文字数: 20,175

柑橘類 (いちみか・博へしパラレル)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9228528

檸檬

 まだ微睡みの中にあるかのような淡い朝陽の中を、とたとたと軽快な足音を立てて右に左に弟たちが往来する。育ち盛りの弟たちにかかれば、歴史ある粟田口家の本邸も猫の額ほどの広さでしかない様子だ。時に危うくぶつかりそうになりながらバタバタと慌ただしく身支度をする様は感心できないはずだが、一期はどうしてもそれを横目に微笑んでしまう。この慌ただしさが好きで、よっぽど目に余らない限りは見逃してやっている。

 名家存亡の危機と、少しでも血を引いていれば半ば拐かすようにして子供たちを集めに集めた先代は、たった十七歳の少女に当主などという仰々しいバトンを託してあっけなくこの世を去ってしまった。早速この虚栄にまみれた家を解体して弟たちをそれぞれの家へ帰してやろうと思い立ったが、当の弟たちにそれを阻まれてしまって今に至っている。実の家族のように一期を慕う弟たちを、一期もまた可愛く思っていた。

 遠方の学校に通い部活動に励む数人の弟たちは、もう既に家を出たようで姿が見えない。一期もそろそろ発つ時間だ。食べ終えてしまった朝食の皿をまとめて立ち上がった。古いしきたりでは食事の席は必ず一同揃ってと決められていたが、通う学校も学年も様々な弟たちにそれを強いるつもりはない。

「あぁっ、ダメェ!」

 一際高い声が戸口から飛び込んできて思わず肩が跳ねた。一期の傍で食パンに噛り付いていた信濃も驚いてそのままの姿勢で目を瞬いている。その視線を追うより先に気配が背後に迫り、肩を掴まれて皿ごと椅子に戻されてしまった。

「そのまま学校に行こうとしてる……よね?」
「乱、遅刻してしまうよ」
「絶対ダ・メ♡」

 聞く耳を持たない様子で、弟の内一人である乱は櫛と整髪料を持って構えている。毎朝のことなので最早押し問答もせずに好きにさせることにした。乱は昔から甘えたがりなところがあったので、これもその延長なのだろうと諦めている。しかし、弟たちの模範たる長子がこれではまるで身支度ひとつも出来ていないようで気恥ずかしいのもまた毎朝確かなことだ。弁明しておくが、身支度の際には必ず鏡の前で清潔な風貌を心掛けて整えているつもりだ。

「せっかく綺麗な髪なんだから、かわいくしなくちゃもったいないよ」
「乱はしっかり者だね。見習わないといけないな」
「分かってないなあ……」

 ひとつにまとめ上げていた髪が解かれ、丁寧に櫛が通されていくのが分かる。やはりこの瞬間は何か面映ゆいものを感じる。前髪や横髪を細い指先が器用に整えて、また髪がひとつにまとめられた。実のところ、一期には何が違うのか分からないのだが、乱なりのこだわりがあるのだろう。

「いつ!どこで!誰と!出会って乱れちゃうか分からないんだからね……?」

 手が髪から離れたかと思えば、覗き込むように回り込まれ眼前に指を突き付けられている。同時にふわりと鼻先を掠める香りがして目を細めた。

「レモン……?」
「そう!気付いた?好きでしょ?レモン」
「私が、かい……?」
「ええっ、違うのお?毎晩蜂蜜漬け作ってるでしょ?」

 それは部活用だ。なんだか気が抜けて思わず笑ってしまった。むくれる乱を撫でてやりながら礼を言い、今度こそ食卓を離れた。いよいよいつもの電車に遅れてしまいそうだ。

 色濃い西日が電車の窓を突き通すように入って来ている。電柱やビル、橋桁を横切る度に黒い影が落ちてはまた西日が戻る。人影がいつもよりも少ない。試験期間に入ったため部活動を早く切り上げ、中途半端な時間に乗っているせいだろうか。いつもは心地よい疲労感を振動音に重ね合わせているのだが、今日は気力が有り余っていてどうにも落ち着かない。空いた座席には座らず立ったまま、手持無沙汰に本を取り出した。薄っぺらい文庫本で、短編小説ならなんでもいいと思って借りたばかりのものだ。表題に今朝の出来事を思い出して、口元に笑みが浮かんでしまった。

 しかし、ぺらりとページを繰って、すぐに何とも言えない気持ちが込み上げてくる。なんだか長々と言い訳を読まされているような、軟弱な物言いに奥歯に物が挟まった心地がする。これが芸術というものか――だとしたら、やはり自分にはそれを解する心が足りていない。友人たちにも度々言われる耳に痛い言葉が実感となって染みた。一編も読み切らずに本を閉じてしまおうとまで考え始めた時、ふと本の先に数人の群れがあることに気が付いた。

