※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21796298
※ 若干の性描写があります
コンコンコン、消え入りそうなノックの音。退屈な論を繰り返すハズレのペーパーバックから顔を上げた。じっと息をひそめてもドアの向こうに気配を感じない。向こうも静かにドアの前に佇んでいるのだろう。夏準がこのまま聞こえないフリをすれば、きっと物音ひとつ立てずに自分の部屋に戻っていく。
パタリ、本を閉ざした。ベッドボードに追いやる。キシリ、ベッドのスプリングが小さく鳴いた。これからかかる重みを嘆いているのかもしれない。サリ、サリ、スリッパを床の上に滑らせてドアに近づく。
「……アレン?」
沈黙。ドアに触れて声をかけてみるが反応はない。アンであれば何か反応があるはずなので、それがもう答えになってしまっている。ガチリとドアノブを回して引けば、やはりそこにはなんとも言えない居心地の悪そうな表情が待ち構えていた。
「やっぱり」
「……うん」
ようやくひとつ低い頷きが返るだけ。どんな箱でも隅々まで突き刺さる硬質の声が、今は淡雪のように床に落ちる前に消えている。何か切り出すのを待ってみたが、最早余計な言葉も飾れないらしい。沈黙を吸って吐くのに飽きて体を少しずらした。ドアの前にできた隙間にパタリとスリッパが踏み込む。腕を掴まれ、そのまま閉じたドアに背をぶつけられる。軽い力なので痛くはないが少し意表を突かれた。ベッドサイドランプの橙色の光を背に受けた顔は影がかかって薄暗い。
「夏準」
ノイズのようにざらついた囁き。名前を呼ぶだけで銀皿に欲しいものを乗せろと言っている、そんな傲慢な振る舞いだと自分で気づいているのだろうか。燕夏準がそれを誰かに易々許さないことくらいは、きちんと分かっていてほしいものだと思う。前髪の下りた額に自分の額を付けるように屈めば、その首に腕が回る。
ざらざら、髪が顔や首に触れる感触や、するする、布の擦れる音。ちゅ、ちゅ、と抑えきれなくなった接触音がそこに割り込み、次第に湿り気を帯びて濁っていく。熱い鼻息や吐息が首筋の辺りで渦巻き、「他人」がこれほどまで近く踏み入っていることを意識させる。生々しい舌の感触がまともな思考を丁寧に削ぎ落していくのを感じた。何度も何度も、執拗に触れられたあらゆる肌が勝手にその記憶を再生して疼く。最近、口内を好き勝手舐め回されるだけで甘い痺れで力が抜けそうになることをまだ知られたくない。今にも流されそうな夏準の濡れた理性が藁を必死に掴んでいる。
じゅ、と美しいとはとても言い難い音で唇がようやく離れた。伝い落ちそうになる唾液を唇で掬い取られる感触を抵抗せずに受け入れる。近すぎた距離が少し離れ、泣きそうに歪む表情がようやく鮮明に見えた。ドアに腰を預けたままぼうっとそれを眺めていると、逃げるように顔が肩に擦りつけられる。両腕が背に回って服を引き掴んでいるようだ。夏準も温かい胸に体重を預ける。首筋に触れ、チリとほんの小さな音を立てるチェーンだけが冷たい。肩が少し震えている。本人にすらきっとうまく整理できていない苦しみが固形になってアレンの喉に詰まっているのだろう。
予兆はある。
テンポキープができなくなった時のように、ほんの少しずつ会話や反応がいつもより緩慢にズレていく。HIPHOPに浸かるなり、楽曲を完成するなり、「アレンらしい」方法でいつの間にか元のテンポに戻っていることもあれば、ばらばらに散らかるリズムを一人では掻き寄せられない時もある。これが美しい愛なら、きっとそんな姿を憂うだろう。けれど夏準は安堵する。眩い光を放つためには相応のエネルギーが消費される──そこに例外がないことに。アレンの熱は今、夏準の触れられるところだけに留まって肌を溶かしている。トッ、トッ、トッ……ごく近い拍動が心地よい。
「温かいですね、アレン。よく眠れそうです」
動かない男に焦れ囁いて耳を食む。その瞬間に顔が上がった。顔色を確認する暇もなくまた唇が重なる。ゴン、強い勢いに頭がドアにぶつかった。ちゅ、ぢゅ、また濡れた音が響き、するりとスウェットの中に熱い手のひらが差し入ってくる。無遠慮に弱いところに触れられるとさすがに体が反応する。股に膝を差し込まれそれさえ刺激になる。両腕にアレンの体重がかけられているせいだ。う、ん、抑えようとして失敗した声が零れ、ずるずる背がドアを擦る。
膝から逃れ、とうとうその場に座り込んだ夏準を、同じく腰を落としたアレンがじっと見下ろしている。暗闇の中でも分かるその目の強い光を口元を歪めて笑ってやる。
「手荒ですね」
「……ごめん」
「何を、謝ってるんですか?」
気まずそうな謝罪は一見殊勝に見えて、これから先の行動に何ら変化を与えないので大した意味を持たない。膝に手を伸ばしするする擦ってやれば、しかめ面で手を取られた。体の芯を溶かされて立ち上がれない。うっかり気を抜くと中途半端に煽られた熱で早くしてくれと縋ってしまいそうだ。アレンの目はまだ逸れない。夏準がとうとう理性から手を放す瞬間を今か今かと待ち構えている。
「眠れないと思うから」
真面目くさった顔から放たれた言葉につい笑いが込み上げたが、その口がまた塞がれた。いびつで乱雑、少しも快く響かない音の連続が、どこにも出せないトラックになって二人の間に打ち捨てられている。
(2024-01-05)