二、無辜のもの
三
ざあざあと雨が降っている。長谷部の本丸ではない本丸にも、雨は降るのだなと妙なことで感心している。
「長谷部さん、替えの服はいかがでしょうか。ここのいち兄の寝間着なのですが」
「長谷部、まだ濡れとうよ。ちゃんと拭かな風邪ひくばい」
「それは……よくない、です。僕の虎は温かいのでどうぞ抱いていてください」
平野に頷き、博多に髪をがしがしと拭かれ、五虎退から虎を受け取りあぐらの中に落として腹に抱える。なるほど確かに冷えた体には虎のほのかな温かさが染みた。手のひらで毛並みを撫でてやるとくたりと寝そべってごろごろ喉を鳴らしている。その音を聞きながらぼんやりと庭先を眺めた。この本丸にやってきたつい数日前は快晴だったのだが、今日は土砂降りの雨だ。初夏は天気が変わりやすい。それは人の身を持って間もない長谷部も知っている。
「庭は……俺の本丸と少し違うな」
「はい、僕のところとも……少し違います。主さまは春がお好きですから、春の花が多くて、それを僕たち粟田口で育てています」
五虎退の相槌に、平野や博多は興味津々で詳しい様子を聞きたがっている。この客間には四振の刀が居るが、四振りとも異なる本丸、異なる主に仕える刀剣だ。この本丸に属する刀はほとんど居ないらしい。かく言う長谷部も、一振で居るところを敵に襲われ深手を負い、この本丸の近侍である一期に助けられたのだった。今は仮の宿まで提供してもらっている。
「俺の主、花育てるの苦手みたいっちゃんねえ。雑草しか育たんけん。でも、この本丸はやっぱすごかあ!何でも咲いとう」
「さすがは『清めの本丸』ですね。花にとっても居心地がいいのでしょうか」
平野が口にしたのはこの本丸の通称だ。ここは他の本丸より神気が強く通っており、清浄な空気に満たされている。石切丸や太郎太刀といった神格の高い者、三池の刀のように霊力の強い者が複数属し、この本丸をそう保つようにしているらしい。手入れでは治らぬ穢れや呪いを受けた者たちがここに運ばれ、療養のためしばらく時を過ごすのだという。
「長谷部」
ここ数日ですっかり聞き慣れた声に目を上げた。客間の戸口で襤褸布を引き寄せつつなんとも言えない表情をしているのはやはり山姥切だ。長谷部の元居た本丸に居た山姥切とは違うらしく、また一期のようにこのような特殊な本丸に属しているわけでもないが、縁もゆかりも無い長谷部の助太刀に入った一風変わった刀である。
「……何してる。お前は一期に掃除を任されていただろ」
「ああ。庭先の掃除だ」
「雨が降ってきても続けたのか。それはここの主の命じゃなく一期の頼みだぞ」
「いや、雨天中止だと蜻蛉切に聞いた」
「………それで」
「中止していた」
中止して何をすれば皆目見当もつかなかったし、自分の本丸以外にも雨が降るのが珍しくて眺めていたところ、短刀三口に軒下まで引っ張り込まれたのだった。そして今に至る。
短刀たちは長谷部さんは、とかあまり責めては、とか曖昧な言葉を慌てて繰り出しており、人見知りの気があるらしい山姥切は布を額の前でさらに引き下げ、もういいと部屋に入った。この客間は長谷部と山姥切とで共用している。穢れや呪いを持つ客刃の絶えないこの本丸では、健康な者はできるだけ共用の部屋に詰め込むようにしているらしい。そのうち大部屋に通されるかもしれないと言われている。長谷部に否やはないが、今からこの調子で山姥切は大丈夫かとやや心配になる──初めに口にした「主に出て行けと言われて出てきた」が刀剣男士たちに与える衝撃はあまりに大きく、「だからこうなってしまったのか」と気遣われていることなど当然、長谷部は知る由もない。だからも何も、長谷部は元々「こう」である。
「……怪我はもういいのか」
山姥切は部屋の端に寄せてある古い座布団をまとめて引き寄せ、一枚取ってそれに座し、残りを短刀たちに押し出した。口々に礼を言って短刀たちもその場に腰を下ろす。博多が一枚差し出してぽんぽんとそれを叩いたので長谷部もその後に続いた。
「ああ。眩暈も無くなったし傷跡もほとんど消えたな」
「長谷部さんは……本当に、『特別元気』なんですねえ」
「特別元気」は長谷部についたあだ名だ。本丸の性質上同じ名を持つ刀が複数滞在することも珍しくないため、ここではあだ名のようなものが付きやすいらしい。長谷部としては、名付けておいて捨てるようなことが無ければ別に何と呼ばれようがどうでもいい。放っておいている。
「そやねえ、俺たちはここじゃ絶対怪我したらいけん、って言われとうのに」
この本丸では、穢れや呪いは祓えても通常の刀傷は癒えがむしろ遅い。主の霊力による手入れを受けることができないのだから当然だろう。ところが長谷部の怪我はどういうわけかすっかり癒えていた。一期からは特殊な体質かもしれない、と言われている。本丸や審神者の霊力の質によって、他とは違う特質を持つ刀剣男士が顕現することも稀にあるのだと。
「そうですな、私も名付け親として誇らしいです」
何の気配もなく現れた声に部屋中の刀たちがのけ反る。その視線の先に居るのは、雨雲を背負ってにこやかに縁側に立つ一期だ。
「きっと皆さんのご心配のおかげでしょう」
この刀もまた一風変わっている。気配を消すのが異様にうまく、短刀にもその気配を察知させない。そして運び込まれた手入れ部屋で、長谷部の血が止まっているのを見て「特別元気な長谷部」を命名した張本刃でもある。ちなみに山姥切のあだ名は、短刀たちと同じく療養中の加州が命名した「希少なツッコミ種山姥切」、略して「ツッコミ」だ。だがこれは呼ばれる度に本刃が止めさせている。