 制服をだらしなく着こなした高校生らしき男が三人、下卑た笑顔を張り付けている。それに囲われるようにして座席に座っているのは、こちらも高校生らしき少女だ。黒いジャンパースカートに、夕陽で橙に染まった白い丸襟のシャツとリボンタイ。良家の子女が多く通うと聞く名門女子高のものだ。細い首筋の先には艶のある薄い唇が険のひとつもない曲線を描いている。血色の良い桜色の頬に、長い睫毛に彩られた丸い瞳。遠くからでも輝きが見て取れるようだ。すっと通った鼻筋と形の良い眉。それにかかる長い髪も、空気の澄んだ雪夜で染めたように艶めている。誰もが目を奪われずにはいられない、紛うかたなき「美少女」がそこにいた。

 数瞬、すっかり見惚れていたが、すぐにそんな場合ではないことに気が付く。彼女の周囲に立つ男たちはどう見てもどう聞いても知り合いなどではなく、どうにかしてどこかへ連れ出そうとしているらしい。彼女は困った様子もなくただただ笑顔でそんな男たちの声を聞いているばかりだが、男たちに諦める素振りは見えない。一期ばかりではなく車両に居る少ない乗客の誰もがその様を固唾を飲んで見守っていることがすぐに分かった。しかし、見るからぬならず者の風体をした若者たちに声をかけられるほどの形をした者は居ないようだ。ちらり、と肩に目をやった。素振り用に持ち歩いている愛用の竹刀だ。何の未練も迷いも無く文庫本を閉じ鞄へと仕舞い込む。

 男の内一人がついに痺れを切らして彼女の腕を掴み上げたので、その手首を渾身の力で握り込んだ。

「何だ……!?」
「その手を離して頂けますか」
「俺たちはただ……」
「待て、これ手が動かねえ!」
「他の方も迷惑しておられる」

 腕を掴んだのは一人だけだ。他の二人はすぐに良からぬ動きをしようとしていたが、一期の言葉で初めて周囲の白い眼に気が付いたようだった。公衆の面前で男三人に対し女一人では、さぞや体裁の悪い構図になるだろう。遠くに座っていた女性二人が立ち上がり、車掌を呼んできますと隣の車両へ移って行った。

 その瞬間、不覚にもわずかに隙が生まれ、腕を掴んでいた手が弾かれた。丁度よいタイミングで滑り込んだ小さな駅へ逃げるように男たちが駆け降りていく。車掌に引き渡していたとしても、声をかけていただけと言い張られればそれまでだろう。これに懲りて二度と迷惑行為を行わないよう願うばかりだ。ひとつため息を吐き、再び走り出した電車の中で重心を保ちつつ振り返る。

「世の中は物騒です。もう少しご用心を」
「その本、」

 木椀に漆を流し込むような耳に心地よい声が上がって、白い指先が一期の学生鞄をつついた。ポケットに突き刺した文庫本の表題だけが外へ出ていることに今更気が付く。

「読んだことがあるぞ」

 長い睫毛が瞳を覆い隠して柔らかい笑みを作った。それにまた数瞬見惚れ、そしてすぐそんな場合ではないことを再び思い返す。

「あの」
「おまえに似ているなあ」

 思いもよらぬ、意図すら掴めない言葉に目を白黒するしかない。そんな一期を愉快そうに見上げていた少女は、優雅な所作で立ち上がった。小首を傾げると細い黒髪がはらはらと小さく流れ、夕陽を透かして光る。

「礼を言うぞ。檸檬の君」

 何かの花の香のようなものが彼女とともに横切っていく。バタバタと荒々しい足音で駅員と女性たちが戻ってきたが、気づけばその場に残っているのは抜け殻のように腑抜けた一期ひとりだけだった。

 朝から散々だった。いや、昨日の夕方からずっと一期はすっかりおかしい。檸檬の蜂蜜漬けを作るのに一時間もかけてしまったし、素振りはいつもの二倍はやってしまったし、試験前のおさらいにと開いていたはずのテキストはいつの間にか閉ざされており、代わりにあの文庫本をあっという間に読み切って夜更けまで睨みつけていた。似ているとは、何が、どこを、どういう意味で――そんなことばかりが頭を巡り眠りさえ遠かった。

 朝になってみれば、乱に昨日と同じ整髪料を使ってほしいと頼んだが最後、弟たちに有りもしない詮索をされる羽目になってしまった。辛うじて試験中は集中を取り戻せたものの、いつも以上の成績を望めるかどうかは怪しい。自分から香るレモンの匂いがどうしても昨日の出来事を思い返させるのだった。

