7 am – 1
ジョギングから戻って入るリビングは春の明るい光に満ち溢れている。窓一面に広がるパステルカラーの青空の中、その爽やかさに不健康な染みを作る黒い塊を見つけて息を吐いた。床に散らばるメモに呆れつつそっとその潰れた背中に近づいた。
ピ、ピ、ピ……アレンの気に入っている玩具のような目覚まし時計がデジタルの秒針を規則正しく進めている。時刻は七時過ぎ。気の抜けた寝顔がローテーブルに伏せられている。ステージ上では見る者聴く者の心臓を素手で掴む強烈な印象で人を魅了するくせに、こうしていると幼い子供のようだ。
「仕方ないひとですね」
朝陽に白く照らされた顔には隈がくっきり浮かんでいる。もう少し本腰を入れて人間らしい生活に矯正してやるべきだろうか。いくら言っても無駄なことは分かってはいるが、「いつか」のことを考えるべきなのだ。アレンも、夏準も。
ふと、アレンの鼻先にあるのがいつものメモ紙やノートではないことに気がついた。薄紅色の便箋だ。手にはしっかりボールペンが握られているのに、便箋には文字が綴られた様子はない。作曲作業以外に没頭するアレンが珍しくもう少し屈みこんでみると、端に三字だけ文字を見つけた。연하준、ぎこちないハングル。
思わず指が伸びていた。「自分」を表す三文字。それを指でそっとなぞってみる。すると記憶の中で、別の指が同じ文字を嬉しそうになぞっていった。
記憶の中はリビングとは反対に薄暗い色をしている。茜色に染められた懐かしい机、椅子、日英入り乱れた教材や掲示物。そろそろ日の沈む夕暮れの教室だ。アレンの音楽を共有することから始まった関係では、当初それ以外の会話はさほど弾まなかった。夏準はその頃そこに必要性を感じていなかったし、アレンは見るからに人付き合いに器用なほうではなかった。だが気まずさがあるかというとそういうことでもなかったように思う。それぞれがそれぞれのために時間を使い、ただ隣り合っていた。アレンと居る時だけ時間の流れ方が変わるような、不思議な感覚を今でも鮮明に思い出す。
その日もいつもと変わらない時間を過ごしていたはずだった。リリックを練ったり、交わしたり、アレンのトラック作りに協力したり。その隙間を茜色の沈黙が穏やかに縫う。だが、アレンの何気ないたった一言がほんの少し放課後の意味を変えた。別に大それたことでもない、リリックに他の国の言葉が使えたら面白いから、そんなきっかけだったと思う。そこから音楽に関係ない話がゆるやかに繋がっていった。
「ハングルは母音と子音の組み合わせです。この字はyeoという母音、丸は子音が無いことを表しています。その下にパッチム……最後の音を足せます。ここではnですね」
「へえ……それでヨン、になるのか。面白いな」
「ひらがなやカタカナよりは覚えやすいと思っていますよ」
ノートの端に自分の名前を綴ってやる。実のところ、「韓国語やハングルを教えてほしい」はよく使われる話のきっかけだ。これまでクラスメートなどに散々繰り返してきたお決まりのレクチャーを機械的に繰り返したに過ぎない。アレンの反応も別に珍しいものではなかった。これまたお決まりの軽口にも「そうなのか」、アレンは素直に感心している。
「燕、夏、準」
シャープペンシルを手に取り、アレンは夏準が反対側から綴った文字を丁寧に模写し始めた。それ逆です、逆だと別の音になりますよ、そんな指摘に律儀に謝ってくる。この頃にはもうそういう心根の男だと分かっていたので、少し笑ってしまったのをよく覚えている。
「どうだ?」
「花丸でもほしいんですか? 참! よくできました」
何度か繰り返す内に手本を見ずに書けるようになったらしく、笑顔がガバリと上がった。今よりも丸い輪郭に浮かぶその幼い表情をからかったが、やはりその日のアレンには今ひとつ刺さらない。無邪気な笑みからふっと力が抜けた。穏やかな目には茜色の光が入っていて、いつもは強い光を底に秘めているワインレッドが穏やかに夜の色をしていた。
「うん、よくできてる」
アレンは手元にある夏準の名前を満足そうに眺めている。何を言っているのか全く理解していない夏準の顔を少し笑って、もう一度夏準の名前を丁寧に書き連ねている。
「お前と会わなかったら、韓国語がこうなってるとか知らないまま生きてたと思う」
「別にそんなことないでしょう。隣の国なんですから。機会ならいくらでも……」
「まあ……そうだけど。お前と会わなかったら、俺、どうなってたか分からないからさ」
眉が下がった情けない笑み。しかしその弱い表情は一瞬だった。ニッと口角が上がってノートが持ち上げられた。自慢するようにハングルで埋まったページを差し出される。
「だから、お前の名前が書けるってすごいことなんだよ。俺の人生、よくできてるなーって。ラッキーだよな」
この時、アレンがどうして家を飛び出すことになったのか、夏準は詳しく聞いていなかった。自分と同じように「家族」に期待することをやめたのだとなんとなく察していただけだ。けれどアレンには「音楽」が残っている。何も残らなかった夏準とは違うのに、この男は自分でそれに気づいていないんだなと思った。しかし、アレンのように愚直な性根を持たない夏準はそこでそれを口にしなかった。今はそれを少し後悔している。もう少し早く教えてやるべきだったかもしれない。
「当然です。このボクに拾われた幸運を死ぬまでよく味わってくださいね?」
「はは……」
茶化してやると引きつった笑みが返る。何も気取ったり飾ったりしない気安いやり取り。もう二度と誰にも「自分」を簡単に踏み荒らさせない、そう固く誓っていたはずが、どうしてこの男には「内側」を易々許せたのか。
「そうする」
音楽の他に理由を見つけるならきっと、時折向けられるその穏やかな目の色にあるのだろうと薄々気づいている。そして気づいていないふりをし続けている。
ワインレッドに沈んでいた意識を七時の光の満ちるリビングに戻した。眼下にあるのは隈に縁どられた白い瞼だ。すう、すう、穏やかな寝息で肩が上下する。
「悪くないセンスですよ、アレン」
プレゼントに困って、アナログ人間の極致のような解答に行き着くのはいかにもアレンらしい。リリックではあれだけ洗練されているくせに、HIPHOPの技巧を取り外すと途端に直球で無骨になるアレンの言葉の塊を受け取ったらそれなりに面白いと感じてしまうだろう。
けれどアレンはきっと正解には辿り着けない。