文字数: 72,834

最終回/回終最



三、追慕のうち

 梅雨の名残のような細い雨が降っている。吸う息にも吐く息にも水気が満ちて、肺まで湿って錆びつきそうだ。
弱い振動に腕を打たれながらざらりと鞘を滑らせる。刀を抜くのは好きだ。刀を抜くと、それが間違いなく己自身だと分かる。人の体はここにあっても、長谷部長谷部と名を呼ばれても、刀を抜かない限りは長谷部は自分が何者か分からない感じがするのだ。あの一期一振は己を見失ったりはしないのだろうか?あるいはあの三日月も。刀が手元に無くてどうやって自分が自分であることを証明できるのだろうか。

「長谷部」

 抜き身の刀をじっと眺めていると、山姥切の声が背中にかかった。じゃりじゃりと湿った土を革靴で撫でながら振り返る。振り返った先の山姥切の顔はどこか怪訝げだ。

「どうした、山姥切」
「いや……それは俺のセリフだ」
「俺はどうもしないが」
「野暮は言いっこなしだって。久々の戦で興奮してるんでしょ?」
「気分を切り替えないとな……」

 出撃するぞ、と勇んで声を上げている大和守を横目に、山姥切はひっそりとため息を吐き出している。

 一期が長谷部と山姥切、体の復調してきた加州と大和守に依頼したのは「草刈り」だ。それをまず聞いた時、加州はあからさまに不満げな顔をし、大和守もわずかに困惑したような表情を浮かべた。「清めの本丸」に託された者たちは、体の動かせるようになった者から広い庭の手入れを手伝わされる。もう散々してきたぞ、と言外にも伝わってくる。

 しかし一期が表情一つ変えずに笑みのまま話を進めると、たちまち二振の表情は明るくなった。草刈りは草刈りでも里に迷い込んだ敵の始末とくれば、血気盛んな二振に否やは無いらしい。長谷部は里での訓練に参加したことがないので実際に足を踏み入れるまであまり想像が膨らまなかったが、山姥切たちはすぐに合点がいったようだ。

 そうして、本丸に戻る前に肩慣らしができると足取りの軽い二振の後に続き、山姥切と長谷部も里へと降り立っていた。出迎えたのは「万一の後衛」という蛍丸で、荒野に張り巡らされた注連縄よりこちらへは敵が入って来られないこと、大物はすぐに片づけているからまず現れないだろうことを教えてくれた。

「おもりなんか要らないって言いたいけど、どこで見ても蛍丸って頼もしいよね」
「へへへ、ありがと。それじゃ行きますか、っと」

 注連縄を跨ぐと、たちまち細い雨の中にぴりりと肌を刺す気配が混じった。しかし加州も大和守も山姥切も慣れた様子で、肩に少しも力は入っていないようだ。危ない時はあっちへ戻ってね、と蛍丸がのんびりと指示する。無いと思うけど、とすぐに付け足された。戦意を笑みの端に滲ませた大和守は足元の小石を拾い、敵の気配のする方向へ投擲した。それが合図となった。

 茂みから姿を現した敵へと刃を合わせる。しかしその瞬間には加州と大和守の二振はもう長谷部の前に出ており、それぞれ敵をひとつふたつ斬り捨てた後のようだった。雨で滑りそうになる柄を握り込み、なんとか鍔迫り合いを制して力押しで敵の頭を割り血飛沫を交わすと、別の敵が長谷部の居たところに突っ込んで後ろへ流れていった。うっかり振り返ったりせずに済んだのは、山姥切の朴訥な声が背中にかかったからだ。

「零れは蛍丸が拾うからな。前へ往け」

 山姥切はそれだけ言うと長谷部を追い越して行った。次の敵、短刀の剣戟を防ぎながらなんだか不思議だなと思う。いつでも思い返す主の声はいつも長谷部に「振り返るな」と言う。「前へ往け」も似たような意味だと思うのだが、何故だか少し違った感じがする。一瞬の隙に刀を突き出して短刀を折り砕く。

