四、悲願のさき
頬に当たるごつごつとした不快感に、微かな水音。ぼんやりとした光の気配に、一期は瞼を押し上げた。ひどく体が重たい。体中に鉛が仕込まれているかのようだ。なんとか目を上げれば、そこには橙の火を揺らす提燈と、それに照らされた穏やかな笑みがあった。
「やあ、珍しいお客さん」
宵に沈む寸前の夕暮れのような紅掛空色の髪は柔らかげで、橙に照らされた孔雀石の瞳は丸い。歌仙兼定だ。「あの本丸」に歌仙は居ない。それが暗黙の了解のはず。ここは一体どこだろうと間抜けにも思い、すぐに正気に返って身を起こした。すぐに腰元を改めて、そこに己の刀身よりも遙かに尊い太刀が佩かれていることに安堵する。中天の三日月の細い光に蒼く照らされているのは河原らしい。砂利がどこまでも続き、その傍らを細い川がさらさらと流れている。
「きみは僕が案内するよ」
立てるかい、そう問われ気だるさを振り切って立ち上がった。辺りはしんと静まり返っており、川の音がするのみだ。遠くには木々や山も見えるが、風が無いためか影絵にしか見えない。明かりはただ、歌仙の手にある提燈ひとつ。左右を見渡した。庭池のむこうの三日月夜に力強く導いてくれた男の姿すら無い。
「あの子はもういないよ。自分がどこに居るべきか知っているからね。きみはそうでもないらしいけれど」
どこか揶揄するような気配を感じて目を遣った。歌仙は相変わらず柔らかい笑みを浮かべている。侮るような響きもする言葉だが、一期の知る限り、歌仙兼定は融通の利かない時もあるくらい実直な男だ。言葉の意味を量りかね、ただ伴侶の柄に手を置くに留める。
「ああ、誤解しないでくれ。僕たちもひとのことは言えないのだから」
行こう、気にした風もなく歌仙は歩き始める。その度に砂利がざくざくと鳴いた。一期もひとまずはその背を追うことにする。
「居たい者だけがここに留まっている、とでも言えばいいかな……僕たちは『刀剣男士』だろう」
歌仙はやはり一期が返事をしようがしまいが気にしていないようだった。それどころかここで足を止めたとしても気にも留めない素振りだ。芝居の台詞でも諳んじるように滔々と言葉を繋いでいく。それは一期も良く知る手だった──相手を強弁で圧倒し意に添わせようとする手だ。
「誰もが知る名刀でもあるし、主だけの刀でもある。だから実のところ、行先に自由があるんだ。まあ、生者には生者の則がある。うっかりそれを覆せないけれど」
「それは自由と言えるんでしょうか」
「さあ、どうだろうね」
気のない返事をして、歌仙は提燈を中空に掲げた。それだけで橙の火が弱くなっていき、数歩先も見えぬほどの明るさに絞られた。
「さあ、少し明かりを落とそう。覚えておいてくれ。ここには姿を見られたくない者も大勢いるんだ」
歌仙の言葉に呼応したのだろうか、砂利の向こうにある木々の隙間でがさがさと露骨に音が立つ。
「それから、易々ここにいる者の言葉に耳を傾けてはいけない。未練を持ってここに残る者も多いからね」
がさがさとまた叢が揺れた。何かが潜んでいる。それも複数。そして用心深く歌仙の言葉に聞き耳を立てている。
「同じことで、できるだけ口を噤んでいたほうがいい。きみが何者か知られれば、きみを妬んだり利用しようとする輩もいるだろうから」
しかし歌仙はやはりそれを気にした様子もない。ひたすらに砂利を踏んでいるだけだ。次第にそれがゆるやかな坂で、一期たちはそれをどうやら上っているらしいことが分かってきた。ざり、ざり、湿った砂利を鳴らしてどれほど経っただろうか。道は狭く、勾配は急になっていく。やがて、いくつかの気配を引き連れながら歩く先に闇がぽっかりと丸い口を開けているのがかろうじて見て取れるようになった。洞だろうか。
「ところできみは、三日月に会えたらどうするつもりだい?ひょっとして連れて帰るのかい?」
「聞いて、どうしますか」
空気が変わった。風が走って木々が揺れる。なるほど、案内はここまでらしい。今度こそ柄を強く握り、いつでも抜けるように構えておく。しかし歌仙は無防備な背をこちらに向けたままだ。
「……貴方はどうして私と我がつまのことをご存知なんでしょう」
「想い人を追いかけて黄泉へとは、なんとも趣があるじゃないか。だが……」
歌仙が足を止め、一期をやっと振り返った。そこにはやはり柔和な笑みがある。しかしそれを認めた瞬間、辺りは暗闇に包まれた。灯が消されたのだ。
「三日月を連れ戻されるのは少し……困るんだ」
闇の中では、打刀と太刀とでは見えている世界がまるで違うという。しかし歌仙に仕掛けてくる気配はない。だがこのまま棒立ちになっているわけにもいくまい。どうしたものかと思案していると、胸に何かの熱を感じる。櫛を納めた衣嚢からだ。すぐに悟るものがあったが、一瞬だけ迷った。しかし、「櫛とつがいとが天秤に乗るのか」という問いが迷いを捨てさせた。思い出と縁を結んだわけではない。
櫛を掲げると、その歯先に青白い炎がぼっと灯ってあたりを明るく照らした。つい足元までにはムカデが数十と迫ってきていたようだった。それを踏み砕きながら前へ進む。ざわざわと叢が大きく不快に騒ぐが、構うつもりはない。
