は紫陽花を抱えていく。後から取りに戻るのだろう靴や傘を見下ろしつつ、何にともなく息を吐く。

 そしてふと気になった。あの紫陽花で部屋を飾るのだろうか。あるいは、療養中の者への見舞にするのだろうか。
 道場で刀を振るった後だからか、普段は湧かない思考に足が動く。別れへの名残惜しさもあったのかもしれない。突然の別れは嫌いだ。いつも、後悔ばかり長引く。そんな考えでふらふらと、しかし確かに気配は消して短刀たちの後を追った。こんなに長く襤褸布を手放して歩くのは初めてで、無意識に手が布の感触を求めて内番着を掴んでしまう。

 短刀たちは随分縁側を進んで、屋敷の奥へ奥へと進んでいき、ついにひとつの部屋へ声をかけた。失礼しますいち兄、平野が声を上げ五虎退が障子を開ける。
 なんだ、と少し気の抜けたような、残念なような、しかし少し安堵もしているような、不思議な気分になった。もしかしたらこの本丸の主の姿を見るのではと思っていたのかもしれない。

「三日月さんにお似合いの花をと思って、選びました」

 だがふと、そんな声が気になって返した踵を戻した。平野の言葉が蘇る──会えるといいですね。
 したしたと振る雨に紛れて遠目に覗き込む部屋には、一期が腰かけている。その周りには弟たちが。そして膝元に紫陽花が並び、それに飾られるように三日月が横たわっていた。閉じられた白い目蓋と長い睫毛から逃げるように背を向けて走る。
 一目見ただけで分かった。あれはただの体だ。こころはここにない。粉々になった刀の残骸の絵が目蓋の裏にちらついて、振り切るように走った。

 庭にある物置小屋の小さな軒端に蹲って、どれくらいの時間が経っただろうか。時折他の刀の気配を感じることはあったが、幸い山姥切に気付く者はいなかった。この本丸は山姥切のいた本丸に比べると随分広大だ。きっと客が多いからそうしているのだろう。元の本丸が手狭だったのは主がそれを望んだからだった。いつでも刀剣の気配を感じられるように。「もう」一振も欠けることのないように──首を強く振って膝に額を押し付けた。先ほどから思い出さないように蓋をしてきた記憶が押し留めても押し留めても流れ込んできて呼吸を見失いそうだ。雨の湿り気が、足元や尻を湿らせ喉元を圧迫する。辺りはもうすっかり暗くなっていて、雨は止んだようだが少し肌寒い。部屋に戻るべき理由はいくつでもあるが、しかし体が動こうとしないのだ。早々に屋敷へ戻ることを諦めた瞬間、殺気を感じていとも簡単に立ち上がり、己が刀を手に呼び寄せていた。鞘を抜いて構える。

 何か黒い塊のようなものが湿った闇から飛び出してきた。反射で刀を振り下ろすが手応えがなく慌てて飛び退く。その黒い塊を追うようにもうひとつ白い塊が迫って来る。ふわりと舞うのはよく見れば白い襤褸布、山姥切の外套だ。白い塊も山姥切に気が付いたらしく、通り過ぎる前に急停止する。被衣のように使われている布の下にあるのは、同じ山姥切の顔ではなかった。宵闇に溶ける黒い髪と対比して闇にぼうっと灯る白い面。形のよい眉の下にきらりと光る瞳がある。厚い雨雲が流れて、細い月が瞳の中にもある三日月を輝かせていた。

 ──三日月宗近だ。

 昼間見た「抜け殻」ではない。精彩に溢れた姿が襤褸布の下に納まっている。混乱する山姥切を認めた三日月は心底嬉しげに破顔した。それから口をぱくぱくと鯉のように動かしている。何をやっているのかと思ったが、どうやら喋りかけているらしい。

「なんだ、悪いが……分からない」

 とりあえず聞こえていないことを伝える。三日月に山姥切の言葉は届くようで、笑みはやや弱ったようなものに変わった。だがまた口がぱくぱくと動いて、三日月は嬉しげな笑みに戻り、被った布を豪快に剥いで山姥切の頭に被せた。それで山姥切は、恐らく礼を言われたのだと察する。この布は間違いなく山姥切のものだ。落としきれなかった長谷部の血の跡がうっすら残っている。
 ひとつ満足げに頷き、三日月はまたがばりと体の向きを変えた。先ほど逃げた黒い塊を追うのだろう。太刀とは思えぬ身軽さで土を蹴る三日月に続く。そしてそこでふと気づいた。腰元の鞘に三日月の文様は無く、代わりに紫の玉が揺れている。