「内番中も不調などは」
「いや、何も問題無かったな」
「……体はな」
「そうですか。それは何よりです。ところで話は変わりますが、お二人は『一宿一飯の恩義』という言葉はご存知でしょうか」
知っているのでひとまず頷く。「働かざる者食うべからず」は、と続けて問われたのでまた頷く。そして沈黙。
「……俺たちは宿代に何をすればいいんだ」
「少し人手が必要な話が来ておりまして。客刃にそんなことをさせるわけにはと思っていましたが……手伝って頂けるなら非常に有難い話です」
山姥切の問いに一期が答え、どうでしょうと続けたので特に否定する理由もなく頷く。この本丸の主は極度の人見知りらしく、未だに目通りが叶っていない。恩義を言葉でなく体で返せというのは有難い申し出だ。
「いや、さすが長谷部殿。出来た方です。これから人手が必要な時は真っ先にお声掛けしても構いませんか?」
構う理由も無いので頷く。清めに特化したため、この本丸に元来居る刀はほとんどおらず、常に人手が足りない状況らしい。一期はいつも浮かべている淡い笑みを深め、ありがとうございますと涼しげな声で言った。
「お前……いいのか、それで……」
「何がだ?」
「いや……」
言葉を濁す山姥切の横で短刀たちが立ち上がり、障子の前に立ったままの兄に駆け寄って自分たちも手伝いがしたいと口々に申し出ている。彼らの身は殆ど癒えていて、暇と力を持て余しているらしい。怪我には気を付けなくてはだめだよ、と優しく微笑む様は長谷部の本丸の一期と重なるものがある。
「わざとじゃないんだよな、あれは……?弟たちにも手伝わせたくてわざわざここで話したわけじゃないんだよな……?」
「どうした」
「いや……分からなくなった……俺が写しだからかもしれない……」
山姥切が布を引き下げて何やらぶつぶつと呟いているが、よく聞こえないので独り言だろうと判断する。では詳しくは明日、と一期は踵を返して縁側に戻っていった。肩にかかった外套の裾がふわりと揺れ、三日月を思わせる文様のならぶ糸巻き鞘が障子の向こうに消えていった。
長谷部の本丸にも一期はいたが、いつも短刀たちに囲まれていて優しく微笑んでいる姿しか浮かばない。一度だけ、きちんと話したことがある。主のために千羽鶴を折るという短刀たちに、手順を教わりながら長谷部も鶴を折っていた。それを見て、長谷部殿は丁寧で器用ですな、と優しく微笑んでいた。きっと主も喜ばれる、と。
ここの本丸の一期は本当に変わっている。片時も離さず佩いているのは三日月宗近で、一期一振ではないのだ。一期は三日月のことを伴侶と呼ぶ。しかしこの数日、長谷部も山姥切も三日月の姿を見たことは無かった。
五
そこを出て行ったら、決して振り返ってはいけないよ。長谷部。主は優しい声で言った。だから振り返らなかった。主がそれを望んだ。
木目の天井を見る度に少し混乱する。主の命に背いてあの本丸に戻ってしまったのかと思うからだ。だがすぐにここが、「清めの本丸」だと思い出してほっとする。部屋の中は暗く、障子が光を通す様子はない。しばらく野営で過ごしたせいか長谷部も山姥切も眠りが浅いところがある。そう言えば山姥切は何故「一振」で居たのだろうか。気にしたことがなかった。
そろりと起き上がって布団を抜けたが、山姥切に目覚める様子は無い。怪我の治療が必要だった長谷部に対し、山姥切は怪我がほとんど無かった。そのためあれやこれやと一期に頼まれ事をされていたようで、多少は疲れがあるのだろう。そろそろと畳を踏み、障子を細く開けた。雨の気配がむっと迫ってきたが、雨音はいつの間にかしなくなっている。ぴと、ぴと、とどこかの軒端から水滴が落ちるような音だけがした。するりと狭い隙間を抜け、湿った縁側を裸足で踏む。見上げた空は重い雲に覆われているようだが、その薄い切れ目の先に細い月があるようだった。後ろ手に障子を閉じてじっとそれを見上げる。風があるためか雲の流れが速く、どす黒い雲が月を見せたり隠したりした。とうとう長谷部は縁側にあぐらを掻いて、何をするでもなくじっとそれを見上げ続ける。
「月がそんなに珍しいか」
見上げていたはずの月が突然人の顔の瞳に変わった。そこにも三日月があり、より近くより強く陰ることなく輝いている。何度か瞬いて、それが長谷部を覗き込む三日月宗近の顔で、打除けがそのまま瞳になったような目だと理解できた。
「珍しくはないな。ただ、何かに似ている気がした」
「おや、これは。お前には俺の声が聞こえるか」
ぱっとあからさまな喜色を満面に浮かべた三日月は、長谷部の目の前からずれて隣に腰かけた。
「聞こえてはだめなのか」
「いや、いや。だめなものか。俺が嬉しい」
「そうか」
それにしても一期と同じくこの三日月にはまるで気配を感じなかった。だが、錬度が低いまま本丸を出ることになった長谷部が気配を察せないのは当然のことなのかもしれない。そこで一期のことを思い出しはっとする。無遠慮に腰元に視線を落とせば、紫の玉の飾られた下げ緒で朱い鞘が括られていた。
「お前、一期のつがいか」
「うん、そうだ。これは俺のつまだ」
「人の姿になれるのか」
「はっはっは、おかしなことを聞く。お前も人の姿だろう?」
「そうだ。だが俺は刀のお前しか見なかったぞ。一期が佩いている」
雲が流れて月が隠れた。太刀ではこの暗闇の中何も見えないだろうと思うのだが、三日月は困った様子もなく笑みを浮かべたまま腰の鞘を指先で撫でた。
「うん」