「前へ」

 思わず繰り返していた。動きたい方向へ動きたい速度で、徐々に体が付いてくる感覚がする。口角が緩み、勝手に引き上がる。笑っているかもしれない。

「往こう、前へ、主の御許へ」

 今、自分が何かを口走った気がした。しかしそれに意識を向けるより山姥切の鋭い声がかかる方が早かった。長谷部、戻れ。一旦退く。確かに聞こえたのだが体が前の敵へとまだ向かおうとして離れない。敵の打刀を弾き返して更に斬りかかろうとしたが、その前に山姥切が飛び出して長谷部の前に居た敵を一通り斬り倒してしまった。引きずられるようにして後退する。

「山姥切」
「……なんだその目は。文句でも、」
「腹が減った」

 何故か山姥切は返事をせず大きなため息を吐くだけだ。くたびれて見えるが、いくら場数が違うとは言え山姥切も多少は疲労するのだろう。いつの間にか背後に回っていた蛍丸に押し出されるように注連縄の外に出て、少しよろけた。

「あいてて」
「安定!」
「大丈夫だよ。軽傷だって」

 左肩に血を滲ませている大和守とそれを支えるように立つ加州は一足先に注連縄の向こうへ戻っていたようだ。この負傷のために退却することになったに違いない。通信装置で一期へ連絡を取り「清めの本丸」へ戻ることになった。一期に報告する山姥切の話では、どうやら大和守は加州を庇って負傷したらしい。蛍丸への挨拶もそこそこに一瞬の帰途に就き、その足で大和守を手入れ部屋へ送る。

「ヘマしちゃった」

 はは、大和守が乾いた笑いを漏らすが、加州は自分の爪紅を退屈そうに眺めているだけでろくに聞いているふうもない。隣の山姥切に目を遣ると、困惑したような表情を浮かべているのが分かった。ちらりちらりと目線が加州と大和守の顔を往復している。

 沈黙が続く。大和守は手慣れない様子で、彼らの主から預かってきたという札を清めた傷口に張り付けている。多少の怪我ならこれで塞がる。後は己の本丸へ戻って主の手入れを受ければ元通りだ。しかし、体を癒しに来て傷を負って帰ると言うのも、考えてみれば奇妙な話である。

「あれ、そう言えば『特別元気』くんってほっぺに怪我してなかったっけ」

 大和守の言葉で、山姥切がこちらを振り返ってまた怪訝げな顔をした。加州もちらりと目だけをこちらに遣っている。しかし怪我した覚えがそもそもなく、帰還してすぐに手入れ部屋へ向かったので鏡なども見ていない。長谷部としても怪訝な表情を返すしかないのだが、大和守はまた笑った。本当に特別元気だよね、そう呟かれ、誰もそれに応えることなくまた沈黙。しばらくそれが続いて、とうとう大和守は観念したように息を吐いた。

「分かってる。でも仕方ないだろ。体が勝手に動くんだ」
「……『仕方ない』?」

 それまで押し黙っていた加州がぴくりと片眉を跳ね上げる。ぴり、と何かが肌を刺すような感覚がして長谷部は思わず瞬きをした。先ほど戦場で感じた気配によく似ている。山姥切に問いかけようと口を開いたのだが、声を出すより先に山姥切が小さく首を横に振っている。よく分からないが、どうやら声を出すなということらしい。しかしこのままいつまでも膠着しているわけにもいかないだろう。戦のせいか腹も減っている。

「喧嘩でしょうか」

 それはいけませんな、と誰も応えていないのに一期は勝手に相槌を打って深く頷いた。その場に居る誰もがのけ反っていることなどまるで気にも留めていない。にこにこと爽やかな笑みを浮かべたままゆっくりと大和守の傍で腰を下ろした。間違っても腰の太刀を床に強打しないように気を付けて振る舞っているように見える。

「しかしご安心を。粟田口流の仲裁で収めてみせましょう。ここへ来る刀はみな私の弟のようなもんです」
「……急にめちゃくちゃ距離詰めてきた」
「粟田口流の仲裁って……」

