※死ネタを含みます。
※名前はありませんがそこそこ喋るモブキャラが出てきます。
※朝ドラという設定でTwitterで連載していたものですが、書きたい回だけを書いています。間に各話概要を付けている、という構成です。
※一話時、炭治郎17歳(無自覚)、禰豆子16歳、義勇23歳(自覚)の設定です。
※Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12495085
第一週「思わぬ客人」①
いつもは懐かしさと愛しさ、それからほんの少しの寂しさを噛み締めながらゆっくり登っていく山道を今日は駆ける。もう禰豆子は鬼ではないから、兄たちのように疾く駆けることはできないし、走れば走るほど肺が重く、冷たく潰れていく。苦しさに立ち止まり、くしゃくしゃに握り締めた手紙を涙で濡らしながらまた駆け出して、やっとのことで半年ぶりの我が家へ辿り着いた。
二月、冷たい空気の中で家は静かに佇んでいる。窯に火が入っていないのか、禰豆子をいつも安心させる炭を焼く匂いが薄い。はあ、はあ、荒い呼吸の度に白い息がただでさえ涙で歪んだ視界を曇らせる。震える手を木戸にかけた。そのまま開けようとして、体が動かない。一度手を離し、左手の手紙を見て涙を零し、もう一度木戸に手をかける。がたりと戸が開いた。
「お兄ちゃん」
ただいまも言わずに兄を呼んだ。返事がない。しかしそれを待たずに草履を脱ぐ。転がるように玄関に駆け込み、兄の姿を探す。もうじき昼時なのに土間にも火の気配はなく静かだ。居間を抜けて寝間の襖を開ける。すると、壁沿いの文机の前に緑の市松模様の羽織を肩にかけた背中があった。襖の音に反応してピクリと小さく揺れる。それまで禰豆子にまるで気が付いていなかったらしい。座布団から足を上げ、炭治郎はゆっくりと体を禰豆子へと向ける。
「禰豆子」
いつもと変わらぬ優しい笑みだ。息も髪も乱れた禰豆子を心配する様子さえあった。それまで座っていた座布団を畳の上に滑らせて炭治郎は穏やかに笑う。
「ありがとなあ、来てくれて」
兄の言葉に促されるように瞳の際に溜まっていた涙がぼろりと落ちた。後から後から新たな雫がそれを追う。ひっ、と喉が引きつるように震え、禰豆子は両手で顔を覆ってその場にくずおれた。ざら、ざら、畳を膝でにじる音が近づく。
「ごめんな」
相変わらず兄の声は穏やかで優しい。蹲って震える禰豆子を、逞しい両腕が幼い子供をあやすように抱き込んだ。背中を撫でさする温かい手に更に涙が押し出される。
「ごめん」
うあ、うああ、とついに声を抑えられなくなって、禰豆子はいつかぶりに兄の体に抱きついた。本当に幼い子供に戻ってしまったみたいだと思うのに、どうしても止めることができない。どうして、どうして、どうして──兄が悪いわけもないのに、責めるような言葉が頭を渦巻いた。兄もそれを分かっているように何度も詫びを返してくる。その優しさが余計に腹立たしい。
「これが、義勇さんの願いだったんだ」
冷たい井戸水で顔を洗って鏡台の前に座る。にこりと微笑むと鏡の向こうの顔も微笑む。そんな当たり前のことにくすりと笑ってしまいながら、自作している梳き油で髪を整え櫛で梳く。家を改修することになった時、絶対あった方がいいからと善逸に涙混じりに押し切られて置かれた鏡台だが、一年使ってもまだ分不相応な感じがする。こんな山奥の暮らしで、この瞬間だけは大名のお姫様にでもなった気分だ。それがなんだかおかしい。
「ううん、でもお姫様なら自分で髪を結ったりしないかなあ?」
後れ毛を油で撫でつけながら独り言をこぼし、またくすりと笑って立ち上がる。寝間を出て、居間を横切りながらたすきを掛けて土間に下りる。手桶の水で手を洗って、兄が禰豆子を起こす前にかけてくれたのだろう竈の鍋に耳を傾けて誰にともなくひとつ頷く。まだ赤子が泣いている。蓋を取るのはもう少し後だろう。その間に昨晩少し残していた汁を温めることにする。後はぬか漬けを少し取り出しておけば豪勢な朝餉の完成だ。お姫様には遠く及ばないだろうけれど。