どこか照れたような、しかし心底満足そうな、柔らかく嬉しげな声だ。しかし長谷部は三日月を喜ばす言葉など言ったつもりはないので眉根を寄せるほかない。
「昼間は何をしているんだ」
「昼も、夜も、一期の傍にいる」
「つがうとそうなるのか?」
「分からん。他の刀で伴侶が居るものを見たことがないからなあ」
確かに、長谷部も番った刀剣男士など初めて見たので比べようがない。腕を組んでひとつ唸ると、三日月がまた声を立ててのんびりと笑った。夜半にあることなど全く意に介さないような声で、今にも障子の向こうの刀たちが起き出してくるのではと思うのだが、庭先はしんと静まり返ったままだ。
「お前はよく問うな」
「問うてはだめなのか」
「いや、いや。だめなものか。幼子のようで愛い」
「そうか」
雲がまた流れ、空の三日月が隣の三日月の鼻先を白く照らした。夜にあるのが当たり前の男なのかもしれない。だから誰も不思議に思わないし、長谷部も当然のように三日月と話している。
「やあ、嬉しいな。こちらで誰かと話すのは久々だ」
「一期とは話さないのか」
「いつも、一期の声を聴いているぞ。夏の日に鳴る風鈴に似た声だ。涼しくて耳に好い」
長谷部の依代たる刀はまだ打たれて間もないから、人の身で真夏を過ごしたことがない。風鈴の音がどのようなものか分からないので一期の声をただ想起した。淡い声だと思う。だが、意外によく通る。そこだけは長谷部の主に少し似ている。
「寂しくはないか」
思いがけず口をついて出た言葉だった。何故そんなことを尋ねようと思ったのか、長谷部自身にも分からない。ただ、ほんの短い間過ごした本丸の記憶が胸の中を夜風のようにさっとよぎっていった。色々な刀に優しく、柔らかく微笑まれ、親しげに名を呼ばれた記憶だ。長谷部、長谷部──決して振り返ってはいけないよ。振り返っていたらどうなっていたのだろう。答える者はない。
「声を聴くだけなら頭の中でできるぞ。答えたい時はどうする」
三日月は夜をそのまま瞳にしたような瞳をきょとんと丸めた。長い睫毛が白い頬にはたはたと影を下ろす。しかしすぐにその表情は柔らかい笑みに戻った。
「長谷部は寂しいか」
「分からん。俺は寂しくないと思うが」
「そうか。お前は、待たせるほうか」
待たせるほう、長谷部の拙い鸚鵡返しに三日月は笑顔で頷いてみせた。
「待つほうは寂しい。だが、それが楽しくもある。そうして千年、俺は渡ってきた」
それから懐に手を入れ、漆絵の入った艶やかな櫛を取り出して長谷部に見せる。
「一期に伝えてくれ。櫛はここにある。百歳、千歳、いつまでも待っていると」
それから何を話しどうやって別れたのか覚えていない。次に目覚めた時には縁側が床にあり、山姥切の呆れたような顔が天井にあった。
六
「あ、長谷部おったおった」
あの夜と同じ部屋の前、縁側にぼうっと腰かけて雨を眺めていると博多に声をかけられた。その隣には平野と五虎退の姿もある。この三口はこの本丸に預けられた時期がほとんど同じらしく、大抵は一緒に行動していた。
「お前、山姥切のことは山姥切さんと呼んでなかったか」
「だって長谷部、まだ顕現したばっかりっちゃろう」
「恐らく山姥切さんはかなりの錬度まで鍛えておられると思います」
「そうなのか」
身知らぬ刀剣の助太刀に入るくらいなのだから、相当の手練れだとは思っていたが。素直に感心していると、三人はなんとも言えない表情で長谷部を眺めている。怪訝にどうしたと問えば、博多が突然背中から首に抱き着いてきた。
「ああ~俺心配やん~!平野と五虎退ともう少しここにおりたかあ!」
「実は僕、主に少しだけ滞在を伸ばしてもらったんです。その、戻る時も一緒にと」
「ぼ、僕も……」
「平野~!五虎退ぃ~!」
二振の名を呼びつつ、博多は何故か長谷部の背中に頭をぐりぐりと押し付けてきている。くすぐったいぞと文句を返す内に、平野と五虎退が長谷部の両脇に腰かけた。
「長谷部さん、短い間でしたがお世話になりました」
「ああ、元の本丸へ戻るのか」
はい、平野はどこか硬い表情で頷く。なるほど、と思う。この三口は主から戻ってもよいと命が下った。長谷部にそんな日はあるのだろうか、と思う。あの日振り返っていれば何か違ったのだろうか。何かが見えそうで見えない。叢雲に隠される月のように。この縁側で言われた言葉をふと思い出した──長谷部は寂しいか。
「……寂しくなるな」
平野は大きな瞳を見開いて、ぱちりぱちりとゆっくりと瞬きをした。それをじっと見下ろしていると博多のぐりぐりの力が強くなる。
「長谷部に、長谷部に情緒が育った~!」
「長谷部さん……っ、僕も、僕も寂しいです……!」
大騒ぎする短刀たちの頭を撫でてやりつつ、最後の仕事があるというのでその背を廊下の向こうに送り出した。一気に縁側は静かになった。
戦を一時離れた刀しか居ないため、この本丸は大抵静かだ。分厚い灰色の雲からしきりに雨が降り注いでいる。今日の雨は細いもので、地に落ちる時に軽い音がする。その中にひとつきしり、人の身の気配が混じった。
「……長谷部」
「山姥切」
「俺は道場へ行くが」
「そうか」
しばらく山姥切は何も言わなかったが、そうだ、とだけ返すとくるりと踵を返した。長谷部としては話が終わったつもりではなかったので、その背に声をかけて引き留める。
「夜、男に会ったんだが。朝居なくなっていた。こういうことはあるか」
長谷部としてはそんなに奇妙なことを言った覚えはないのだが、山姥切は困惑したように眉尻を下げている。
「………夢じゃないか、それは」
「やはりそうか。山姥切がそう言うなら夢だな」