 庭先をばたばたと走っているが誰も飛び出してくる気配がないのが妙だった。庭を縦断し、灯ひとつ無い暗い庭の中、薄明かりを漏らす離れを見つけた。堅牢な造りで、蔵のようにさえ見える。黒い塊はその障子に首を突っ込み、奇怪な笑い声をあげていた。
 敵だ。それは分かるのだが、見たこともない姿をしている。長い髪を両手で掴み、ぎょろりとした目を突き出して大口を開けて笑う。刀を持った様子もない。三日月は腰の刀をすらりと抜いた。小乱の交じる直刃の刃紋に沿って蒼く淡い燐光が揺らめいて灯っている。三日月は躊躇わずにその刀を振り上げてまた鞘に納めた。鬼と呼ぶほかないその異形の敵はそれだけで霧散してしまった。

 敵が消えて初めて、障子の向こうからすすり泣きが聞こえているのに気がついた。まだ何かいるのだろうかと刀を構えた山姥切を制し、三日月は障子の向こうへと足を踏み入れていく。どうしてよいか分からず、ただそれを見送った。
 部屋は手狭だった。長い黒髪を乱し部屋の隅で体を縮めて女が泣いている。よくよく見るとその腕の中には鞘に納められた一振の刀があり、縋るように抱きしめられている。なんだか無性に虚しくなって、女が泣き止むまでその頭を撫でてやっている三日月を立ち尽くして眺めていた。

 女が幼子のように泣き疲れて眠ったのを見て、三日月はふわりと庭へと降りてきた。そして相変わらず山姥切に声が届いていないことなど知らないように口を開く。なんとか「行こう」という言葉だと理解して、ずしりと重い体とともに足を踏みだした。どこへ行くのかは分からない。今夜のことで山姥切に理解できそうなことは何ひとつなかった。

「あの刀……歌仙だった」

 あの女はこの本丸の主だろう。それが分かったところで何も変わらないし、三日月の答えが聞こえてくるわけでもなかったが。山姥切はとうとう足を止めた。そのまま蹲ってやっと戻ってきた襤褸布を引き寄せる。
 山姥切には分かるのだ。見たことがあるから分かる。鞘はあっても、あの刀は折れている。そして二度と戻らないからあの女はすすり泣いている。

「……何故、お前はここに居るんだ」

 昼過ぎに見た一期の膝元、紫陽花なんか飾られている様はまさに「抜け殻」だった。だが、今は身も魂も間違いなくここにあるのが分かる。
 襤褸布をぐいぐいと引かれ、そろりと顔を上げると、その隙を狙うように三日月に腕を奪われた。ほぼ力ずくで立ち上がらされ、腕を引かれて歩き出す。
 雲間の細い月、あれは三日月だろうか。銀鼠色の袴が、紺青の着物が、宵闇色の髪が、金の飾り紐が、皆三日月を夜のものに仕立てている。月夜が三日月のためにあるなら、そうでない山姥切がただただ引きずられるしかないのも仕方のない話だ。

 縦断した庭を再び戻って、三日月はある縁側の前で足を止めた。昼下がりにも立ち寄った場所だ。開け放たられたままになった障子にまるで気付いていないように、青白い光に照らされて一期は眠っている。
 ぐい、もう一度三日月は山姥切の襤褸布の裾を引いた。そして熔けそうなほど甘い笑みで眠る一期を指さす。
 どうしてここに居るか。その問いの答えを見せようとしているらしい。

「お前がここに居るのは、あいつのためか」

 三日月は頷くことも首を横に振ることもしなかった。ただ笑みを浮かべて山姥切の言葉を受け止めている。

「ずっとそうしているのか」

 この問いには首が横に振られた。一期のほうを愛おしげに見つめ、何言かを言ったようだがやはり分からなかった。

「……羨ましい」

 言って、それが己の口から出た言葉だと思わず、驚いて思わず口を塞いだ。だが言ってしまうと止まらない。羨ましい。「終わり」を好きなようにここに留め置いている一期と三日月も、ここの審神者も。

「……俺だって」

 もっと想う時間がほしかった。その別れを受け止め、その別れが何だったのかを知る時間が欲しかった。
 あまりに唐突だった。遠征に出ているほんの数刻の間の出来事で、その前に何を話したかさえ曖昧なのだ。

「俺だってあんな終わりを認めたわけじゃない」

 皆その出来事を、心の中へ美しく綺麗に仕舞うことができているように見えた。山姥切が扱いに苦心し、いつまでも──寂しく思っているその別れを。

 気づけば一筋、涙が零れていた。三日月はまた、少し弱った笑みになって山姥切の手を引く。縁側に並んで腰かけ、しばらくそうしていた。月がまた黒い雲に覆われて少しも見えなくなり、小雨が降り始めた頃、ふと気づけば隣の気配が消え、一期の部屋の障子は固く閉ざされていた。

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