 もうすっかり頭に入ってしまっている教科書をめくっては戻しめくっては戻し、やっと不毛に気付いて図書室を出ることにした。昨日と同じ時間になってしまったのは、意識的か偶然か最早自分にも分からない。ふわふわと天地も無いような心地で夕暮れの車両に乗り込む。

 「私は街の上で非常に幸福であった」。目を皿にして何度も読んだ文庫本の一節がレモンの香のように脳裏に漂う。夕暮れの中、黒いタイツに覆われた長い脚がジャンパースカートの裾の先で行儀よく揃えられている。艶やかな黒髪にも白い頬にも長い睫毛にも夕陽が当たって、身体全体が淡い茜色に覆われているように見えた。「あるいは不審なことが、逆説的なほんとう」で、これが夢でなければ間違いなくあれは昨日の少女だ。

 しかし改めて考えてみると、特別に知り合いというわけでもない。名さえ知らないし、ほんの昨日顔を合わせたばかりだ。わざわざ近寄って声をかければ、まるで恩を売ったようになってしまう気がする。だが彼女が明日もこの時間、この電車に乗っているかは分からない。逡巡している内に電車のドアがガタリと閉ざされた。その音に導かれるようにして彼女がゆっくりと首を巡らせる。思わず目を逸らそうとしたが、できなかった。まるで星月夜を封じ込めたかのような瞳が夕陽の中できらきらと輝いている。花びらが舞い散るような笑みを零した少女がひらひらと手招きをして、花の蜜に吸い寄せられる蝶よりも頼りない足取りで一期はそれにふらふらと近づいた。彼女の目の前にまで辿り着くと、隣の座席を無言でぽんと叩かれる。

「やあ、また会えたな。檸檬の君」

 行儀の良い幼子のようにすとんと座席に腰を下ろすと、満面の笑みが覗き込んでくる。何と答えていいかも分からず、ただその笑みに見惚れながら必死にかける言葉を探す。

「……こんにちは」
「うん、こんにちは」

 やっと絞り出した言葉の拙さに、くすくすと笑いながら彼女はそれに答えた。知れず頬に熱が上っている気がして小さく俯く。

「やっぱりおまえは檸檬の君だなあ」
「えっ」
「良い匂いがする」

 すん、とひとつ鼻を鳴らした彼女は、そのまま一期の首筋に近づき、ついには頭を一期の肩に預けてしまった。背筋をピンと伸ばしたまま一期は身動きひとつ取ることができなくなった。すぐ眼下に長い睫毛と白い鼻先が見えて落ち着かない。結局彼女は、駅へと降りていくまでずっとそのままだった。昨日降りて行った駅のアナウンスが聞こえると、ゆるりと身を起こして一期を見下ろした。

「また明日」

 ぼうっとその笑顔をただ見送る。ふたつ、確実なことがあった。明日もこの電車に乗るだろうことと、いくら腹を探られようと同じ整髪料を使うだろうことだ。

 同じ時間にホームに立って五日目、金曜日。一期は今日もふらふらと夕暮れの電車に乗り込んでいた。そうすると笑顔で待ち構えていた彼女がひらひらと手を振る。胴を付かれた時よりも強いこの胸の圧迫感は一体何なのか。小さく深呼吸をして彼女の隣に腰を下ろした。今日はひとつの決意を固めて来ている。いつものように見惚れるだけで終わってはいけない。

「こんにちは、檸檬の君」
「あの」

 肩にかけた鞄の中には、あの文庫本はもう入っていない。返却期限が来てしまったからだ。試験期間も今日で終わりで、来週からは暗くなってからしか電車に乗らないようになる。一週間だけの儚い夢の中に檸檬を置き去りにするつもりは一期には毛頭無かった。やっぱり一期には芸術が分からない。

「私は、檸檬の君ではありません」
「おや、そうか。では、なんだ?」

 意外そうな顔をしてみせたのはほんの一瞬で、すぐに愉快そうな笑みが唇の端に浮かぶ。彼女はよく笑う。この短い逢瀬の中唯一知ったことだ。

「一期です」
「おお、いちごかあ。いちごも好きだ」
「そうではありません」
「うん?」
「粟田口一期と申します」

 ぱたりぱたり、瞬きをすると音がしそうな睫毛だ。それからすぐ、花が綻んで花弁が舞い散るような笑みが開く。夕陽の色に染まった白い掌が差し出され戸惑っていると、彼女は一期の指を軽くつまんで引き寄せた。

