第五週「幸か不幸か」⑤
「ううん、いや。俺にも全然見覚えないな」
街へ買い物へ連れ出しはぐれた時、店員に勧められるまま義勇が買って今日も手ずから淹れてくれた高級な筑後茶を、何の有難みも感じてない様子で啜った善逸は空の湯呑を盆に戻した。炭治郎なんかはいつまでも慣れることができずに両手に湯呑を後生大事に抱えたままだというのに。
「なに」
「いや」
じいっと見つめて黙り込む炭治郎に善逸が居心地悪そうに答えるが、善逸に悪気がないのはもちろん分かっている。追及はやめて畳に広げた手紙に目を落とす。
「そうかあ……一体誰からなんだろう」
「炭治郎の鼻でも分からないんじゃなあ」
手紙は相変わらず、気づけば縁側に置かれて増える。匂いから何か分からないかと熱心に鼻を押しつけるが不思議なほど何の匂いも付いていない。鴉が運んだものでもないようで、木と糊の混じった紙の匂いと、墨の微かな匂いしかないのだ。これは本来だったらあり得ないことである。どれだけ気をつけていたって人の手が触れた時に小さくとも匂いは必ずつく。
さすがに誰からか分からない手紙の中身を宛名にない善逸に見せるのは憚られるから、義勇にもそうしたように折り畳んだ冒頭だけを見せている。拝啓、謹啓、前略、冠省──時候のあいさつは四季折々さまざま。思わず背筋が伸びるほど美しい字もあれば、ミミズがのたくったような癖字もある。言葉回しが華やかで麗しいものもあれば、素朴でぶっきらぼうなものもある。共通しているのはその中身にある優しさくらいだ。兄妹の近況を問うものだったり、和やかに暮らしていることを願うものだったり、感謝していることを伝えるものだったり、自分には勿体ないと思うほどの心遣いを感じる。だからこそ炭治郎は送り主が知りたいのだ。炭治郎も礼が言いたい。返事が書きたい。
「一人のものからじゃなさそうだよな」
「そうなんだよな……」
「善逸さん、ごめんなさい。お待たせしました」
寝間から出てきた禰豆子に、善逸はひゃいと妙な高い声を上げて飛び上がった。それを何とも言えない気持ちで見つめる。華やかな半襟と羽織は寫眞館の店主の娘から譲ってもらったものだろう。頭の上で少しだけ髪を結い、残りの髪を背に流している結い方もその時に教えてもらったもののようだ。いつもより明らかにめかしこんでいる禰豆子は我が妹ながら愛らしい。それが善逸と二人きりで出かける約束をしているというのが何故だか手放しで喜べない。
「禰豆子」
最近すっかり暖かくなった春の日差しの中、先日街で買ったばかりの将棋盤で詰将棋に勤しんでいた義勇がふと顔を上げた。はい、禰豆子が嬉しげに答える。
「悪いな。少し炭治郎を借りる」
「いいえ!いつまででもいいですよ、義勇さんなら!」
その言葉にきょとんとしてしまった。隣に座る善逸も似たような表情をしている。どうやら禰豆子が出かけるのは義勇の願いに沿ったものらしく、その願いというのは炭治郎を借りたいというものらしい。何故自分が喜んでいるのか分からず気持ちを持て余す。顔に血が集まってきて俯いてしまう。
「それから」
「はい」
「……綺麗だ」
「ふふっ、ありがとうございまあす!」
自分が少し意地の悪い人間になってしまった感じがする。義勇の言葉に般若のような顔になっている善逸に、胸に抱えていた複雑な気持ちがすっかり晴れていた。
気を取り直して上機嫌に戻った善逸は、早速禰豆子と連れ立って山を下りていった。兎が跳ねるように軽やかな足取りだ。やれやれと息を吐き居間に戻ると、義勇は縁側から部屋の中へと移動していた。外を背にして、正面に炭治郎が腰を下ろすのをじっと待っている。
「義勇さん」
騒がしい善逸が居なくなった居間は水の中のように静かだ。腰を下ろして睫毛に陰る蒼い瞳をじっと見つめた。昔はいつも見上げた目を正面から。
「お前に頼みたいことがある」
「はい、何でも。俺にできることであれば」
心臓の鼓動の音がどくどくと大きくなっている。とうとう義勇がこの家に来た理由を聞くのだろうか。しかもそれは禰豆子に聞かせられないような事情なのか。悪い想像を打ち払うためにただじっと瞳の色の美しさに集中する。義勇が小さく口を開いたので息を止め──
「手紙の代筆を頼まれてくれ」
そして、思わぬ言葉に固まった。すぐにはその言葉が頭に入ってこず息を止めたまま呆ける。やがて息が苦しくなってはあと息を吐き出してしまった。怪訝そうに義勇の眉根が寄ったので慌てて口を開く。
「代筆」
「うん」
本当にただの頼み事だった……。
炭治郎が勝手に覚悟を決めていただけではあったが、どうしても肩透かしをくらった気になる。そんなことなら禰豆子がいない時でなくてもいつだって引き受けた。そこではたと気が付いたが、もしかして何か大事な報せだろうか。
