「加州、大和守。すまんが、少しそこをどいてくれるか」
一期と長谷部が消え普段通りの夏の水面に戻った池と、茫然とそれを眺める山姥切との間を忙しなく行き来していた二振は、背中にかかった声に勢い良く振り返った。
「三日月、さん……?」
「あっ、ひょっとして……」
すらりと長い刀身に見合った大きな身の丈。金の飾り紐が揺れる宵闇色の髪。夏の日の中で光る二つの打除け。三日月宗近だ。抜け殻のように横たわっているわけでも、境目を越えた者として闇に溶けているわけでもない。堂々たる立ち姿だ。他の本丸の三日月と違うところはただ一点、加州の目の先にある腰の一期一振くらいだろう。
場所を空けた二振の間に膝を付き、三日月は池の中に豪快に腕を入れた。その両腕から闇が滲むように黒が揺れる。そうして、ばしゃりと大きな水飛沫が上がって何かが池から飛び出し、尻もちをついた三日月に抱き止められている。
二振が驚きの声を上げる間もなく、頭から爪先までずぶ濡れの一期はむくりと身を起こした。そして、間髪を入れずに三日月に深い口付けをする。
「三日月……ここに……」
そしてそのまま、力尽きるように三日月の膝に頭を預けてしまった。体が上下しているので息はあるらしい。場は数瞬膠着していたが、ついに堪え切れないというように三日月が声を上げて笑った。水でびっしょりと湿った前髪を整えてやっている。そうしてその額に優しく唇を落とした。加州と大和守はまだ動転から帰ってきていないようだ。
これで、大団円だろうか。
終始ぼうっと全てを眺めていた山姥切は途方に暮れたように思った。
引き留めれば良かったんだろうか。だが俺のために振り返るなと長谷部は言った。
頼みを断ることはできなかった。「あの時」は何もしてやることはできなかったから。
加州のように共に戦ったり、大和守のように身を挺して庇ったりは疎か、別れを告げることさえできなかったのだ。だからその頼みだけは守ってやりたかった。これでいいのだと納得するしかなかった。それが唯一、初めて、別れのはなむけにできることだった。
「……帰るか、俺も」
一期も、三日月も、半身を帰るべき場所に残していた。だから元の場所へと帰った。それだけのことだ。山姥切もそろそろ、ありもしない答えを探し続けるのをやめるべき時なのかもしれない。
「そうか。だがお前の主はへし切長谷部が二振居ることを許してくれるだろうか」
ひっそりと踵を返したところだった。正面に立ち塞がるのは男。これもまた、頭から爪先までぐっしょり濡れている。ぼたぼたと服の裾から水が滴っているが、やたら顔だけ綺麗なのはもしや。さっきまで背後に居たぞこいつ。思わず己の襤褸布を振り返ろうとしてやめる。いや、そんなことを考えている場合ではない。
「俺は働くぞ。山姥切も覚えが早いと言っていただろう」
どこか感情の読めない、長谷部らしからぬぼんやりした顔。とぼけた物言い。まさかとは思うが、こんな長谷部が世に二振もあったらとんでもないという気もする。完全に思考が現実から逃避している。
「……お前、黄泉に還ったんじゃ」
「黄泉?地獄じゃなくか」
沈黙。
なんとかひねり出した言葉だが、この長谷部に行間を読ませるのは酷というものだっただろう。相変わらず何も考えていない。
「…………何故ここに」
「主にお目通りしたんだが。長谷部はどうしたいと訊かれてな」
「……それで」
「分かりませんので、山姥切に訊きますと答えたらここに居た」
明快である。
一期などは伴侶の手を借りてやっと池を抜け、更には気まで失っているのだが、それにしても長谷部のこの健勝ぶりは一体何なのか。全く力が抜ける。心配する猶予すら与えてはくれない。
「……いつも言ってるだろ。お前は、もう少し自分で考えたほうがいいぞ……」
「山姥切?」
とぼけた発言に脱力が極まるところまで行くと立っているのも困難になるものらしい。よろよろとしゃがみ込み布に包まる。そうするとびしょ濡れの長谷部も後に続いて来るので勘弁してほしい。向こう一日くらい一振にしてほしかった。
「泣くほど腹が痛いのか。大丈夫か?」
「……泣いてない。腹痛でもない」
そう言えばあの日。「あいつ」の出陣の前、最後にしたのは夕飯の話だった。夕飯は魚だと聞いたが、骨から身を剥がすのが苦手で、だとかそんなくだらない話だった。俺もだと相槌を打つと、何がおかしいのか「あいつ」は愉快そうに笑ったのだった。あまりにくだらなくて、泣きながら笑ってしまった。