7 am – 2
便箋に触れていた指を離そうとする手首を掴まれ、さすがに息を呑む。背後から覗き込んで見下ろすアレンの目がいつの間にか薄く開いていた。んんん……眠気を喉で転がすように弱い唸り声を上げつつ、枕にしていた片腕に額を擦りつけている。窓から惜しみなく入ってくる朝陽が眩しいのだろう。それならこんなところで寝なければいいのに。呆れつつ熱い手のひらを振り解こうとするが簡単に外れない。
「アレン?」
「……みられた」
寝起きの掠れ声が幼稚な不機嫌に拍車をかけている。それならこんなところで書かなければいい。寝落ちする場所といい何もかも自業自得だ。滑稽さにうっかり笑ってしまった。眠気と不服が混ざった半眼が見上げてくるが余計に笑えるだけだ。
「間に合いますか? このペースで」
からかってやると、アレンは眉根をぐっと寄せた。そして夏準の手首を掴んだまま朝陽から逃れるようにうずくまってしまった。仕方なく、爽やかな光を受けて影を伸ばす塊の横に腰を落とす。
「足りないに決まってるだろ」
くぐもった声。手首を掴む力が少し強くなる。
「こんな紙じゃ収まらない。一晩中でも、それを何日、何か月、何年やっても足りない」
「そんな調子なら、プレゼントを受け取るより命日のほうが早いんじゃないですか?」
「全然、充分じゃない」
急に声がクリアになった。アレンが勢い良く頭を起こしたからだ。いつも人に誤った印象を与えがちな鋭い目元が、今日は正しく夏準のことを責めている、ように見えた。困惑して口をつぐんだ夏準にアレンのワインレッドの瞳がもどかしそうに揺れる。
「お前は……違うのか?」
やはりアレンには分かってしまうのだろうか。隣に居た時間がそれなりに積み上がっているせいなのか。恨み言ひとつも言わず、物分かりのいい顔で大事な物を手放すなんてやりたいはずがない。この燕夏準がみすみすそれを許すわけもない。それが明日だろうが、何か月後だろうが、何年後だろうが。
でも二人はただの物じゃないのだ。夏準が今まで手渡されてきたどんな一等品とも替えがきかない。
「水のやりすぎで、醜く枯らしたくありませんから」
逃がさないとばかりに夏準に強い光を注いでいたアレンの目がまた揺れる。それに小さく苦笑を返した。
「……何を」
「誰かを愛する気持ちを。それがボクの一番の望みです」
春の光に満ちたリビングに静寂が這う。険しさを取り落としたアレンの間抜け面に凝視されるだけの時間が心地悪い。さっさとキッチンに入ってしまおうと決め腰を上げたが、アレンの手の熱はしっかり手首に巻き付いたままだ。
「アレン」
「なあ」
気まずさを取り繕う気持ちもあって呼びかけに苛立ちが滲んでしまった。けれどアレンに少しも怯んだ様子はない。必死な表情だった。寝起きの乾いた唇が薄く開いている。何か言葉を探しているように見えた。
「座ってくれ」
懇願の体を取ってはいるし、表情もしおらしいものだが、手首をしっかり握られたままの夏準には選択肢が無いも同然だ。喉元までせり上がっていた不服をため息と共に吐き出してやって、ソファに腰を落とす。目だけで続きを促した。
「退屈か? 俺の話って」
夏準が言葉に詰まってもアレンは少しも気にしていないようだった。朝陽を背にして影になるワインレッドは表情に比べて随分穏やかな色をしている。否定するはずがない、そんな自信を根っこから吸い上げた目。
「お前の考えてることとか、見えてることと、全然違うか? 俺がやってきたい音楽は……俺は、」
夏準の返事など待たずに続く言葉が不自然に途切れた。何かが喉に引っかかっているように顔をしかめ、しかしその痛みを振り切るように口が開かれる。
「もう要らないのか?」
普段のアレンなら絶対にしない、できない言葉選びだ。そんなわけがないことを知っていて、わざわざその鋭い刃を選んでいる。表情が怒りで歪むのを抑えきれないが、アレンは目を逸らさなかった。「ごめん、でも、」自分で突き刺しておきながら夏準以上に苦しげな表情だ。
「好きなんだ。あの時間、夏準に話を聞いてもらうのが。それで……悪くなかった、嫌いじゃないって言ってほしいだけなんだよ」
身を乗り出したアレンの体が膝に触れ、縋るように腕が腿の上に乗る。探るような目から逃れるように目を伏せれば、手首を握る力がまた強くなった。
「俺が枯らさない。絶対に。だから……俺をもっと欲しがってくれ」
不愉快にしかめていたはずの顔を多分今は維持できていない。明るいリビングにまた静寂が散り降る。
相変わらず自分本位でめちゃくちゃな言い分だ。そもそも夏準の感情の話をしているのに、それをアレンは自分が握ると言っているのだ。今まさに手首を掴んで離さないように。それは多分、夏準が手放そうとしている感情とひどく似ている。
「『要らないものあげてもしょうがない』のでは、なかったんですか?」
突き放す言葉にたちまち崩れる表情を見ていると、冷たい視線を維持できなくなってしまった。春の陽気がこんなにも暖かく明るいせいだろう。つくづく、その後の人生に似合わない時期に生まれた。
「まあ……どうせなら、必要なもののほうがより嬉しいプレゼントに決まっています」
今日のところは観念して、手首を掴む手の上にもう片方の手を重ねてやる。アレンはまたぽかんと間抜け面を浮かべて夏準を凝視していたが、やがて体中に詰まった空気を吐き出すようなため息を零した。
「よかったあ……」
「アレン?」
「ふぁ……手紙は……もういいや。分かってるだろ?」
気が抜けるなり眠気が戻ってきたのか、何の遠慮もない大あくびが漏れる。手首から眠気に燻る熱がようやく離れたのはいいが、今度はそれが膝全体を覆ってきて動きを封じられた。アレン、肩を強めに叩くが膝にだらりと預けられた頭に力が入る様子はもう無い。
「起きたら……別のプレゼント、買い……いく……」
膝に縋りつく塊が、すう、すう健やかな寝息と共に上下する。これ以上に「我が物顔」という表現が相応しい寝顔は無いだろう。すっかりリラックスしきった頬が夏準の硬い膝の上で潰れている。
「……仕方ないひとですね。本当に」
さっさと蹴り出して床に転がしてやらない自分と比べると、どちらがより仕方ないのだろうか。不毛なので考えるのをやめた。隈にかかる睫毛の影をぼんやり眺める。
「正解どころか、ほとんど不正解のプレゼントじゃないですか」
結局、手放さずにうまくやれと言われている。改めて考えると失敗する前からその後のことを憂えて尻尾を巻いて逃げるような真似、「自分」らしくはないのだろう。それは二人が特別だからで、だからこそ、苦しみ悩みながら共に居ることを──結局アレンに許されている。
「でも……悪くないセンスです」
セットされていない乱れた髪の先を指先で弄んだ。その間抜けな癖毛に気が抜けて、いつの間にかうっかり目を閉じたのがいけなかったと思う。
その後、誰にも起こされずしっかり遅い朝になったアンがリビングで激写した写真は、しばらくの間アンの中でバズることになってしまったのだった。