昔から使っている膳を棚から二つ取り出して椀や皿を置いていく。土間の格子窓から見える空は澄み切った青空だ。米の炊けた良い香りが土間じゅうに漂っている。蓋を開けて見れば白米が朝陽を受けてつやつや光り輝いて禰豆子を歓迎した。今日も焦げ付くことなく美味しく炊けているようだ。うんうん、誰にともなく今度はふたつ頷いて蓋を戻す。竈の火を全て落とし、勝手口から外へ出て窯へと向かう。
「朝飯できたか。ちょっと待ってくれ」
窯の前に座って風を送り火の様子を見ていた背中の向こうから、禰豆子が声をかける前から返事がある。いつものことなので最早驚くことはない。人より鼻が利く兄のそういうところに、むしろ安心して嬉しくなってしまうくらいだ。跳ねるようにその後ろ姿に近づいて隣にしゃがみ込む。
「いい匂いだねえ」
「そうだなあ」
微笑みかけると、煤で少し汚した炭治郎の顔が上がって同じように微笑まれた。右目を隠すように墨色の布が巻かれている。それでも残った瞳の丸さが優しい笑みを少しも損なわせていない。
窯からはもうもうと煙が上がり、はちはちと木が炎に爆ぜる音がする。窯の火が満足のいく勢いになったのだろう、炭治郎は風を送る手を止めて窯を撫でるように手を触れる。
「やっぱり窯の匂いが一番落ち着くよ。生まれた時から嗅いできたから」
「そうだねえ」
窯から上がる煙を二人してじっと見上げ、なんとなく押し黙った。冬の朝の風が清々と流れて木々が揺れ、チイチイとメジロが鳴く声が聞こえてくる。
「食べるか」
「うん、食べよう」
どちらともなく、くすくす笑って立ち上がった。勝手口から土間に入り、まずは仏壇のお鉢に米を盛って、水を入れた湯飲みと共に自分の膳に載せる。禰豆子はそのまま二人分の米をよそい、炭治郎は汁を椀に流し込み、それぞれ膳を手に居間に上がった。寝間の簡素な仏壇にお鉢と湯飲みを供えて手を合わせ、居間に戻れば向かい合わせに「いただきます」で食事が始まる。
「今日も麓に手伝いに行ってくるね」
「分かった。みんなによろしくな」
ずっ、と汁を啜っていた炭治郎は禰豆子の言葉に目を上げてそう答えた。麓の町は初午だ、雛節句だと、何かと理由をつけて祭りをやりたがる。何でもいいからハレの日が欲しいんだろうよ、と呆れたように言うのは町のおかみさんたちだ。けれどそんな彼女たちも口々に愚痴をこぼしつつどこか愉快げにしている。手伝う禰豆子だってそうだ。
「お兄ちゃんも一緒に行こうよ。みんな男手が欲しいって言ってたよ」
「ううん、そうかあ。じゃあ次に炭を売りに行く時に手伝うよって言っておいてくれるか」
それきり、茶碗を持ち上げて漬物と一緒にぱくりと白飯を食べ始めて炭治郎は押し黙る。実のところこれも毎度の返事だったが、毎回期待を込めてじっと兄の片目を見つめてしまう。しかし、口の中の物をしっかり噛んで呑み下した後、炭治郎はいつもと同じふうにして困った様子で笑うだけなのだ。
「俺は窯の火を見てないといけないから」
「禰豆子ちゃん」
寄合所に向かう途中、仲の良いおかみさんに呼び止められて振り返る。手招きに素直に従って家の軒に入ると、程無く両手が差し出された。経木に載せられているのは二つの黒い塊だ。口の中に甘い味が広がって涎が出そうになる。満面の笑みで顔を上げた。
「わあ、おはぎ!」
「たくさん作ったからちょっと分けてあげようと思ってね」
「ありがとうございます!」
「これはお兄ちゃんの分」
経木の包みを二つ、手早く風呂敷に畳んで手渡されて礼を言う。するとその後ろで道行く男衆が数人、禰豆子に笑顔で挨拶をかけていくので禰豆子も笑顔で答えた。
「炭治郎はまだ来ないのかい」
「ええ、窯の火を見ないといけないから」
「つれねえなあ」
「真面目なやつだからな」
その後も、行く先々で炭治郎の名前を聞いて、嬉しい半面困ったような気持ちになってしまう。一度生まれ育った山から離れる前は兄もこうして毎日のように麓の町に下りていた。だが今は、炭を売り歩く時以外では町へ下りて行こうとしないのだった。
いつもはあれこれお喋りをしている内に夕暮れになってしまう帰り道だったが、今日はおはぎもあるので八つ時に兄に食べさせてやりたい気持ちになって早めに町を出た。食が細いわけでは決してないけれど、以前ほど物を食べなくなってしまった炭治郎に少しでもたくさん物を食べさせたいと思ってしまう。息を切らして山道を登って、笑顔でただいまと声を上げようとした。戸の前に人影が見えたからだ。しかしそれが兄の形をしていなかったので固まった。