 大和守がその後に続く「一体何」を飲み込んで加州と視線だけでさっさと休戦協定を結んだ理由が長谷部には察せない。そこには非常に複雑な感情と推察が絡むからだ。君子は自ずから危うきに近づかないと言う。この「粟田口流の仲裁」が彼らの本丸の一期と同じようなものであれ、「こんな」一期に見合った変わったものであれ、彼らが避けて通りたい道であるのは間違いないのだ。先ほどの大和守と同じように、加州は観念したようなため息を吐きだした。

「俺だってこんな傷、大したことないって分かってるよ」
「ちょっ、いたっ」

 ぱしんと札の上に手のひらをぶつけてから、包帯を取り出し大和守の腕に巻き付けていく加州の手際は見事なものだ。しかし力が強いらしく痛い痛いと大和守が度々文句を漏らしている。先ほどの肌を刺す空気はもう残っていない。

「俺たちがここに来た理由は調査任務でさ」

 調査任務っていうのは、と加州は長谷部に向けて解説を加えてくれる。だがその言葉は少し前に既に耳にしたものだ。ちらりと一期へ目を寄越すと、金の瞳を柔らかく解して緩く笑みを浮かべ、己の唇に指を一本押し当てている。また声を出すのを阻まれてしまった。

 調査任務を与えられた審神者は、政府が既に認めている合戦場でなくとも、歴史修正主義者の魔手が伸びている可能性のある時点へと足を踏み入れることが許される。しかしそれは即ち、敵の情報が充分でなく政府の清めや結界が充分でない戦場に刀剣たちを送り出すことと同義だ。通常の任務よりも敵から穢れをもらいやすくなってしまう。幾年か前にそれが問題となり、今では一定以上の等級の審神者が持ち回りで調査任務を請け負い、穢れを少しでも受けた刀剣はこうして「清めの本丸」に送られることになっている――というのが加州の話だ。加州たちもこの任務に就き、そして敵本陣へと誘い込まれ深手を負うこととなってしまった。

「あの日こいつが俺を庇ったんだよね。それで、俺の傷はマシで、なんとか敵を突破できた」

 加州は目を伏せ、長い睫毛の影を頬に落とした。包帯から離れた手は固く握られ、胡坐の上に置かれている。遠くにかすかな蝉の声がする。そう言えばこの本丸には雨は降っていないし、項垂れた加州の首筋にも汗が滲んでいる。

「けど、それは、俺は……」
「でも、あるだろ」

 言葉ひとつひとつを慎重に掬い上げるように話す加州を、大和守はばっさりと遮ってしまった。落ち着いた表情で加州をじっと見つめ、その面が上がるのを待っているようだ。不本意そうに紅玉の瞳が動く。

「どっちか選ばなきゃいけない時が。仲間のために。主のために」

 また手入れ部屋は沈黙で包まれた。敵意の無い低い温度で、己の信じるもののために、加州と大和守は睨み合って動かない。一期は粟田口流の仲裁の一環なのかひたすら三日月宗近を愛おしげに撫でているし、山姥切はなんとも言えない表情でそれを眺めていて動かない。そして長谷部はひたすらに──腹が減っている。

「主は何と仰ったんだ」

 我慢できずに口を開くと、八つの瞳が一斉に長谷部を見た。大したことを言ったつもりもなかったので少し戸惑う。ただ世の条理を諳んじて見せているだけで、新しい発明をしたわけでもない。

「選ばなくていいぞ。俺たちは刀だ。主が進むべき道を示してくださる」

 そうか、そうだったという答えが返ってくるものとばかり信じていたが、加州も大和守も山姥切も何とも形容しがたい表情を浮かべ、視線だけで何やら会話しているように見える。一期だけはいつもと変わらぬ笑みで三日月宗近を撫で続けていた。

「……お前は単純でいいな」
「こら山姥切」
「でも、確かにちょっと羨ましいかも」
「それで、主は何と?」

 大和守の主は、長谷部の主ではない。だが知りたいと思う。刀の一挙一動に主が何を思い、どんな言葉をかけるものか知っておきたい。それを積み重ねれば、いつか胸の中にある主の言葉の意味も分かるようになるかもしれないと思う。