「何か急事でしょうか?」
「いや、単なる私信だ。お前はよく手紙を書くから慣れてるだろう」
本当の本当にただの頼み事だった……。
しかも、私信だという。一度晴れたはずのもやが胸に戻ってくるのを感じて、炭治郎は探るように義勇を見つめる。鼻先に指を当てた。
「誰にですか」
返事はない。ただ、いつもと変わらぬ静かな表情のまま瞳だけがすっと炭治郎から逸れていった。だめだとは分かっているものの、半眼になる自分を止められない。
「義勇さん、誰にですか」
沈黙。口元がとうとうへの字口で引き結ばれるのを自覚する。こんな子供みたいな振る舞いで義勇の事情に踏み入ってはいけないと分かってはいる。道理として頭では理解できているのだ。しかし心を納得させるのはそう容易くはない。
「鱗滝さんじゃないですよね?そういう匂いがします……義勇さん……」
「書くのか、書かないのか」
「……書きますけど」
義勇にだって悪気がないことは分かっているが、それにしたってずるい聞き方だと思う。炭治郎と禰豆子は義勇が願ったことをいつでも何だって叶えたい気持ちでいるのだ。それを知って物を言ってほしい。そんな駄々っ子のような言い分、口が裂けても返せないが。何か一言言いたいけれど、大恩人に返すべき口答えなどあるはずもなく口元をもごもごさせながら文机の前の座布団に腰を下ろし、抽斗の紙を取り出して机上に置いた。そしてはっと閃いて笑顔で振り返る。
「譲らないですからね!俺が仕事しますので!」
「ああ、別に要らない」
悔しい。すごく悔しいぞ。むっとした顔を見せても義勇の涼しげな顔と香は一切変わらない。悔しいを通り越して虚しい気持ちになりながら文机を持ち上げた。下座に回って机を置く。
「釈然としない……」
「なんだ」
「いえ……なんでもないです。なんでもないんですけど、釈然としないです義勇さん……」
「そうか、大変だな」
どうぞ座ってください、と座布団を滑らせると、義勇は困惑した様子だったが素直に腰を上げてそれに座った。先程譲らないと言った炭治郎の言葉を素直に受け止めていたのだろう。やっぱり今日は申し訳ないより悔しい気持ちが先に立つ。口元を引き結んだまま水入れを取り上げ、硯に水を垂らし墨を磨る。竹を思い起こさせる墨の匂いがふわりと香り立った。
「拝啓」
墨を磨り終え筆の穂先を整えているところに静かな声が触れ、思わず顔を上げる。義勇の静かな瞳にぶつかったのでそれをじっと見つめ返してしまう。墨を磨る姿をじっと眺められていたのだろう。縁側から入る陽の光が沈められた瞳は、夜が明けたばかりの川面を眺めているようだと思う。
「拝啓」
「あっ、はい……『拝啓』、」
少し焦れたような声に慌てて紙を広げ文鎮を置いた。拝啓、言葉の通りに筆を紙の上にするりと走らせる。緩やかな春の小川に似た声があまりに耳に心地よくて、すぐにそれが手紙の頭語だと気づけなかった。
「仰梅の候」
「ぎょうばい」
「梅を仰ぐ」
「は、はい、そうでした」
ぼうっとしている自分が恥ずかしい。集中だ、集中、と胸の内で繰り返した。幾ら胸にもやがかかっていても一度引き受けた仕事なのだから手を抜くわけにはいかない。いつもの何倍も丁寧にゆっくりと文字を綴った。
「貴殿に於かれましては、お変わりなくお過ごしのことと存じます」
「貴殿、に……おかれ、ましては……」
「まずは、文を幾度も頂いておき乍ら、長らく無音に打ち過ぎたこと、お詫び申し上げます」
集中、そう言い聞かせているのについ余計なことを考えてしまう。義勇の文の書きぶりは思っていたよりずっと丁寧だ。もっと用件のみを簡潔に伝える人だとばかり思っていた。
「受けた文、皆目を通し、健勝なるを知り得たこと幸甚でした」
手紙を出す度空想した。どんな字で、どんな書きぶりで、どんな言葉が炭治郎に返るだろうか。幸甚、その二字を見ているとどうしてもやりきれない気持ちになり思わず筆を止めてしまった。
「俺も幾度も出しましたけど……」
「書けたか」
「はい!」
義勇の匂いは微塵も変わらない。微かで鼻に清々しい匂い。炭治郎の複雑な気持ちなど全く察した様子は見えない。こうなれば意地だ。炭治郎のできる限りを極めて義勇の立ち居姿に見合った字を書くことだけに努めよう。見返りを求めて手紙を出し続けたわけではない。
「貴殿の文」
貴殿の文、丁寧に書き綴って次の言葉を待ったが続かないので筆の穂先を整える。続ける言葉に迷っている匂いがする。余程心を砕いた手紙なのだろうな、そう思うと何故だか少し寂しい。