「長谷部」
数歩長谷部から離れていた山姥切は、静かに気配を動かして長谷部の近くに膝をついた。襤褸布の裾が広がる。その端に薄く赤茶けた汚れを見つけた。そう言えばあの日、血を拭うのに使わせてもらったが、どうやら落ちなかったらしい。視線が合わないことに気が付いたのか、山姥切は珍しく強い声でもう一度長谷部の名を呼んだ。
「写しの俺にどうこう言わたくないかもしれないが……お前は、もう少し自分で考えたほうがいいぞ……」
これからどうするんだ、と続けられたが意図がうまく掴めない。
「お前、怪我は治っただろ。これからどうするんだ」
「お前はどうするんだ?」
長谷部の問いに、山姥切は何も答えなかった。まるでそう問い返されることを予想していなかったように、意外そうな顔で長谷部を見つめている。先ほどの平野の顔に少し似ていた。
「……言うと、真似される」
ぼそりとそれだけ吐き出すと、山姥切は何かから逃げるように立ち上がり、すたすたと廊下を戻っていった。余程長谷部に真似されることを警戒しているらしい。三口の見送りの時も山姥切は姿を現さなかったので、三口は口に出さずとも寂しそうにしていた。
そしてまた、長谷部は細雨の廊下に戻ってきた。時刻はとうに夕暮れにさしかかっているはずだが、曇天の下では昼も夕もない。灰色がやや暗くなったかと思うくらいだ。そろそろ夕餉の手伝いが必要だろうかと思い始めた頃、とた、とた、と微かだが確かな重みある気配がゆっくり近づいてくるのが分かった。
「よっ、驚いたか!」
背中側から覗き込むように白い顔が覗き込んでくる。肌も髪も透けるほど白いが、瞳だけは爛々と黄金に輝いている。突然空が晴れ渡ったような錯覚に陥るが、無論そんなことはない。
「お前、隠蔽が下手なのか」
「おいおい、きみ、初対面なのに酷いじゃないか」
酷いといいつつ、嬉しげな笑みで口元が上がっていた。長谷部の本丸にはほとんどの刀剣が揃っていたので、この男の名もまた知っている。鶴丸だ。交流は無かったが、やはり他の刀と同じような優しげな笑みで、ぽんぽんと頭に手を置かれたことを覚えている。
「随分退屈そうだな」
「いや、退屈ではないな」
「そう言うな、人生には驚きが必要なのさ!心を殺さないためにな。よしよし俺と一緒に行こう」
「どこかへ行くのか?別に構わんが」
「いいねえ、きみは面白い長谷部だな!気に入ったぞ!」
「いや、俺は『特別元気』な長谷部だ」
「あっはっはっは、何だそれは?益々気に入った!行くぞ特別元気!」
「分かった」
ひとつ頷き、立ち上がって弾むように歩く鶴丸に続く。肩先にある曇天との対比で、その白い着物が光っているような錯覚を覚える。明るい男だ。それにしてもこの鶴丸はいつからこの本丸に居たのだろうか。この一週間ほど一度も見かけたことが無いのだが、すっかり慣れた様子で縁側から廊下に入り、時々すれ違う刀に挨拶しつつ、ずんずん進んでいく。
随分奥のほうまで入るのだなと思っていると、ぴたりと鶴丸の足が止まる。どうした、と声をかけようとしたが、振り返った鶴丸は口元に指を当ててそれを阻んでいる。
「きみにいいものを見せよう。俺はあれを見るのが好きなんだ」
囁いて、そろりと歩みを再開するので、長谷部も長谷部なりに気配を消して廊下を進んだ。屋敷の奥の薄暗い廊下、閉め切られた襖をゆっくり引いて隙間を作り、二振してその中を覗き込んだ。
一期が座っている。元より浮かべている柔和な笑みが更に穏やかに、優しく滲んでいるように見えた。その膝元には青紫の毬のような紫陽花がいくつも並べられている。そして紫陽花に飾られるように横たわっているのは──夢で見た男、三日月宗近だ。
「鶴丸殿、いらしていたんですか」
視線は三日月の頬に据えたまま、一期はいつもと変わらない調子の声で言った。じっと鶴丸を見下ろすと、ばつの悪そうな笑みが返ってくる。もはや遠慮も何もなく鶴丸は襖を開け放った。
「もうバレたのか?」
「ははは、隠す気が無いのかと思っておりました」
鶴丸がずかずかと部屋に入るので、連れ立ってやってきた長谷部もそれに続く。すると、一期は初めて顔を上げ、笑みを少し意外そうな表情で開いた。
「これは、長谷部殿もご一緒でしたか」
「ついそこで拾った。面白いやつだったんでな!」
「相変わらず抜け目無い方ですな」
襖を再び閉ざし、鶴丸が勝手知ったると取り出した座布団に腰を下ろす。一期の膝を枕にしている三日月は瞳を閉ざしてぴくりとも動かない。頬に影をつくる長い睫毛が少しも震えていない様子はまるで人形みたいだが、頬にはうっすらと赤みがあり、血が通っている様子も見て取れた。
「三日月はここに居たのか」
毎日目にしていたのは刀の姿ばかり、人の身を見たのが夢の中だったせいもあるだろう。こうして目の前で肉を持ち横たわり、紫陽花などで飾られている様はなんだか奇妙だった。
「山姥切が存在を疑っていたぞ」
「それは残念な話です」
「くっはっは、なんだ、山姥切も居るのか。面白そうだな、連れてくるか?」
「鶴丸殿」
一期の柔らかい声の高さが一段低くなる。おっと、と悪びれない様子で鶴丸はわざとらしく口元を抑えて見せた。眉根を寄せ苦笑を浮かべた一期は、三日月の宵闇色の髪先を指で梳きながら長谷部へとひたと目を合わせる。
「このことは内密にお願い申し上げる。静かに眠らせてやりたいんです」
内密も何も、長谷部にこれを打ち明ける相手と言えば山姥切くらいしか居ない。山姥切にもか、と問うと山姥切殿にもですと返されたので頷きを返した。