「書いてくれ。字が知りたい」

 突拍子のない提案に驚くが、彼女は一向に手を下ろして諦める素振りを見せない。柔らかい掌にそっと指を乗せると、ふふ、とくすぐったそうな呼気が漏れて思わずギクリとしてしまう。それに気づかないふりをしながら一文字を結んだ。

「長い指だなあ」

 三日月はこのたった数日の中で一期をよく褒める。夏空のような綺麗な髪だ、風鈴が鳴るような涼しい声だ、爽やかな長い脚だ――と、思い返す度一期の胸はぐっと重くなる。

「一期一会の一期か。おまえに似合う名だ」

 二度も書き直しをさせて、くすぐったそうに笑いながら彼女は嬉しそうに言った。しかし、そのきらきらと輝く瞳をじっと見つめる一期に、やっと言わんとするところを汲んでくれたらしい。

「そうか、こちらも名乗らなければな」

 電車がゆっくりと減速していき、彼女がいつも降りていく駅の名を告げている。焦燥が胸を焦がして、間延びしたアナウンスの声に紛れて口を開いた。

「私は、これきりにしたくないんです。明日も、明後日も、その先も――あなたにお会いしたい……!」

 言い終わるか終わらないかの内に、先ほどまで指先だけで触れていた手のひらが一期の手を包み込んでいる。強い力でぐいぐいと引かれ、彼女と共にホームへと降り立った。いつも背中が吸い込まれていくのを眺めるだけの駅に自分が立っているというのは、なんとも不思議な感覚がする。動悸がばくばくと煩い。部活動で十人抜きをするときだってこんなに暴れないだろう。

 その時ふと、幼少から鍛え上げている勘のようなものが体を支配して、考えるよりも先に動いていた。彼女を抱き込むようにして身を翻すと、背中に何か不快な匂いと圧がかかった気配がした。不快な笑い声と騒々しい足音が離れていく。匂いからして、カラースプレーのようなものを背中に吹き付けられたらしい。遠のく男たちの顔は見覚えのあるものだ。かつて電車内で掻かされた恥を幼稚なイタズラで晴らしたかったのだろう。はあ、溜息を吐き出し、今更に彼女を抱き込んでいることに気が付き慌てて身を離した。

「ご無礼を!汚れては……」
「一期」

 彼女の唇には相変わらず笑みが浮かんでいる。しかしその目にはいつもと違う炯々とした輝きが宿っている気がして驚く。徐に手が伸びて来て、一期の肩にかかった竹刀袋をするりと下ろされた。

「借りるぞ」

 手慣れた動作で竹刀が引き抜かれ、あっと思う間もなく彼女が飛び出していく。追われていると気付いた男たちが、面白い玩具でも見つけたかのように階段を下りて来るのが見えた。慌ててその背を追おうとする。

 ほんの一瞬だった。男たちがホームに足を戻した瞬間、地割れでも起きそうな電光石火の踏み込みで竹刀がまずスプレーを弾く。手首を抑えて呻く男の面に一本、残った男たちの胴に二本。見事な剣捌きだった。刀を納めるような仕草は癖なのか、すぐにそこに鞘が無いことに気付きばつが悪そうな顔で投げ捨てた竹刀袋を拾っている。

 ゆっくりと一期の元に戻ってきた彼女は眉根をわずかに寄せた曇った表情を浮かべていた。一期は初めて見るその暗い表情にさえ見惚れている。

「すまない。おまえの綺麗な夏空の髪が……」

 言われて初めて、赤いスプレーがべったりと制服と共に髪を汚していることに気が付いた。これはどちらも洗ったくらいでは落ちないだろう。伸びている男たちを警察に突き出して弁償を、などと頭の片隅ではきちんと考えることができているような気もするが、何しろまだあの美しい太刀筋の雷に打たれたままでいる。

「いえ、こんなことは、大して、あなたの無事に比べれば……」

 自分でも分かるどこか熱に浮かされているような声だ。すっかり腑抜けた一期をどう思ったか、彼女は柳眉を下げたまま優しく一期の前髪を撫でた。それからそっと額に口を付けすぐに離れていく。

「三条三日月だ。三日月、と呼んでくれ」

 三日月、その美しい響きと共に、すぐ間近にある丸い瞳の中に同じ名によく似た輝きを見つけた。余計に見惚れる。柔らかい感触の未だ残る額はひどく熱い。もう何が何やら分からない。すっかり頭がだめになって、檸檬は丸善を出たにしろ出ないにしろ爆発したのだな、と馬鹿げたことを考えた。確かにあの本と一期は似たところがあったのかもしれない。

(2018-02-12)

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