回終最
一、悲嘆のそこ
「一期一振です。失礼仕る」
審神者を刺激せぬよう、できるだけ柔らかい声を心掛ける。返事が無いのはいつものことで、これを待っていると埒が明かない。恨み節のようなすすり泣きが襖の向こうから聞こえないことを返事の代わりと見立てて、そっと部屋に足を踏み入れた。その途端、ふわりと風が体をすり抜けていき驚く。障子が開け放たれていて、昨晩の雨に洗われた透けるような晴天が四角く切り取られていた。珍しく審神者の機嫌は随分麗しいらしい。
部屋の壁に背を預ける審神者は、晴天の中に浮かぶ影絵のようだった。相変わらず訪問者のことなど気にもかけない。片時も離さず胸に抱く一振の刀の鞘を指で撫でながら、膝を抱えて小さくなっている。
「ご報告申し上げる」
新たに預けられたもの、元の本丸へ戻って行ったもの、ここに留まることを決めたもの、それぞれ仔細に報告する。審神者は一言も返事をしないばかりか、ちらりとも一期を見ることはない。それでも一期には審神者にそれを伝える義務があった。例えこの審神者が政府の厳しい監視下にあり、一切の自由が認められていないとしても、一期と三日月がここに在ることを許し、一期を近侍と任じたのはこの主だ。
ぺらり、物音に言葉を止める。垂れていた頭を上げ目を遣った。泣きはらして赤く腫れた目を伏せて、審神者は何かの綴りを眺めているらしい。
「お邪魔でしたか」
やはり返事はない。報告もほとんど終わっていた。万事、つつがなく。いつもの言葉で報告を切り上げ部屋を下がることにした。しかし毎度のことながら、審神者はそれだけは目敏く捉えているのだ。先ほどまでまるで一期のことなど見えていない様子だったにも拘らず、細い声で一期の名を呼んで引き留める。蚊の鳴くような声だ。朝な夕な休みなく悲嘆に暮れる審神者の喉はとうに潰れているらしい。
どうして、私があなたを近侍にしたか分かりますか。それは毎度繰り返される問いだった。そうして語りかけながらも、審神者の目は手中の刀にのみ優しく注がれている。いつもの問いなので、答えるのに時間はかけない。間髪を入れずに一期はいつもの通りに答える。
「知っているからでしょう、私が。この世に悲劇がありふれていることを」
審神者はもう何も答えない。それもいつものことだ。ただ口の端にあいまいな笑みをのぼらせて、後は悲嘆に埋没していく。戦にも己の城にもてんで興味を示さないこの審神者を、一期は一度も敬ったことはない。ただ恩義のために礼を失わずにいるだけだ。しかし一期はこの審神者を憐れんでもいなかった。似ていると思うのかもしれない。己と。