臙脂一色と亀甲紋に似た黄と緑の柄との片身変わりの羽織。以前は首筋を隠すように飾り気なく結ばれていた黒髪が、今は左肩に流して結ばれてある。禰豆子の気配にすぐに気が付いたらしいその人は、運河がゆっくり水を押し流すように身を翻す。こんな山奥で見るのは場違いに思えてしまうくらい、花形役者のように整った顔。睫毛でくっきり縁の描かれた静かな蒼い目。
「あれっ」
禰豆子は思わず思いっきり素っ頓狂な声を上げてしまった。胸元のおはぎをぎゅっと抱き締めてその姿に駆け寄る。もしかすると幻かと思ったので近づいてみたが掻き消える様子は無い。
「あれえ!?」
「久しいな」
とつ、と落とされる低い声までしっかり耳に届いて禰豆子はぽかりと大口を開けてしまった。じっとその整った顔を見上げ、すぐにハッとする。呆けている場合ではない。
「お兄ちゃん!」
半ば助けを求める悲鳴のような声になってしまう。大声に驚いたのかピクリと小さく揺れる肩に申し訳ない気持ちもあったが、冷静でいられるわけもない。一瞬でもじれったくてもう一度兄を大声で呼ぶ。
「どうした、なんだ、何があった禰豆、」
慌てたように家の裏手から飛び出してきた炭治郎は上半身に何も着ていなかった。手には木刀。禰豆子が居ない間、こっそり隠れるように鍛錬を続けていることを実のところ知っていたが、兄はうまく隠しているつもりらしく一瞬気まずそうな顔をした。しかし、すぐにそんな場合でない事態に気が付いたようだった。
「あれっ」
片目の丸い瞳が更にまんまるになり素っ頓狂な声が上がる。受けた衝撃がより大きかったらしく、おはぎをしっかり掴まえていた禰豆子に対して、炭治郎は易々木刀を地面に取り落としてしまった。信じられないものを見たような、最早幽霊か何かを見たかのような表情でよろよろと炭治郎は客人に近づいていく。
「あれえ!?」
「……似てるな、お前たちは本当に」
低い声にぽっかり開く大口。確かに覚えのある流れだが、誰だってそうなるでしょうと思ってしまう。禰豆子よりこの人と交流の深かった炭治郎の驚きは尚更だろう。
「うわあ!?」
「『うわあ』……?」
禰豆子の倍は大きい声にまたその厚い肩が揺れるが、炭治郎にもそれを気にする余裕は無い様子だ。幻でないことを入念に確かめているのか、目を見開いたまま義勇の顔を覗き込んでいる。背丈が以前より少しだけ縮まっているように見えた。
「義勇さん!?なんで、なんでここに……!?」
一年前、蝶屋敷で怪我を癒して出て行くところを見たきりだ。何度も何度も炭治郎は手紙を送っていたようだが、私信の使いに付きあってくれている鴉が返事を持って戻ったことは一度としてない。少なくとも生きてはいることを知ることしかできていなかった。
「……帰るが。迷惑なら」
「待っ、待って待って待って待ってください!そういう意味じゃないです!義勇さん!」
一歩踏み出すよりも早く炭治郎が両手でその両腕を掴んで止めようとして──片腕は羽織を掴むだけに終わる。左手を咄嗟にぱっと開いた炭治郎は、その手を彷徨わせて結局また羽織を握り込む。
「元気そうで、良かった……」
禰豆子からは俯く兄の目に涙が滲んでいることが覗えた。禰豆子も自然と目元が熱くなってしまう。二人に近づいてその羽織の裾をきゅっと握った。
「お会いできて嬉しいです」
「私も」
静かな瞳が水鏡のようになって、情けない泣き顔まじりの笑みをふたつ映し込んでいた。しばらくそれをじっと眺めていた客人──二人の一生の恩人である冨岡義勇は、目元と口元をほのかに緩ませて笑った。
「……俺もだ」
冬の湖面のように澄んだ瞳に宿る優しい光に、なんだか余計に心が動かされて涙が滲んでしまいそうだ。感動屋の兄にはとても耐えられなかったようで、ぼろりと大きな雫が片目から零れて頬を伝っていく。すん、と鼻が啜られた。
「禰豆子、俺たちも祭りにしよう。今日は義勇さん祭りだ」
「何言ってるのお兄ちゃん」
鼻声の兄の言葉に思わず反射で答えてしまった。まつり、戸惑った義勇の声が窯の火の匂いに満ちた山にぽつりと落ちた。