「……『二振とも帰ってきてくれて良かった』、だってさ」

 じっと答えを待つ長谷部に、何故か少し困ったような、照れたような笑みを浮かべて大和守は答えた。すると、すぐに知れることでしょうから、と前置きを置いて一期が続けて口を開く。

「修行を極めると遠戦で味方を庇う力を持つ刀もあります」
「ええ!?マジで?」
「そうなの?」

 首を傾げる長谷部に加州や大和守が興奮気味に語るところによれば、修行へ出て己を極めると剣技だけでなく霊力が高まり特殊な力を持つことができるようになるらしい。審神者の就任時から長く仕え夜戦などで活躍する短刀はその力が顕れやすく、他の刀たちの羨望の的になっているとのことだ。どんな刀がどんな力を持ちやすいのかを二振が一期に詰め寄り、一期がそれをのらりくらりと躱し、を繰り返してしばらく。二振ははしゃぎ疲れたのか肩を落として息を吐いた。

「僕、折れないようにするね。それでいいだろ?」
「簡単に言ってくれちゃって……」

 加州も大和守も先ほどまでの緊迫した様子もなく、いつもの気安げな笑みだ。何か互いに納得するところがあったようだった。

「ま、結局のとこ、庇っても庇われても変わらないくらい鍛錬するしかないわけね」
「ええ、まさに。『里』にもまだまだたくさんの敵を残しておいでですからな」

 はははは、一期の笑い声だけがやたら響く中、山姥切がのそりと立ち上がったので長谷部も後に続くことにする。やっと昼餉にありつけそうだ。出た縁側には陽が高いところから照り付けている。昼などはもうすっかり夏の様相だ。

「主が、進むべき道を示す……か」

 ぼそりと低い囁きが耳を掠めて通り過ぎて行った。廊下を進む山姥切の歩調は速く、俯いているので全く表情が窺えない。山姥切も腹が減っているのだろうか。

「何か言ったか」
「そんな風だから、」

 突然山姥切が足を止め、長谷部を振り返った。睨まれたのか、何なのかよく分からない。だがすぐに翡翠のような鮮やかな色をした瞳は離れていってしまった。また山姥切が大きな一歩を踏み出す。

「……見つからなくなる」

 ぼそり、今度は呟きを耳で拾うことができた。落ち葉のように言葉を落とす男だ。拾えない葉はそのまま風に流されていく。

「折れると、そいつはどこをどう探してもどこにも居なくなる。声すらしなくなる。ぽっかり消えてしまうんだ」

 多くの葉が落ちて長谷部の腕の中に積もったが、長谷部はそれをどうしていいか分からない。なんとなくその言葉は本来長谷部に向いたものではないように思えた。独り言なのかもしれないし、どこか違う誰かへ向けたものかもしれない。

「それを毎日毎朝知って、その度に打ちのめされる」

 付いて来るな、厨は一振で行け、長谷部にはそれだけ言って山姥切は縁側を走り去ってしまった。しかし、厨へ行けと言われたはずの長谷部の足は何故かその場で止まっている。何かが、胸を掠めていった。懐かしいような、虚しいような感覚に首を傾げ、しばらくそうして突っ立っていた。

「へし切はせ、」
「長谷部!」

 口上を遮ったのは掠れた声だった。力のない弱々しい声だったはずだが、長谷部の耳には強く突き刺さった。きょとんと目を丸めていると、わずかに震える手がゆっくりと伸びてきた。その手の持ち主はその己の動きがもどかしいようで、焦れた顔をしている。そんなに焦らずとも長谷部は消えやしないのに。

「私のわがままを許してくれ」

 やっと届いたその人の手は長谷部の膝元に触れた。そこで初めてここが鍜治場ではなく、その人の枕元であることを知った。まだ手を伸ばそう伸ばそうとして顔を苦しげに歪める顔に、慌てて膝元の手へ己の手のひらを重ねることにした。人の身を得て初めて握ったものは己の柄でも鞘でもなく、まるで骨を握るような細い指だった。

