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2→7



All night with you – 1

 今でこそ夏準は規則正しい生活を送っているが、この家に転がり込んだ当初は今ほど厳密ではなかった気がする。まだモデルの仕事を始めていなかったこともあるだろう。「気がする」としか言えないのは、当時互いの生活があまり重ならなかったからだ。適当に済ませようとするバカ舌のアレンを見兼ねた夏準が二人分の食事を作るようになったのは割とすぐだったが、それ以外の時間は互いの部屋に引っ込んでそれぞれの時間を過ごしていた。夏準が意識してそうしていたかは分からないが、少なくともアレンは居候として遠慮を心がけてはいた。夏準ほどきっちりしていないので小言をもらうのもこの頃から既にのことではあったけれど。今より頻度は少なかったはずだ。多分。

 その距離が変わるのに、何か明確なきっかけがあったかと聞かれれば──うまく答えられない。互いに互いの存在に慣れて、「他人」という感覚が薄れていったような気がする。なんとなく二人とも「内側」にいて、そこに違和感を覚えなくなっていった。あっという間に三人の空間を心地良くしてしまったアンが居ればもっと違ったかもしれないが、アレンと夏準にはそれなりの時間が必要だった気がする。今ではそこに居るのが当たり前すぎてもうよく思い出せない。

 けれどひとつ、もしかしたらと思い当たる記憶ならある。きっといくつも積み重なった小さなきっかけの内のひとつ。

 その日、アレンは作曲に詰まっていた。ノートに意味のないリリックや音符を連ねてはぐしゃぐしゃと塗り潰してを繰り返す。何に没頭していても誰からも咎められない、隠れる必要のない夜の部屋。幸運にも手に入れたそれがいつもの通り味方でいてくれないことが苦しい。ぐしゃぐしゃと前髪を搔き乱して椅子から立ち上がった。うたた寝の夢で聞いた言葉が幻聴になって集中を妨げている。アレンの曲を否定する声をとにかく追い払いたくて苛々とリビングに出る。

 そうして、こちらを振り返る男と目を合わせることになった。

 いつもの気取った笑みではない、感情の読みづらい表情。リビングの絞られた照明の下、ソファに浅く腰かけている。ローテーブルには水の入ったグラスが置かれているだけだ。言葉は無い。でもその時確かに互いに悟っていたと思う。アレンも夏準も、眠れない夜の中に取り残されている。

 まず最初に感じたのは気まずさだ。互いの暗黙の了解に従って、トイレでも行くふりをしてさっさと部屋に戻ってやったほうがいいのだろうか。でも、そんな白々しい真似をわざわざやるのは気が進まない。ドアノブに手をかけたまま固まる不器用なアレンを見て、折れてくれたのは夏準だ。眉を跳ね上げて意地の悪い笑みを浮かべる。

「なんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「いや……居ると思ってなかったから」
「ボクの家にボクが居て悪いんですか? 太々しい居候ですねえ」
「そういうわけじゃないって。寝てると思ったってだけだよ」

 言ってすぐ「しまった」と思う。この流れだと寝ていない理由を聞くことになる。取り繕ってもらった日常をまたほつれさせてしまったアレンを、夏準は呆れたように鼻で笑った。本心は分からない。けれど見る限り何かを傷つけた様子がないことにホッとする。

「家賃が音楽だけというのも……いくらなんでも好条件過ぎたかもしれません。居候はきちんと躾けないと」
「しつけ」

 とは言え、あまりに普段通り過ぎるのも考えものだ。不穏なワードに口元を引きつらせてしまう。ドアをそのまま閉じてしまおうかと思案していたが、それより先に夏準がポンとソファの座面を叩いていた。

「座りますか?」
「……おすわりって言いたいのか?」

 オレンジ色のライトがぼんやり照らすリビングの中で、本人の気性とは正反対に穏やかな色をした瞳がきゅっと丸くなった。その表情の変化にアレンも驚いてしまう。そしてすぐに言葉選びにマズったことを悟る。肩を揺らして喉を鳴らす夏準にムッと顔をしかめ、どすどすと部屋を出た。ソファの背もたれに手をつく。

「俺は面白くないぞ」
「ボクは面白いですよ」

 不機嫌を全力で表情に乗せるが、夏準にとっては逆効果だ。くすくす愉快そうに笑みを引きずりながら、背もたれに肘をつきアレンを見上げる。「そうだ」、嬉しそうに薄い唇が開いた。

「何か話していてください」
「何か?」
「ええ。何か面白いこと」
「ええ……? ムチャ振りだろ……」

 その時に見下ろした瞳の中に、他の誰にも見せていない親しさを初めて見つけた気がする。アレンの都合の良い勘違いかもしれないけれど、逆に否定だって誰にもできないはずだ。そこにはアレンと夏準、二人しか居なかったのだから。心がふっと浮き立つ感覚を今でも鮮明に思い出す。

「そうだ! なら、やっぱりHIPHOPだよな! そもそも俺がここに居るのもHIPHOP教えるって条件だし」
「……ボクでも楽しめる話になるといいですけど」
「心配すんなよ! 知れば知るほど面白くなってくからさ! まずは……」

 ソファを回り込んで夏準の隣に座った。最近のHIPHOPトレンドの話から、自分の楽曲への影響の話に繋がり、どういう曲を作っていきたいかの論に繋がる。夏準の反応はいいものばかりではない。けれど、こいつをまずHIPHOPに引きずり込むんだと話の切り口を変えていくのは面白かった。言葉が、メロディーが溢れてくる。ノートを持ち出して来なかったことを後悔するくらいだ。

 ふあ、夏準があくびを小さく漏らしたので、そこで初めて窓の外がもう白んでいることに気づいた。重そうな瞼をゆっくり上下させ、背もたれに体を預けている夏準は小さく笑った。

「面白かったですか?」
「退屈だったのか?」

 子供をあやすような声音につい険しい言葉を返してしまう。急にアレンばかりが夢中だったと突き放された気になったからだ。夏準はそんなアレンをまた鼻で笑う。けれど眠たげな表情はどこか幼くて、いつものように背筋をゾワゾワさせる迫力は少しも無かった。

「……悪くはなかったですよ」

 別に約束があったわけではない。けれどそれから、アレンはリビングでも作業をするようになった。夏準が水を飲みに起き出してくる夜を摑まえやすくなるように。

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