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2→7



2→7

 ピ、ピ、ピ……気に入っている目覚まし時計がデジタルの秒針を規則正しく進めている。時刻は既に四時過ぎ。広いリビングの真ん中で深い赤のボールペンを起こしては伏せ、起こしては伏せ。ローテーブルの上に置いた便箋はいつまで経ってもまっさらなままだ。

「……もう少しいいやつ買えば良かったかな」

 自分しか聞く相手のいない囁き声は白いライトの光の中へ簡単に溶けて消えてしまう。罫線だけ引かれたシンプルな便箋は、よく見るとほんの少しピンク色をしている。購買でノートと一緒に買ったものだ。別に何もやましいことなんてないのに、何故かノートの下に隠すようにレジに出した。無情にも引き剥がされてバーコードを通されるところをなんとも言えない気持ちで見守ったことを思い返す。はああ……ワックな自分に吐く重いため息がのろのろとテーブルの上を滑っていく。

 言葉は、リリックは、いくらでもある。ライムもいくらでも踏める。フロウにいくらでも乗せられる。なのに今は、それを一字だって紙に落とすことができないでいる。いつもみたいに自分を信じることが難しい。こんなことで喜ぶのだろうか。花を抱えてリビングに入った時のように上機嫌に笑ってくれるのか。テーブルに体を伏せて肘を付く。淡いピンク色から逃れるように目を閉じる。

 瞼の裏、ひらひらと何かが風に舞った。

 便箋と似た色をしたもの。何だろうと思って記憶の中に手を伸ばしてみる。指の先にあるのは懐かしい机、椅子、日英入り乱れた教材や掲示物。スクールの教室だ。その真ん中にあるのは怪訝そうな顔。思い返してみると今よりもちょっと幼い輪郭で今よりもちょっと親しさの遠い目がアレンを見ていた。そこにまだ透明な殻がまだ一枚あることなんて知らない当時のアレンは、開け放っていた窓からひらひら舞い込んだ何かに気を取られて手を伸ばす。試験のためだったか期限の迫った課題だったかもう覚えていないけれど、いつもの放課後を勉強に使うことがもったいなくて完全に集中が途切れていた。

「おっ」

 とうとう、ひやりと湿った感触ごと「それ」を手の中に閉じ込めることに成功する。そっと手のひらを開いてみると、小さくて丸い花びらが現れた。桜だ。そこでその日の気温を鮮明に思い出す。窓を開け放っていると心地よい風が入ってくる暖かい日。夏準のすぐ傍らには窓があり、雲ひとつ混じらない鮮やかな青一色に、切り絵みたいに桜の花が咲き乱れて重なっていた。

「ほら、春」
「……子供ですか?」
「なんだよ」

 この時の心底呆れた表情に当時のアレンは少しムッとしたが、この頃には既にアレンに対して被る猫なんてもう一匹も残っていなかったんだなと今では笑える。お互い、何もかもさらけ出せていたわけではないけれど、気づけば互いに気安い「内側」に立っていたし、立たれることが気にならなくなっていた。

「春ってことは……もうすぐ誕生日だよな?」

 こう言った時、夏準は呆れた表情に困惑を滲ませていたと思う。が、それは付き合いが長くなって後から補った想像かもしれない。アレンやアンが日常の何でもないことを覚えていると、ふっと戸惑って立ち止まる幼い表情が好きだから。

「よく覚えてますね。そんなこと」
「みんな知ってるんじゃないか? 去年もすごかったし」

 常に女の子に囲まれていてただでさえ目立つのに、代わる代わる人がやってきてプレゼントが積まれていく姿なんて見せられたら忘れようもない。もしかしたら名前より先に誕生月を覚えさせられていたかもしれない。よくも知りもしない男の、人形みたいに誰に対しても美しい笑みを教室の隅から別世界の映像のように眺めていた。そのはずが、今や同じ顔から遠慮なしの感情を頭から浴びせかけられている不思議をつくづく感じる。この時もそうだったし、今でもふとそう思う時がある。

「何日なんだ? 過ぎてはないよな」
「八日ですが……なんですか? お祝いでもしてくれるんですか?」
「まあ、どうせなら」
「……本気ですか?」
「え? うん」

 夏準の茶化すような笑みが消えた。二人して怪訝な顔を突き合わせる。その表情からして、夏準は何故アレンがそんなことを言い出したのか理解できていないようだった。けれど何か特別なことを言った覚えもない。「誕生日」という名詞が来たら大抵は「祝う」という動詞が続く……ものじゃ、なかった……っけ? 途端に不安になったのは、ここ数年──下手をすれば十数年、そんなことを考えなくなっていたと気がついたからだ。自分のも人のも、全て変わらない一年の中の一日。バイオリンをケースから取り出し、弓を構え、誰よりも優れた「一番」の音が奏でられるかどうか。それだけが昨日と今日、明日との違いだった。頭の中で連なり不協和音になる記憶から逃れたくて目を伏せる。広げたノートには一体何を書き連ねていたっけ。やっぱりもう思い出せない。窓から入ってきた爽やかな風が手のひらに乗った花びらを巻き上げていった。新たな花びらがいくつも舞い込んできてその後を追う。アレンもつられて目線が上がった。何の飾りもない表情の夏準とまた目が合う。この嘘のないシンプルな表情だけはしっかり覚えている。

「なんていうか……」

 急き立てられるように口が動いていた。今、何か言わないと。体が勝手にそう判断していた。今ここにあるのはただ誰かの期待通りに繰り返される毎日じゃない。それをこの正面に居る夏準に絶対に伝えなきゃいけない。その衝動に駆り立てられた。

「そうしなきゃって思ってるわけじゃなくて」

 夏準の表情はやはり変わらなかった。ふらふら花びらを落とす春の窓を背負い、ただ興味ひとつだけを持ってアレンの言葉を静かに待っている。

「自分からそうしたい、何かしてやりたいって思えてる自分が不思議でさ、面白いから」
 
 そう言えばそうだった。過去の自分の言葉で少し気持ちが楽になる。相手を想う気持ちは、自分を自分らしくする──自分を幸せにするためのものだ。ひょっとしたら相手のための気持ちですらないのかもしれない。でもそんなアレンのエゴを、結局否定しなかったのは夏準なのだ。考えるようにアレンの顔をじろじろ眺めたかと思えば、最後にはふっと唇の端を緩めて笑った。「そうですか」とそっけない、でも柔らかい相槌でアレンの言葉を肯定した。

 ほのかに笑みが色づく表情と、青い空と桜の花びら。こいつは間違いなく春に生まれてるな、そういえばあの時そんなふうに実感したことを思い出した。

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