「最期に一目、もう一目お前に会いたかった」

 縋るような目の色は何かを祈るようにさえ見える。同時に何かを深く悔いているようにも見えた。どうしてかその時、長谷部は不思議な悟りに体を動かされていた。頬が、目尻が、勝手に緩む。この方は俺の口上など望んでいない。もっと親しげで、慈しみに満ちたあいさつを望んでいる。

「俺もです、主」

 両手に優しく納めている骨ばった手の甲に額をつけた。主は何も言わず瞳を閉じ、苦しげに呼気を漏らしながらはらはらと枕を濡らしている。そうしてようやく、うんとだけ返した。

「長谷部は長谷部なんだなあ」

 本丸の案内役を引き受けた薬研が、主の私室を出るなり呆れたような顔と声でそう言ったのを強く覚えている。言われるまでもなく長谷部は長谷部なので、何と返していいか分からない。辟易している様がすぐに分かったらしく、気にするなと背中を叩かれる。

「ありがとな」

 軽い足取りで先を越され、何事も無かったように案内が始まってしまう。しかし礼を言われる筋合いもないので、余計にわけが分からない。完全に取り残されてしまい、仕方が無いので唯一意味の分かった「気にするな」を正しい道とすることにする。案内された屋敷は広いわりに、どこを覗いても刀剣たちがたむろしていた。そしてそれらと鉢合わせる度、長谷部は非常に熱烈な歓迎を受けた。まるで旧知の友との再会のようだ。そんなことを考え始める頃には、長谷部もすっかりこの浮かれたような雰囲気に慣れ切って、他人事のようにしてこの状況を受け入れていた。

 一刻はかけた案内が終わって、手始めに何か仕事がしたいと言うと薬研は愉快そうに笑い始めてしまった。やっぱりなあ、と何度か繰り返した後で、笑いを引きずり引きずり厩と送り届けてくれた。そんなにおかしなことを言ったとも思えないのだが。

「あーだめだめ!長谷部は頑張りすぎるから!」
「何もしなくていいから!」

 が、足を踏み入れた途端に押し返される。自分のこともよく分からないうちから自分のことを象られるのはなんとも奇妙な気分だし、うまく反論する手立てがない。長谷部の現れるより遙かに前からこの本丸で主に仕えてきた刀たちだ。長谷部自身より長谷部の刀身に詳しいのも当然なのかもしれない。と、納得することにする。

「……だが、俺は何をすればいいんだ?」
「それなら丁度いい、こちらへおいで。お八つがあるからね」

 とぼとぼと一振歩いていた廊下で首を傾げていると、数間先の障子から笑みが覗いた。白いが、先ほど握った細い指とは比べ物にならない筋張った武人の手がひらひらと手招きをする。行く当てもないので素直に従うと、そこは広間のようだった。数振りの刀がくつろいで談笑している。

「ほら、酒もたんとあるぜ。やってけえ」
「こんな昼間からか」

 思わず返すと、声をかけてきた日本号は長い体を折り曲げて笑っている。しまいには目尻に涙まで浮かべる始末だ。やはりそんなにおかしなことを言った覚えもないので、何とも言えず往生するしかない。狐につままれる、というのはこういう時に使う言葉ではないだろうか。すまないね、何の責もないはずの歌仙が苦笑を浮かべて謝った。

「こんな時に、こんな本丸へ呼ばれたらきっと混乱する。そう思ってね。実のところ僕は反対したんだよ」

 ほら、これがお茶、熱いから気を付けて飲むんだよ。こちらが、練り切り。気に入るといいけれど。話の合間に長谷部の前には湯飲みと銘々皿が並べられる。

「でも、きみが来てくれてよかった」

 聞きたいことはあった。こんな時、こんな本丸とは一体何なのか。どの刀もなぜ長谷部以上に長谷部のことに詳しいのか。何故柔らかく、愉快そうに、懐かしげに、切なげに、憐れむように微笑まれるのか。だが歌仙の言葉はすとんと長谷部に落ちた。主の細くも温かい手の甲と、感極まった「うん」が頭をよぎった。疑うことはない。ここに長谷部は顕れるべくして顕れた。