「三日月!」
あの方は私の声をよく通ると褒めた。涼しくて耳に心地よいのだとよく笑った。一期は腹の底から伴侶の名を叫んだ。
「三日月!一期一振が参りました!」
叢からついに、蛇を身にまとった異形の小鬼たちが飛び出してくる。迷いなくそれを斬り捨てながら、一期は洞を目指して砂利を踏み鳴らす。
「言ったじゃないか。姿を見られたくない者が大勢いると。それから、口を噤んでおいたほうがいいともね」
「死者の則など、私には関わりのないことです」
どこかから歌仙の声が聞こえてくるが姿は見えない。前を阻むことがなければ刃を合わせる気はない。だが、心を折ろうとしているならその目論見が甘いことを知らせねばならないだろう。一期は心だけならもう何度折れたか分からない。それを接いだのはこの手にある三日月宗近だけだ。
「私は来世での再会など望まん!記憶だけを愛で暮らすことなど耐えられん!今、何がなんでも我がつまを連れ戻る!」
鬼を斬っては捨て、斬っては捨て、櫛に灯る青い火を頼りに洞へと駆け込んだ。
「三日月!」
高い天井に一期の声が響いたが、その音からさほど奥行きは無いように思われた。しばし耳をそばだてたが返る声は無い。岩壁に手を当てながら、ひやりとした空気の中に足を踏み入れた。
洞は大きな口のまま続いており、道を分けることもない。一直線の道をためらいなく進んでいくと、ついには最奥へ辿り着いたようだ。漆に金蒔絵。今まさに左手で燃え盛る櫛のような美しい衝立だ。その前には歌仙が立っている。衝立の端から伸びた手甲に包まれた腕を取り、一期に向かって差し出していた。
「さあ、手を取って。ただ決して、振り返ってはいけないよ。破れば三日月は二度とあちらへは──」
「知りません」
櫛を足元に置いた。青い光が淡く洞の中を照らす。きょとんと眼を丸める歌仙に一応は一礼をして、三日月の手のひらを取った。
「私は今、この方のかんばせを見たい。口付けたい。抱きしめたいからそうする」
思わぬ軽さに驚く。艶やかな革に包まれた長い指。だらりと脱力しているかと思ったが、一期がぎゅっと握り込むと、ぎゅっと馴染んだ力で握り返される。それだけで胸が詰まった。力なく布団に沈む腕とは違う、かつて道場で握ったあの力強さだ。この向こうに偽物が待ち構えているという疑いは最早なかった。馴染んだ息遣いから生まれる、馴染んだ気配がする。生きている気配がするのだ。思わず一期は膝を付いた。
「三日月」
何か言わなければならないと気は逸るのだが、何も言葉は出てこない。祈るように、ただ両手で三日月の手のひらを閉じ込めている。
「私を」
三日月は何も返事をしない。ただ青い灯だけがゆらゆらと揺れる。ここに至るまでの様々な光景が脳裏をよぎった。三日月のどす黒く曇った刃を見た時の衝撃と、改めて己を抜いた時の刃のあまりの美しさ。意識もほとんどない細い呼吸の隙間に三日月は言った。形あるものはいつか壊れる。すべてを受け入れるこの刀らしいと思った。それが愛しかった。
「恨んでおいででしょうか」
ぎゅっと手を掴む力が強くなったと思った瞬間に、体が傾いて衝立をばたりと倒していた。衝立の向こうには小さな池があり、その前で胡床が横に倒れている。土に付いた一期の両手の中にある、この男が座っていたものだろう。目を白黒させている一期を、その唯一の伴侶は愉快そうに眺めている。
「相変わらず」
眦に笑みが柔らかく滲んで、手の平が頬に触れた。確かな感触と熱がそこにある。
「一期は泣いても美しいなあ」
喉を震わせて零れる笑みも、ほの明かりに揺れる打除けも、何もかも記憶の中にあるままだ。あまりのことにしばし呆然としてしまった。永遠に失われたと心の隅では思っていたものだった。全て己の業で失ったものだと虚空だらけの心を苛んできたものだ。それが、こんなにも間近にある。
「どんなに」
声が震えていた。三日月の言葉に拠れば泣いてもいるらしい。だが何も構っている余裕がない。腕の中にある幸せを瞬き一つの間でさえ逃したくなかった。
「貴方のこの目にどんなに焦がれたか……!」
見つめれば見つめ返してほしかった。声をかければ返してほしかった。雨の中、髪を梳いて首筋をくすぐれば、くすくすと笑みが返ってほしかった。
「俺も焦がれた。お前のこの腕に」
両腕が伸びて首筋に巻き付いた。一期も三日月の背を起こすようにしてそれを抱き締める。
「初めて待つのが嫌になった」
ぐっとまた力がかかって体が傾けられるが、意地でも三日月を離さなかった。大丈夫だと、一期の肩口で三日月はくすくすと笑う。ごろりと寝返るようにして、水飛沫を上げながら水の中へと沈んだ。まるで閨の中に沈むような愛しさを感じて、たまらずに三日月に口付けた。
「困ったな。話し相手が居なくなった」
まあ、いい句は書けそうかな、と蕩けるような笑みで池の淵を撫でる姿を見る者は誰もいない。ただ池の向こうには夏の燦然たる太陽があり、青々とした葉が揺れていた。