「相変わらずきみは秘密主義なんだなあ」
「別に隠してなどはいませんが、わざわざひけらかしたくはない」
三日月の腕を取り手の甲に口付けをし、一期はどこか満足そうに微笑んだ。ひけらかしてはいるだろ、と鶴丸の呆れた声にも構う様子はない。
「ま、それはともかくだ。元気そうで安心したぜ。きみたちのことは主も殊更気にかけてるからな」
「主はご健勝でしょうか」
「驚きでこの俺の心臓が何度口から飛び出たか知れないくらい元気だぜ。刀剣男士のためとか言って、大層無茶をやるからなあ。きみの後釜は俺の仕事じゃないと思ったが、これがなかなか性に合ってる」
「それは結構なことです」
気安い様子で二振はぽんぽんと言葉の応酬を重ねている。それにまったく付いていけていない長谷部は、目を丸めて時折瞬きをするほかにない。そんな様子に気が付いたのか、三日月の手と指を絡めて弄ぶ一期が長谷部殿、と声をかけてきた。
「どうしましたか」
「主とは」
「ああ、そうでした。実は私もこの本丸元来の刀ではないんです。この本丸に元から居る刀は残っていません。みな、よそからのかき集めです」
「一期の元の仲間が俺だ。わけあって散り散りになったんだが、俺と陸奥守だけは主のところに残っているから、たまにこうしてよそへ移ったやつらの顔を見に来てるんだ」
近侍と言うから、すっかり一期はこの本丸に元から居る刀だと思い込んでいた。あまりにさらりと告げられた事実に、やはり長谷部は追いつけないでいる。
「はは、驚いてるな。まあ確かにこんなに我が物顔で居座っていたらなあ」
「私と三日月に居場所をくださったここの主には感謝していますから。誠心誠意お仕えしております」
にこやかに会話を続けている二振に、長谷部は深く頷きを返した。
「確かに驚いている」
「我がつまの美しさに」
「いや、違う」
「つまり、私のつまは美しくないと」
「いや、俺には美醜はよく分からんが、美しいんじゃないか?」
「もっと真に迫った様子で言って頂きたい」
ここで何故か鶴丸が声を上げて笑い始め、眠りの妨げになりますと窘められている。
「三日月は眠っているのか」
「ええ、私がこの世にある限り目覚めません」
一期はくすぐるように三日月の頬を指でなぞった。しばらくそれを楽しんだ後、長谷部に見つめられていることに気がついてまた笑う。
「知りたいですか」
「長いのろけ話だぞ」
鶴丸が呆れた声で横やりを入れたが、長谷部は結局頷いていた。
九
あの方が私たちの本丸に現れた時、私はもう解かされる覚悟を決めていました。
「三日月宗近という。よろしく頼む」
主が不自然なほどにこやかに一期の眼前に押し出したのは、久しぶりに見る新しい刀だった。しかも、その名には聞き覚えがある。この本丸は進軍が早く出陣数が多いため、その途上で様々な名刀名剣を早くから引き込んでいた。今や六十振に届こうかという刀たちはほとんどが既に高い錬度を有していたが、ここに来てとうとう天下五剣の一つと名高い三日月宗近まで戦に加わることになったらしい。
三日月宗近は大層美しい刀だと聞くが、眼前の男も夜を思わせる麗しい出で立ちだ。夜露で濡れたような輝きのある瞳が丸く、興味深げに一期の顔を眺めている。薄い唇には笑みがあり、無邪気な期待が簡単に見て取れた。真向からそれを受け止められず主に批難の視線を送る。
「何故私は、このように貴い方と真っ先にご挨拶する機会を頂いたんでしょう」
問うたものの、それは直截な皮肉だ。一期はこれまで主の考えを策を全て肌で感じながら近侍を務めてきた。わざわざ言葉に出されずとも主の意図は見え透いている。
「俺たちにも心の準備がある」と引き延ばされた半年の内に、主はどうにか一期の決心を変える心積もりなのだ。しかし、この本丸に呼ばれたばかりの刀にはそんな話は知る由もない。半年後に居なくなる刀ならば、顔を合わせておかない方が良いくらいだ。人の身を持つことで人のように情の芽生える刀は案外に多い。主のほうも一期の皮肉が正しく伝わっているらしく、わざとらしい笑みは引きつった笑みへと変わった。
「よろしく頼まれてはくれんか?」
春先の陽光に温められた主の執務室がひやりと冷えたことなど感じていないのだろうか。三日月はくすりと小さな笑みを零して呟いた。白い絹を藍に浸して染み込ませるように、体中に染み入る声音だと思った。それからそんな、妙な自分の思考にはっとして振り切るように膝先を三日月に向ける。
「ご無礼を。私のことは無銘の刀とお忘れください」
「それは謙遜か?」
三日月は少し身を屈め、低頭する一期を覗き込むようにして困った笑みを浮かべた。間近にあるのは黎明の夜空を閉じ込めた艶やかな瞳だ。箔硝子のように三日月がふたつ光る。見る者を引き込んだまま離さぬ瞳だと思った。
「俺が言った。銘吉光の一期一振が見たいと」
しばしその言葉と瞳のあまりの美しさに呆気に取られ硬直していた。
その隙にとでも言うように主の早口が割り込んでくる。曰く、一期に三日月の指導役を頼みたいのだという。
「指導役、ですか?」
未だかつて耳にしたことのない役職だが、主の言い分には一応筋は通っていた。先も述べたように、この本丸のほとんどの刀は一度に、かつ同時期に顕現した。そのため慣れぬ人の身を持て余しても、互いに助け合って扱い方を覚えることができたのだ。しかし遅れてこの本丸に呼ばれた三日月にはそれができない。今までそういった刀は同じ刀派の刀が自然と面倒を見ることになっていたが、考えてみれば古参の一振として長く近侍を務めてきた一期が適任だろうと。