「貴殿の文、人が其の儘字に化けた如くで」
禰豆子と共にこっそり後を付け、当然のごとくすぐに勘づかれて上げてもらった義勇の家には炭治郎の手紙は無い様子だった。家捜しをしたわけでもないが、手紙どころか布団が一組あるだけのような部屋で腰が抜けたので多分無いだろう。
「貴殿を前にしていると錯誤することさえ有る程でした」
どんな風に読まれただろうか、と思う。炭治郎の手紙も、少しはこの人を楽しませただろうか。笑わせただろうか。何か心を動かせただろうか。止まりそうになる筆に慌てて首を振り、義勇の言葉にただ専念する。
「貴殿は多くの者と斯様な文を交していると聞き、其れが如何に待望され、人を嬉笑させ奮励させたか、想察するに難くありません」
「きしょう……ふんれい、」
「嬉しく笑う。奮い立たせ励ます」
「は、はい……」
これは気を抜くと字を誤るぞ。やはり六歳離れているからか、義勇の手紙には炭治郎にとって耳慣れない言葉が次々に飛び出してくる。字に起こしてみるとなるほどと思うのだ。しかし音だけでは咄嗟に字が浮かばない。
「又た其の人の多くが、貴殿への返書を庶幾すること、思い做すに容易く」
「ちょっ……と待ってくださいね……返書、を、しょき……しょき」
「皆お前の文には返事したいと願っただろう。例えもう書けなくなっても」
筆の尻を額に当てて頭の中から漢字を拾い上げようと奮闘していたが、いくつか拾い上げていた字がばらばらと手の内から零れ落ちていく。後に来た言葉のほうが大波のように頭へ押し寄せ、水のように心に染み込んできたせいだ。
「腕が無くとも書きたくなるくらいだ」
顔が上がる。静かな蒼とまた目が合う。やはり義勇は炭治郎が文字を綴るさまを目を逸らさずじっと眺めていたようだ。
「だが」
ずっと少しも動かなかった義勇の表情が初めて動いた。眉が優しく下がり、瞳がわずかに細くなり口角が小さく上がる。今日の春の陽に似ているな、と動きを止めた頭で思う。
「代筆を本人に頼むのは俺ぐらいだろうな」
伊之助と共に訪れた道場で「哀れ」と言われたことが、ずっと頭から離れなかった。思い返す度胸の奥に重い泥土が累積していくようだった。いや、それよりもずっと前からもやを抱えている。不安だった。傷を癒して蝶屋敷を出る時に交わした最後のあいさつで、義勇がふっと零した呟きがずっと心に引っかかっていた。右肩のあたりを眺めて、静かにこの人は零した。いつも通りの清々とした匂いのまま。
『俺には、これしか残っていないと思っていたが』
何も言えなかった。引き留めることもできなくなった。己を鍛える時ですらその言葉がふと頭をよぎった。思い上がった、押しつけがましい感情だと分かっているのにどうしても後ろめたさを感じてしまった。その腕に、何度も救われ守られ背を押されてきたから。
「この手紙、宛名は」
「無い」
答えに迷いは無かった。最初からそう言うつもりだったのだろう。ひどい答えだとも思うし、らしい答えだとも思う。音を追うばかりで頭に入っていなかった文字を指で辿り、心を砕いた丁寧な言葉が連ねられていることに改めて気が付く。
「じゃあ……じゃあ、俺がもらっても、いいでしょうか」
声が震えてしまった。己で書いた己の字をただなぞっているだけなのに、初めて触れたと思った。初めて、この人に触れた。きっと炭治郎はずっとそうしたかった。
「構わない。その代わり」
義勇の口元が小さく動いて細く息が漏れた。その愉快げで慈しむような匂いが鼻に届く。
「また文をもらう」
ぼろりといつの間にか頬を走るものがあって慌てて文机から離れた。右目の布がみっともなく濡れているのではと思って顔を伏せて手を当てる。そうするとまた涙が零れてしまう。
手紙をまた書こうと思う。送り主の分からない手紙に返事をしよう。届け先のもう無くなってしまった相手にもまた新しく手紙を書こう。手元まで運ぶことはできないが、きっと届くと信じて書きたい。今感じているこの気持ちをそのまま伝えて、安心してほしい。右往左往してやっとそれに気づく炭治郎を笑ってほしい。
失くした、そのことは不幸だ。それが人でも物でも幸せなわけがない。胸が万力で押し潰されるような後悔と苦しみに朝な夕な悶絶する。でも失くした後いつまでも不幸というわけでもない。それでも毎日は続いていくから、その中にはきっと不幸という箱を転げ出る笑顔や、愛情や、幸福がある。いつかは箱の中にそれが満ちるのか、やがては箱の外に出るのか。今まだそれは分からないけれど、そういう中に炭治郎は、禰豆子と、義勇と、かつて共に戦った仲間たちと生きていて、今日も一日を綴っている。そういうことを、ちゃんと伝えたい。