文字数: 72,834

最終回/回終最



五、傾慕のうら

 もう夜も随分更けたところだが、未だに蝉がところどころでじりじりやっている。昼間の陽が残した熱気が空気に溶けてむっと蒸すが、時折風が吹くとやはり心地よく感じる。目を細めながら蝉の音を聞いた。膝元ですうすうと随分かわいらしい寝息を立てる男にうちわで風を送ってやる。なんだか夏を感じるのも随分久しい。

 世の理の全てをひっくり返してきたせいか、一期は随分消耗している。眠り込んでは合間にとろとろと目を薄く開き、三日月を探すものだからたまらない。愛しさのあまりに頬を撫ぜたり髪を梳いたりする。世話をされるのは好きだが、するのも悪くはない。

 とたとたとた、夜更けに似合わぬ軽快な足音が近づいて来たのはそんな時だ。爽やかな夜風に風鈴がちりんと鳴った。

「わっ!驚いたか?」
「おお、鶴丸。久しいな」

 部屋を覗き込んできた時は満面の笑みだったのだが、三日月を見るなりそれは狐につままれたような顔になる。不思議に思って首を傾げると、鶴丸は近づいてきて三日月をしげしげと眺めた。

「はー……話には聞いてたが。こうして見るとやっぱり驚きだな」
「はっはっは、これは嬉しいな。鶴丸を驚かせるとは」

 小さく笑った鶴丸は、そのままどさりとその場に腰を下ろした。いつもは気配に敏感な一期がちっとも起きる気配を見せないのが楽しいらしく、頬などつついて寝返りを打たれている。またおかしくなって喉を鳴らして笑ってしまった。

「主も陸奥守もひっくり返ってたぜ」
「そうだろうなあ……随分、苦労をかけてしまったな」
「なんだいきみ、らしくもなく殊勝じゃないか」

 ぱたぱたと風を送るのをやめず、風で煽られる一期の後ろ髪を笑みのまま眺めている。振り返るにも、様々なことがありすぎた。一期と三日月だけが居る世界で起こったことではない。

「俺たちはむしろきみたちに歪みを全て押し付けてしまったと思っていてな」

 鶴丸は頬を掻きながらそう言って、言葉を続けなかった。それなりの付き合いが、それ以上言葉を重ねても空疎だと教えていた。

「ま、結果おーらいだ」
「結果おーらい、か」

 顔を見合わせて、互いに笑みを浮かべる。懐かしい、気心の知れた相手との空気だった。

「しかし……俺が待たせることになってしまったな」
「あの審神者のためか?」

 三日月はただ笑むだけだ。何も答えない。鶴丸も深追いはせず、まあいいさ、と話をさっさと切り上げた。三日月としては何かを手助けしたようなつもりはない。泣いている人の子を見れば哀れだと思い、背を撫でただけのことだ。ただ、これまでは一期と三日月が、これからは長谷部とその主たちが彼岸と此岸とをこの本丸で結ぶことになる。いつまでも歌仙を押し留めておきたい審神者と、それを許容している歌仙に、どんな恩恵があるのかは知らない。

「まあ……随分参っていたかと思ったが、最後は陸奥守の言ったとおりになったわけだ」

 変わった話は一期のほうへ転がっていったらしい。小さく首を傾げると、鶴丸は愉快げな笑みを浮かべて声を潜めてみせた。

 一期と三日月は、それぞれ半身をあの世に置くような危うい均衡の上にあった。そのような刀を二振、まとめて預かろうとする本丸などあろうはずもない。政府も自ら預かろうとする姿勢は希薄だったし、三日月たちの主としてもそれは避けたいことだった。

 そこで白刃の矢が立ったのがこの本丸だ。一時は歴史修正主義者に引きずられた審神者の気を鎮めるために、日々清めが行われている。常に場が清浄に保たれており、万一にも穢れが二振を脅かすことはない。

 主と近侍の鶴丸、初期刀の陸奥守の言葉を、審神者は始終聞いているのかすら分からぬ様子だった。しかし最後に、涙で枯れた声でぼそりとこう漏らしたのだ──まるで、悲劇の最終回みたいね。水を打ったように静かになった場に身を乗り出したのは陸奥守だった。姿勢を正し、どこを見つめているとも知れない審神者を正面から捉える。

『あいつはほがなありきたりでつまらんもん全部ひっくり返すちや』

 陸奥守の答えに、審神者は確かに笑ったという。

「そうだな」

 三日月もまた、その場に居るような錯覚すら覚えて笑った。一期の丸い頭を撫でてやる。

「この刀から櫛をもらってよかったぞ」

 おお、おお、きみも惚気話か、と鶴丸は呆れた顔だ。きっとその通り、惚気話なのだろう。最後は幸せに終わる類の。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。