「しかしそれでしたら、他にも適任は」
三条宗近の作は他にもあるし、三日月宗近は長く時を渡ったと聞く。顔見知りも山と居るだろう。しかし主はそそくさと三日月を一期に託し、挨拶もそこそこに部屋を出て行ってしまった。執務室を出て行って一体どこへ行こうというのか。何が後は若いお二人で、なんだろう。そもそも人の子に比べれば若くもなんともない。
「改めてよろしく頼む」
一期を覗き込む三日月の笑みは、やはり無邪気な笑みだった。最早己を抜いて戦場を駆けることのできない一期には眩しいくらいだ。
一期の本丸は初めは至って普通の本丸だった。主は若く、聡明で、胆力のある野心家だ。つまるところ刀剣にとっては非常に魅力的な主君だった。みな、主に招かれた喜びを噛み締めながら身を粉にして働き、来る日も来る日も戦に出た。今思えば内番などは随分疎かだったが、主の刀たちは瞬く間に強くなり、それが何より楽しくて、より強い敵将の首を求めて戦場を駆け回った。そのうち、武功は時の政府の耳にまで上るようになっていたらしい。
従来、合戦場はすべて政府が調査し審神者に指令を出した先に限られる。つまり、敵の気配を感じたからなどと言って政府の許可しない戦場へ立つことは許されない。歴史の守護者として万一にもそれを自身が壊すことがあってはならないということなのだろう。だがある日、物々しく政府の遣いがやってきて、一期の本丸はそれが許されることになった。政府直属の調査隊を任じられたのだ。主はそれに二つ返事で諾を返し、一期も無論文句などなかった。この任に今までとは比にならない危険があることは知っていた。ただ、それに勝る功がそこにあり、血の気の多い刀剣たちが喝采を上げることも分かっていた。
それからは怒涛の日々だ。通常の任務は錬度の低い者たちがこなし、錬度の高い者は少数隊で遠征と出陣を兼ねたような長期の任に出る。たまに本丸に帰るとがらんとして寂しいものだった。思い返せば、異様だったのだろう。だが己を振るって敵を斬る高揚は何ものにも代えがたかった。名刀と信じた己がその評に違わぬことを、この手で証明できるのだ。なるほどと思った。なるほど、これが生きているということか。
そういう意味では、あの日、一期は死んでしまったのだ。
一晩本丸で休み、また新たな戦場へ出かけようとする一期に主は声をかけた。険しい顔だった。何事かと驚いたことを覚えている。肝の据わった男だから、すわ一大事かと主の身を案じた一期はさぞ間抜けだったことだろう。── 一期一振、抜け。それは随分昔、戦に慣れない頃、重傷を負って帰った時に聞いた声色とまったく同じだった。何のことか一切分からなかったが、逆らう理由もなく一期は刀を抜き、腰を抜かすかと思うぐらいにぎょっとしたのだ。今でもあの衝撃は何度でも蘇る。抜き身は──どす黒い曇りが錆び付くようにまだらにかかっていた。
「一期は強いなあ」
「人の身を得て長いだけです。それだけ鍛錬の数が違いますからな」
道場の床に尻をつき、三日月は朗らかに笑って見せる。先ほどまでその一期の背筋を冷やすほどの殺気を浴びせ、豪快な太刀捌きを見せつけてきたというのによく言う。すぐに敵を骨ごと斬り砕き戦場で武功を立てるようになるだろう。
「それに美しい」
物見窓の格子の隙間から入る春の陽が、汗に湿った髪を肌を笑みを柔らかく照らす。美しいと言うなら、それは。
「……貴方にとっては耳慣れた賛辞かもしれませんが、私には耳慣れぬ世辞です」
苦笑し、手を差し出して立ち上がるのを助けてやる。三日月は笑顔でそれを受け取った。熱く湿った手のひらが一期のそれに重なり、きゅっと力が籠る。一期と同じ目線に戻り、三日月はまた目を細めて笑った。
「だが美しいし、俺はお前が好きだ」
生活について教える時、内番で組んだ時、手合わせをする時。何気なく三日月は一期を有難がって、そしてこんなことを軽々しく言う。さすがに一期も憮然として、付き合いきれんと道場の片づけにかかり始めた。
「からかうのも程々にして頂きたい。貴方ほどの方、相手によっては本気にします」
「お前はその相手ではないのか?」
思わず振り返る三日月の顔に無論一期をからかう色などない。この男は素直だ。そして人の身を得たばかりでいて、ものの加減を体で知っていた。水面の底の底に沈めた一期の懊悩の、ほんの薄皮一枚上を柔らかく撫で、その下に触れようとする。
「どうか私に貴方への礼節を失わせんでください」
「いいぞ」
昼にあっても夜を思わせるような艶のある声と髪、睫毛の先に唇の端。首が少し傾くと道着の端に髪先がかかった。
「失ってくれ」
一期は返事をしなかった。何もかも振り切るように三日月に背を向け、春陽に暖められた渡り廊下へと逃れ出た。
錬度の高い者は高いだけ、危険と思われる先へ行くことになっていたし、政府も日ごとより早く大きな成果を求めるようになっていった。一期は近侍として誰よりも率先し誰よりも数多く戦に出た。そうあるべきと信じたからだ。刀剣たちに休養も戦略として一定の期間必ず取らせるようにしていたが、自身はそれほど取らなかった。自分の加減は分かっても他の加減は分からないから、自然とそうなった。実際平気だったのだ。いや、結果から見れば平気ではなかったが、つまり一期の平気とは傷や疲労のことで、主もそれを見て出陣させるかを決めていた。一期も主も知らなかったのだ。政府の祓いや結界に守られていない戦場で、より強い敵とより近い場所で休みなく刃を交わすことが、刃を曇らせ、憎き敵の性質に染められてしまうことを。