「あるんですかねえ、本当に」

 卓の隅で話を聞いているふうもなく練り切りを黒文字で切り崩していた宗三が、どこか退屈そうに気だるげに呟く。

「生まれ変わりなんてもの」

 あれは秋だった。開け放しの障子の向こう、紅と黄の溢れる庭先から風が入ったが、誰も言葉を発さないので宗三の言葉は独り言になった。

「俺は生まれ変わりなんだろうか」

 見上げた空ではいつものように三日月が鋭く光っている。黒紗のような雲が流れてはその姿を隠し、また現しを繰り返した。夕時から堰を切ったように降り続いていた大雨が嘘のように静かだ。最近耳にするようになっていた蝉の音ひとつもない。ただ水気を多く含む夜気が鼻先や首筋、寝間着の隙間に張り付いてくる。

「さてなあ」

 先ほどまで何の気配も無かった縁側、そのすぐ隣に夜空と同じ色の瞳を持つ男が安坐していることを、もう不審にも思わない。男はいつものように緩やかな笑みを口元に刷いて長谷部を見ている。似ていると思う。本丸にいた誰もが、こんな目で長谷部を見ていた。

「生者の則など俺には知らんことだ」

 ゆったりと答えて、三日月は腰の刀を慈しむように指先で撫でた。昼間に見た一期の手つきとよく似ていて優しい。指先で下げ緒を弄び、その先の玉を躍らせる。空の三日月の細い光がそれを艶やかに照らした。

「俺が生まれ変わりでなかったら、きっと主は落胆されるだろう」
「そうか」
「そうだ。だが俺は俺が生まれ変わりかどうかも知らない」

 それどころか、いつも己が何者かも分からない感じがする。己を知るよりも早く、他の誰かが長谷部を知ってそれを勝手に象っていく。長谷部は今、それを信じるほかにない。ここには主も主の刀たちも居ないのだ。

「強くなれば分かる気がする」

 しかし、もっと強くなれば。何かが全く変わる予感があった。叢雲がかかった月のように見えない何かが、はっきりと姿を現すような気がする。そしてそれを誰かに強く望まれている。何故だかそれを確信していた。主の枕元で主が望んだ言葉をひとりでに悟ってしまった時のように。

「そうか。分かるといいなあ」
「うん」

 いつものような大笑いではなく、ふっと小さく三日月は口元で小さく笑った。長谷部を覗き込むように小さく首を傾げている。闇夜に溶けることなく艶やかに光る黒髪が、金糸の飾り紐がさらと揺れた。

「お前は本当に幼子のようだな」
「そうか」
「うん、そうだ。素直で良い」

 ふふ、とまた笑う。しかし三日月の笑みには何か含んだ様子を感じないので、笑わせた覚えがなくともそれほど不快を感じない。そう言う三日月の笑みも素直なものだな。そう考えて──ついこの前に聞いた話が脳裏に蘇った。そう言えば、言っていた。あの男も、この刀を正直で素直なたちだと。

「……待たせるほうも寂しい」

 ぽつりと言葉が口端から転がり出ていた。三日月は笑みを消してまじまじと長谷部を眺めている。

「だが、贅沢だと」
「一期が言ったか」
「ああ」

 しばらく三日月は動かなかった。珍しいほど静かな顔色で、何かを思案しているようにも見えた。そしてこれもまた珍しく、迷うように指を宙に彷徨わせ、そうしてやっと懐から何かを取り出して長谷部の前へと差し出した。

「お前にこれを託そう」

 以前にも見た、金蒔絵が闇夜の星月夜のように美しいつげの櫛だった。暗がりの中にもてらりと光って見える。今の長谷部はそれがどういったもので、何故三日月が懐深くにそれをしまい込んでいたかを話の中で知っていた。すぐに受け取ることはせず、なんとか真意を量ろうと三日月の瞳を見つめ返す。

「届ければいいのか?」
「いや、任せる」

 三日月はもう、いつもの柔らかい笑みに戻っていた。どこか愉快げにさえ見える笑みだ。長谷部の手のひらを取り上げ、その上に櫛を置くと一層笑みは深くなる。

「素直なお前に任せる」

 ざあっ、と大きな音に驚いて庭先に目をやると、月夜など微塵もなかった。大粒の雨が地や木々、軒を打っては跳ねている。雨樋からどどど、と滝のように水音が零れている。湿った縁側には長谷部のほかに誰の姿も無い。ただ、手元には美しいつげの櫛だけが残っている。

