文字数: 19,942

2→7



All night with you – 2

 目が冴えている。

 もう何も懸念することはないはずだった。一緒にパンケーキの材料を買い込んで、なんとか食べられる程度まで持ち込んで、めちゃくちゃになったキッチンをしっかり片づけさせて。アンにいつもの笑顔が戻ったことを確認したところで夏準たちにできることは終わりだ。あとはアンの心根の強さを信じていればいい。

 あの「母親」が何を言っていたか、くだらなすぎてよく覚えていない。ただ、それを真正面から受け止めたアンの表情だけが何度も、鮮明に瞼の裏に閃く。我慢できずに目を開いた。一度ため息を吐いて起き上がる。スリッパに音もなく足を入れ、重い体をリビングまで引きずり──そして明かりが点いていることに間髪を入れず呆れる。

「あ」

 珍しく、気づいたのはアレンのほうが早かった。最早定位置と言ってもいい、いつものローテーブルから気まずそうな声が上がる。腕を組んでドアに寄りかかった。

「……『今日は色々あったしちょっとだけ休もうか』、でしたっけ?」
「あー……あはは」

 わざとらしい笑みにため息を吐いたが、それ以上責める気はない。早めに練習を切り上げたアレンの珍し過ぎる提案を夏準もアンも端から信じてなどいないのだから。

「あんなこと……あったらさ。もっともっとヤバい曲にして、真正面からぶつけてやんないとなって思ったんだ」
「そんなことだろうと思っていましたよ」

 苦笑してソファまで近づくと案の定メモが乱雑に散らばっていた。リリックを分解するように紙がばらまかれ、その隙間にいくつもメロディーが荒々しく走り書かれている。ちらりとアレンに視線を送れば、わざとらしい笑みは情けない笑みに進化する。いや、この場合は退化が正しいのだろうか。

「また、ちょっと……うーん、えっと、結構……変わるかも」

 反応を覗うような視線に全く気づいていない素振りでソファに腰を落とし、優雅に足を組んで見せる。何を言ったって譲らないくせに、そしてそこに異論が無いことをもう知っているくせに、アレンは姑息にも夏準の肯定を待っている。情けない表情の下、期待を満杯にして。

「何を待っているんですか? 気が済むまで仕上げる、そうでしょう?」
「よし! そうこなくちゃな!」

 先ほどまでの情けない表情はどこへやら、心底楽しげにメモとDAWソフトを忙しなく見比べ始める横顔を何をするでもなく見下ろす。──変更があることが決まっているなら一秒でも早く把握しておくべきだ。決勝まで一瞬たりとも猶予は無い。それならアレンの気が済むまで作業に同席したほうが効率がいい。それだけだ。

「俺、分かってきた気がするよ」

 メロディやエフェクトを打ち込んでは直し、打ち込んでは直しを繰り返していたアレンが画面を見つめたままふと呟いた。その横顔はやはり愉快そうに緩んだままだ。

「俺を、自分を証明するって……自分ってものがどこに居て、周りに何があって、誰が居て、そいつが何をどうやって表現してるか、それをちゃんと全部見て、聞いて、知って、触って……力に、俺の音に変えることなんじゃないかって。俺の曲、俺たちを証明する曲だけど、俺たちだけの曲にしちゃダメなんだ」

 ただでさえHIPHOPが絡むと饒舌になるアレンは、この時間になると更に拍車がかかる。雑音が消えて欲しい音が研がれていく感じがする──とかなんとか、夜型人間の証明でしかないその理屈を夏準は聞き流している。それだけじゃない。最近のHIPHOPトレンドの話から、自分の楽曲への影響の話に繋がり、どういう曲を作っていきたいかの論に熱が入るその全てをBGMのように聞き流しているだけだ。そのひとつひとつを自分でも呆れるくらい鮮明に思い返せるだけで。

「ここに響いてきた全部の音を飲み込んで、シーンを引っ張るような曲を。俺たちが作るんだ」

 ここ、作業の手を止めてまでアレンは自分の胸に触れた。そして黙っている夏準の反応を見るために自信と野心に満ち溢れた笑顔を上げてくる。今度は期待を隠す気もないらしい。組んだ膝に頬杖をつく。できる限りアレンの期待の裏を行くためにわざとらしくため息を押し出してやる。

「当然です。と言うか……今更です。その程度の覚悟も無くボクたちとライブを?」
「そういうことじゃなくて! 改めてって言うか、ますますって言うか……分かるだろ!?」

 うっかり攻めどころを与えたことに気づいたのか、顔にでかでか「ヤバイ」と書いてラップトップに情けなく逃亡していく後頭部を小さく笑う。未だにブツブツ無駄な抵抗を口の中で燻らせているのが更に愉快だ。

「それにしても……何故ここでわざわざ作業を? せっかく気づかないフリまでしてあげたのに」

 その辺の地べたですら作業場にするアレンのこと、どうせ深い意味は無いのだろうと思っていた。しかし、からかいついでの問いでしかなかったそれに、すぐに答えが返らない。ふっと口元が緩むのが見えた。

「お前が来るかなって思ったから」

 それは夏準にとって、特にその時の夏準にとっては意表を突く言葉だった。「なにコソコソしてんの」とアンが飛び込んでこなければ、うまくごまかせたか分からない。

 そこからの日々は全てファイナルステージのために費やされたので、余計なことを考える隙は一秒たりとも無かった。それぞれの想いを歌に、パフォーマンスに出し切った。会場どころかその遥か先、世界中とすら錯覚しそうな程に遠く、高く、広く歌が響く感覚に意識が飛びそうになった。アレンの言う通りだ。これは一人の曲ではない。三人から世界へ向かう歌だ。

 ステージから下りて肩を寄せ合いながら、夏準はようやくアレンの言葉の何がそんなに意表を突いたのか自然と悟ることができた。

 留めたくない。二人をここに。

 あの「母親」のように、自分を存在させるために誰かを傷つけ縛りつけようとする、そんな可能性すら持ちたくない。なのにアレンは深夜二時、あの場所で夏準のために留まってくれている。夏準は、世界を塗り替える熱量を持つアレンの言葉の塊を、あの薄暗いリビングで未だに占有しているのだ。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。