調査任務は顕現が早く、練度も高く、夜目の効く短刀や脇差、打刀が出ることが多かった。しかし彼らはどうしても体力が早く尽きる。まめに本丸での休養の時間を取らせていたので、さほど影響を受けずとも済んだ。一方でその他となるとやはり一期のように刃に曇りがある者が見受けられた。そのうちの一振が主に相談して事が明るみに出たのだ。一方、知っていて黙っていた者もあったようだ。ともかくまとめて清めや休養に専念させ、内番に回した。これでほとんどの者は復調した。
初めは遣いをしきりに出して大騒ぎしていた政府も、これを事態の収束と見てほっと胸を撫でおろしたようだった。休養を取れば問題なしと判断し、引き続き調査の任を与えられた。主はそれを突き返すつもりだったようだが、これまでの功績と騒動の口封じとして要職に就かされている身の上では大した身動きは取れなかった。刀剣たちもまた一日も早く戦場へ戻ることを望んでいた。すぐにみな、戦の日々へ戻っていった。一期だけを除いて。
あの日を境に、主は神経質なほど全ての刀たちの手入れをするようになった。自責の念だったのだろう。そういうひとだった。若さ故、非情に、狡猾になれないところがある。だからこそ主はよく分かっていた。一期だけが戦で受けた穢れを清め切れず、むしろますます刀身を曇らせ錆びつかせていることを。全ての出陣を禁ず、その言葉で確かに一期は死んだ。
あの頃はよく夢を見た。時間だけは有り余っていたし、内番だけではそんなに疲れたりはしないからだ。戦場を爽快に駆け回っている夢もあれば、炎に巻かれて喚いている夢もあった。一番多かったのは敵となって本丸の刀たちを斬っていく夢だった。それが一期の恐怖だか、この身に巣食う穢れが見せるものだか、すっかり曖昧になって憔悴し、そして主に身も世もなく刀解を懇願するまでになった。頑固な主を説き伏せるのには二月かかったが、なんとか、半年先に刀解の約束を取り付けた。そうしてやっと一期は、心穏やかに暮らせるようになったのだ。そういう時だった。三日月が現れたのは。
「もう休みます。お部屋へお送りしましょう」
一期の部屋にある数ある兵法書を読みたいと言うから三日月を度々自室に招き入れていたが、この男は困ったことにそれをろくに開きもしない。もう読まないからやると言っても受け取らないし、ただにこにこと一期の顔を眺めているだけなのだ。布団を押し入れから下して声をかけたが、いつもは素直に部屋に戻っていく三日月が首を横に振る。
「いや、構わんぞ。俺もここで寝る」
ただ開かれただけの書物を膝に置き、脇息に肘をゆったりと預けている三日月はじっと一期を見上げている。やはり笑みだ。一期は深くため息を吐き出した。大股で三日月の傍に歩み寄り、正面に腰を落とす。
「私は、貴方の正直で素直なたちを尊敬しています」
何故だか無性に腹が立っていた。そんなはずはないのに侮られている気さえした。やっと手に入れた心穏やかな暮らしをまたも掻き乱していくこの刀が憎い。
「主が何を言ったかは存じませんが。どうぞお気になさらんでください。私の心は変わりません」
一期の最後通牒を、しかし三日月は何も分かっていないような、呆気に取られたようなぽかんとした表情で受け止めた。それから脇息に枝垂れていた身を起こし、一期にひたと目を合わせる。
「解けるな、一期」
いつもの笑みではなかった。何の飾りもない、言うなれば初ぶ刀の顔だった。どこか道に迷った幼子のように三日月はもう一度繰り返した。解けるな。
「お前が俺の正直を好いているというなら言おう。あの日、俺は吉光の一期一振に会ってみたいと主に言った。主は少し困った顔をしてな。あれのことはそっとしておいてくれと言った」
思いもよらぬ言葉に困惑する一期へ三日月は手を伸ばし、一期の寝間着の裾を摘まんで引いた。大した力でもないのに、動揺して体が傾く。
「だがな、一期。俺は嫌だと言った」
畳に手をつき美しい瞳を間近に見た。その瞳の中に、何かを頑なに恐れる男の姿が映っている。
「一目見たかった。お前がどんな男か。一目見たら、二目も三目も見たくなったぞ」
三日月の白く、武人らしく筋張った、しかし爪の整う長い指先が一期の両頬に触れた。そして一期の退路を断ってから、三日月はいっそう慈しむように笑ってみせた。
「解けないでくれ」
ぐっと何かが喉元や鼻先、目元まで迫って、指を振り払った。しかし三日月の笑みは崩れない。腹の底で煮え切れぬ様々な想いに耐えきれず、間近に迫る三日月の肩を強く押し畳に押し付けた。どす、と重たい音が夜の静かな部屋に鈍く響いた。
「何も知らんからそんなことが言える……そんな、そんなことが易々と」
「うん、俺は何も知らん。だから易々言える。お前が好きだ」
いいぞ、三日月はまたその言葉を口にする。何がいいものか、腹立ちのまま手荒に服を、体を暴いた。苦しげに眉根を寄せ目尻から涙をこぼし低い呻きを上げても止めなかった。そうすれば先ほどのような言葉を二度と吐くことなく、一期の平穏を踏み荒らすことなく、半年先まで放っておいてくれると信じた。主に刀解を乞う時と似たような心持だった。何よりそれを救いだと思って願っているのに、ますます絶望しているようだった。
「いちご」
苦しげな呼吸の隙間に、三日月は尚笑う。胸元に零れる水滴をくすぐったそうに受け止め、ゆっくりと腕を上げて一期の目尻に触れた。
「いちごは、ないても…うつくしいなあ……」
汗だと思っていた。そうではなかった。それに気づいても水滴は後から後から止まらない。三日月の手を取って頬に摺り寄せた。やはりあの日と同じ、熱く湿った手のひらだ。