 「清めの本丸」へ戻る、と踵を返すなり、山姥切や加州、大和守は戸惑ったように声をかけてきた。時には肩に手を置かれ引き留められたが、一刻すら惜しい気持ちだった。急いでいるとだけ告げまた歩き出すと、御手杵だけは黙ってそれを先導した。本丸へ戻る別れ際、誰も彼も浮かべるあの優しい笑みを浮かべていた。

「じゃ、またな。向こうで会おう」

 それが正しい挨拶か分からなかったが、ひとつ頷いて別れの代わりにした。

 「清めの本丸」に戻ってすぐ、脇目も振らずに廊下を歩く。何故だか山姥切たちも後ろからついて来ているようだった。隠蔽などに気も回さず、ぱたぱたと騒々しい足音が四つも近づいてきているのだ。しかも目指しているのは一期の近侍部屋ではなく私室。案の定、部屋まであと数間はあろうかというところで、一期が静かに廊下へと出てきた。笑みだが、いつもの柔和さをひとつも感じない。一歩たりともここを通すまいと目が語っている。すっとひとりでに障子がしまったことを山姥切たちは気がついただろうか。一期が現世に押し留めた「つま」は、あの部屋で花など飾られながら、微動だにせず眠っている。そして一期はその三日月に関わるもののほか、この世のものに触れることができない。

「一期一振」
「これは、長谷部殿。また錬度が上がったようですな。喜ばしいことです」

 強くなった先に何かありましたか、一期は分かっているような分かっていないようなことを言う。しかし長谷部にその腹を探るような時は無いのだ。急がなければならない。随分長く、あの方をお待たせしている。

「覚悟はあるか」

 長谷部の言葉の意味を掴みかねたのだろう。一期は戸惑うように笑みをぼやけさせた。この本丸には里よりも随分早く夏が来ている。蝉がみんみんと鳴き、陽の当らない薄暗い廊下にも熱気がこもっていた。しかし一期の額や首筋に汗の浮き上がる様子は無い。

「あるなら、会わせてやる」

 錬度がそれなりに上がった今も、主の本当の意図は分からない。だから長谷部はそれを独りで見極めなければならない。長谷部がこの本丸にやってきたことは何か意味があるはずで、それを果たして──主の御許へ戻りたい。懐の衣嚢へと手を入れた。

「お前のつがいに」

 金蒔絵の散る美しいつげの櫛。一期には見覚えがあるはずだ。目を見開いた一期は咄嗟に距離を詰め手を伸ばしてきた。その腕が櫛に届く前に掴むと、一期はびくりと身を震わせた。三日月以外のものに触れるのは──まして触れられるのは久しいことのようだった。だが、すぐにため息を吐いて脱力する。

「そうでした。貴方は『そういう』方でしたな」
「……知っていたのか」
「全てでは。だが、主も無しに傷が治癒するなど、ありえんことです」

 離して頂けますか、いくらか穏やかさを失った声に素直に従い、今度はちゃんと櫛を手渡してやる。すると一期は、うすはりの器を扱うよりももっと丁寧にそれを受け取り、慈しみに満ちた目でそれを見下ろした。しばし充分に櫛を堪能し、それから笑みを消した真摯な顔色を長谷部へと向けてくる。

「見くびられては困る。この吉光の一期一振、つまをこの手にした時から腹を決めている」

 三日月夜の縁側で三日月が度々褒めそやす黄金色の瞳が、昏く火を灯しているように見えた。聞くまでもないことを長谷部は聞いたらしい。

「分かった」

 再び踵を返し、廊下を戻って行く。すれ違う山姥切たちの表情はやはり困惑に染まっているが、もう声をかけられることはなかった。

 足音のしない一期が後ろに続いていることを確かめつつ、庭へ下り池のほとりへと近づいた。燦燦と陽光が降り注ぎ、風に水面が波立てばきらりと光る。庭木の緑が涼しげにその姿を映し込んでいる。明るい世界だ。しかし、何よりも代えがたいものが、欠けては何をも成り立たせないはずのものが、この世界からはもう寂しく欠けている。

「櫛をここに」
「ここに、ですか」
「櫛とつがいとが天秤に乗るのか」

 あからさまに気分を害したような顔は初めて見る。ひょっとするとこの実直さがこの男の素に近いのかもしれない。それでも一期はそれ以上言葉を重ねず、素直に長谷部の隣にしゃがみ込んだ。手袋を抜き衣嚢に納め、櫛を池の水につけてさらすと、そこから漆が溶け出すように黒が染みた。夏の庭を映していたはずの水面には瞬く間に宵闇が広がり、叢雲の向こうで三日月がわずかに揺れている。

「この向こうに──あの方が……」

 一期は驚くでもなく、怖れるでもなく、どこか愛しげにさえ見える表情でそれを眺めていた。水を掬いあげて落とし、飛沫を星屑のように瞬かせながらまた宵闇へと戻すことを繰り返している。「この」一期はきっとこの池のこちらでもあちらでもこだわりはないのだろう。三日月さえ居れば良いのだとその姿が語っている。

 その時、ぐ、と肩に力を感じて振り返った。山姥切が長谷部の肩を握り込んでいる。襤褸布のせいでいつもは顔が隠れがちだが、今は長谷部がしゃがみ込んでいるのでよく見えた。

「山姥切」
「どういう、ことなんだ。俺には……まったくわけが……」

 まじまじと眺めていると、そこにあるのが困惑だけではないと分かった。山姥切の後ろでそういう顔をしている加州と大和守と顔色が全く違っていたからだ。確実に何かを予感して、怖れている顔に見えるなと思った。主の枕元でそうだったように、またもひとりでにそれが分かった。

 そう言えばそうだ。

 長谷部は一期に覚悟を決めているかと問うた。だが己には問わなかった。問うまでもないことと思ったからだ。だが、山姥切のことを考えていなかった。この本丸で過ごした時は一月も無いのだが、そこにあるのが当たり前のように感じていた。

「……戻って、来るのか」

 ぐ、とまた肩を掴む力が強くなったので、長谷部は立ち上がってそれを丁寧に外した。それだけのことなのだが、山姥切はひどく傷ついたような顔をする。

「俺もお前たちと一緒に、」
「ありがとう」

 長谷部は本来この世のものではない。ただ主と本丸の仲間たちの想いでここに立っているようなものだ。ここに二度と戻ることがないとすれば、やはり礼くらいは言っておきたい。

「あの日お前が居なかったら、俺は折れていた」

 分からないながらに考える。主は顕現して幾ばくもなく消え去らねばならない長谷部に、時を与えたかったのではないだろうか。もしこの考えが正しいとすれば、長谷部は決して折れてはならなかった。きっと、人の身を持ってできることを共に試せる誰かを探すことを主は望まれたのだ。

「助太刀に入ったのがお前でなかったら、俺はまだ一振だった」

 山姥切は何も知らぬまま、長谷部の──主の望みを全て叶えた。これがこの本丸で出会った一期や短刀たち、加州や大和守だったらどうだろうと考えても、想像できない。「この」山姥切でなければだめだった。

「だからお前に折れてほしくない」

 山姥切は目を見開いたままじっと長谷部の顔を眺めている。夏空に輝く青葉のように光る瞳からは、すっと一条美しい涙が流れていた。

「きっと主たちも同じお気持ちだったんだろうな。今分かった」
「……やっと、自分の頭で考えるようになったのか」

 ぐしゃりと悔しげに顔を崩し、それを手で隠すようにして涙を拭っている山姥切の両肩を掴んで体を無理矢理翻させる。どんと思い切り背中を押すと、らしくなく体勢を崩したので気遣わしげな加州と大和守に支えられていた。

「振り返るなよ、山姥切。お前のためじゃない。俺のために」

 ちらりと一期を見ると、向こうも静かに長谷部を待っていたようだ。ひとつ頷いてその腕を掴み、宵闇の中へと身を投げた。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。