「──貴方には劣ります」
それから、何度も逢瀬を重ねるようになった。初めに働いた狼藉を挽回したくて、あれやこれやと気を揉んだ。三日月はそれを見る度に、何がおかしいのか愉快そうに笑った。気付けば三日月の錬度もそれなりになり、季節は初夏になっていた。
外では強い雨が降っている。行燈ひとつに火を入れた薄暗い部屋で、三日月の頭を膝に乗せ何をするでもなく二振で手を絡め合ったり離したりしながら過ごしていた。いつもは遠くに他の刀剣たちの気配を感じているのに、雨の日はそれが随分遠く薄れている。それが妙に心地良かった。
そうだ、思い立ってすぐ真後ろの文机の下から箱を取り出し、不思議そうに見上げている三日月に手渡した。
「これは?」
「ご自分で確かめてご覧なさい」
三日月は横着をして寝そべったまま箱の蓋をかぱりと開けた。それがおかしくてくすくす笑いながらその蓋を引き取ってやる。
「櫛、か?」
「はい」
箱から取り出したのはつげの櫛だ。三日月の瞳の中を思わせる金蒔絵が美しくて思わず買っていた。目の上にかざし、ひっくり返してはしげしげ眺める姿が子供のようでおかしい。幼子にするよりも柔い手つきで頭を撫でた。
「ご存知ありませんか?苦楽を死ぬまで共にする、で人の子は櫛を送るそうです。まあ、洒落ですな」
実のところ、この櫛を手に入れたのは一月も前になるだろうか。渡すか渡すまいか悩んだりもした。しかし今更だなと思って最後には諦めた。どうせ一度は死んだ心と、夏には解けると決めていた身だ。
「貴方が折れん限りは働かせてくれと主に頭を下げました。主のあの驚いた顔、貴方にもお見せしたかった」
櫛がぱたりと三日月の胸の上に落ちたので拾い上げてやる。その三日月は櫛のことなどまるで忘れたように、一期の笑みを穴が開くかと思うほど凝視している。
「それは、」
褥の外で、三日月が水面の月のようにくゆるのは初めて見た。しかしすぐにそれはくしゃりと笑みに変わって隠れてしまった。それを少し惜しいと思い、いとおしいと思う。
「それは見たかったなあ。残念だ」
どちらともなく喉を鳴らして笑う。雨の運ぶ水気に押され、部屋の低いところを這うように笑みが響いた。くすぐったい感じがして笑みが止まらない。
「一期、梳いてくれ。俺が眠るまで」
くすくすと笑みを引きずりながら、一期の膝に擦り寄って三日月が瞳を閉じた。
「ええ、喜んで」
一期もくすくす、その重みと温もりを愛でながら答える。
「次は三日夜餅が食べたい」
「はい」
「汁粉に入れて食おう」
「とびきり甘いのがいいでしょう」
雨が降ると耳を澄ましたくなるのはこのせいだった。この日の笑い声が聞ける気がして、いつも耳をそばだてている。
三日月が調査任務でもなんでもない通常の、手慣れた戦場で倒れたのはこのすぐ後だ。あんなに美しかった三日月の刀はどす黒く錆びついてしまっていた。言うまでもなく、原因は一期にあると思った。久々に抜いた刀は目の覚めるほど澄んだ鈍色だった。
なんと美しい話だろうと思う。しかしこんなことのために一期は三日月に櫛を渡したのではなかったし、三日月もそうでないことは分かっていた。三日月が己の身を挺してまで一期と離れることを選ぶわけもないと思った。
だから一期は、今にも折れようとする三日月宗近を己の人の身に突き立てた。悲劇を幸福で幕引くために。
十
「そうして、私は折れました」
淡々と、どこか嬉しげにさえ見える笑みで一期は言った。わけが分からず鶴丸の顔と一期の顔とで視線を往復していると、鶴丸が徐に一期へ手を伸べた。しかしその手は一期の肩へ触れることなく通り過ぎ、肩の中に手が埋め込まれたようになってしまっている。
「私は私の伴侶と、その伴侶が触れるものにしか触れることができません。三日月は逆に、体はここにあるが、魂に触れることはできない」
未曽有の事態に政府からまた遣いがすっ飛んできて、迂遠な言い回しで自らに責任がないことを並べ立てて帰ったことを、一期は愉快そうに話したが、嫌な記憶でもあるのか鶴丸は渋い顔で聞いている。その後一期の主は審神者の任を解かれ、政府中枢に引き入れられたらしい。
「まあ、監視のためだな。あのあと主は色々やらかしたからなあ」
「私たちはみな刀解、となるはずでしたが……主が情報の暴露を仄めかして捨て身の賭けをやったようです」
「それで俺たちは散り散りになったわけだな」
遅かれ早かれ、一期たちのことがなくともそうなっていただろう──穢れを再び溜め込んでいた刀は少なくなかったのだと鶴丸は言う。一期はその言葉を聞きながらもずっと、三日月の髪を少し掬っては、ぱらぱらと落としている。
「私は最も愛する伴侶の刃で折れたはずでした。しかしそうではなかったらしい」
幸運なことですな、雨に紛れるようにして一期は柔らかい声で呟いた。どこか他人事のように言うのだなと思う。しかし長谷部にとっては真の他人事だから、それを敢えて口にしなかった。
「待つほうは寂しい。だが、楽しい」
代わりに口をついて出たのは夢の中で聞いた言葉だった。一期がぱっと顔を上げたが、長谷部自身にもどうして口にしてしまったのか分からない。
「ひとに聞いた」
続ける言葉に窮してそれだけ付け加えると一期は困ったような、不思議な表情で小さく笑った。それからまた三日月へと目を戻して俯く。
「待たせるほうも寂しいもんです。ですが何より、贅沢ですな」
それから身を屈め、三日月の額に恭しく唇を押し付けた。ほら、のろけだろう、鶴丸がまた呆れた声を上げた。