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じゃらり、玉砂利に付けていた尻を上げ、炭治郎は膝を代わりに付けて両拳をその上に置いた。昼間は快晴だったが陽が茜色に傾くと足元には夜の冷気が漂う。隊服越しにも膝に冷たさを感じるようだった。
「それじゃあ改めて、よろしくお願いします!義勇さん!」
姿勢を正し頭を下げる。答える義勇も、立てていた膝を下ろし分厚い睫毛を下向けて頷いた。
「分かった」
炭治郎はとうとう行冥の稽古を終え、義勇の待つ道場へと辿り着いた。ところが実弥と遭遇し──敢えて重ねて説明する必要のない136話の事情により──義勇とおはぎの餡などについて楽しく語らうに至っていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。切りのいいところで気を取り直して義勇に教えを乞うことにしたのだ。
「まず何をすればいいでしょうか!?」
これまでの柱稽古では基礎の鍛錬だけではなかなか付かないを力を試され、鍛えられてきた。もちろん辛く厳しいものばかりだったが、柱の持つそれぞれの特性が個性豊かな稽古になっているのが楽しくもある。道場へと向かう道のり、義勇の稽古はどんなものかと様々想像を巡らせていたが、ついにその正答を知る時が来たのである。義勇は炭治郎のその期待に輝く赫い瞳を正面から受け止め、もうひとつ頷いた。
「まずは……飯だな」
「なるほど!飯!!」
炭治郎が勢いよく相槌を打ったものの、義勇の言葉がそこで留まったので、二人は黙って見つめ合うことになってしまった。笑顔のまま炭治郎はええと、と小首を傾げた。
「それは、つまり……腹が減っては戦はできぬという稽古でしょうか!?」
「いや、腹が減っても戦はしろ」
「はい!」
義勇のありがたい教えを取りこぼさぬよう勢いある相槌もうひとつ。そしてまた見つめ合う沈黙。静かな表情のまま義勇はああ、と得心の声を零した。ようやく己の言葉が足りないことに思い至ったからである。
「夜は警邏がある。悪いが稽古は明日からだ」
「なるほど……」
いくら鬼の出現が不気味なほど止んでいる状況とはいっても、むしろだからこそ、柱が警戒を怠るわけにはいかない。炭治郎は神妙に頷いた。納得しなければならない事情だ。しかし、やっと義勇の稽古を受けられるという気持ちでいたので落胆の全てを捨て去ることができない。だがふとそこで妙案が閃いて、炭治郎は俯いていた顔に笑みを浮かべた。
「そうだ、警護にお供する稽古はできるでしょうか!?」
義勇にとってそれは、全く意外の申し出である。継子を取ったことがこれまで一度もない義勇は人を伴って警護に就いたことはない。人を伴うほうがむしろ負担が増し時間を費やすことが多いので、ここ数年は柱以外と当たった合同の任すらほとんどない。
「構わない」
しかし、夕陽に照らされている炭治郎の橙色の笑みを見ていると、不思議と断る言葉が浮かばなかった。期待に満ち溢れて輝きを零す瞳がなんだかおかしくなってしまって、ふっと息が漏れる。炭治郎の素直さが好ましい。
「わあ」
胸に喜色がたちまち満ち、水のように溢れ出して炭治郎は思わず声を上げた。義勇が穏やかな表情を消して不思議そうに瞬きをするので、それを惜しみつつ玉砂利に手を付いて顔を覗き込む。切れ長の瞳は初めて見た時と変わらず蒼く涼しいのに、取り巻く匂いの優しさに胸の奥をくすぐられている気分だ。ふふ、思わず笑みを深めてしまう。
「凄いですね!なんだか義勇さん」
「何がだ」
「それは、ええっと……」
すぐに答えようとして、改めて考えてみるといい言葉が咄嗟に見つからない。わきわきと両手を閉じたり開いたり上下に動かしたり、試行錯誤しつつ炭治郎はそれでも義勇に理解されたくて言葉を探した。
「うまく言えないんですけど、今日の義勇さんは凄いです!ワーッとなりますね!」
「……そうか、わあっとなるか」
「はい!」
炭治郎が言うならそうなのだろうな、義勇は納得して腰を上げる。炭治郎もそれに続いてすぐ隣に立った。目線を下げ、光に満ちた炭火の灯る瞳を見つめる。やはり弾けそうなほどの笑みが待ち構えているので、義勇の口元もつい緩む。
「人が増えるようなら自分で炊かせようと思っているが今はお前一人だ。今日はいい」
「では!お言葉に甘えて!」
炭治郎の生真面目な返事ひとつ、言葉のない相槌ひとつ。四角四面なやり取りを完成させた二人は、じゃりじゃりと玉砂利を踏んで道場と隣り合った屋敷の中へと移動した。静かだが微かに人の気配もある。近くの町にある藤の家紋の家から幾らか手伝いが来てくれていると義勇が訥々と教え、炭治郎がまた生真面目に相槌を打つ。
「寝泊りはここだ」
「広いですねー!」
義勇が案内したのは二十畳はあろうかという座敷だった。部屋の隅にはこれから来る隊士たちのために用意された布団が積まれている。中央の襖が開け放たれていると寒々しいが、これを閉ざして火鉢でも置いておけば夜眠るのにも不便はないだろう。
「後から来た者はお前が案内してやってくれ」
「はい!」
炭治郎が返事をすると義勇はふらりと部屋を離れていった。付いてくることを意図した匂いを嗅がなかったので、炭治郎は座敷に留まって少ない荷を下ろした。特に今解く必要のないものばかりだ。布団に添えるように寄せておく。間を置かず義勇の匂いが戻ってきたことに気が付き、笑顔で振り返って戸に駆け寄る。
「まだ時がかかるらしい」
「そうですか!じゃあ、手伝ってきます!」
「いや」
土間の場所もよく分からないだろうに、今にも廊下を駆け出しそうな炭治郎を義勇は言葉で押し留める。きょとんとした円い瞳をじっと見つめ返して座敷に入った。さしさしと古い畳が鳴る。茜色に染まった障子のすぐ傍に腰かけ、炭治郎を見上げた。
「少し座ってくれ」
「はい!」
素直に義勇の後に続いていた炭治郎は、そのままその正面に腰を下ろす。義勇の白い面は障子越しにほんのり茜色に染まっていた。暗がりの中でも瞳の中には水底を覗くような蒼がある。それに見惚れかけて慌てて大口を開けた。
「何でしょう、義勇さん!」
義勇の見下ろす炭治郎の日に焼けた頬にも茜が差している。暗がりの中でも瞳には温かい火が灯り、鉱物の原石のように際で輝く。いくら見ても飽きないと思ったが、義勇に許された刻限というものはいつも限られている。小さく口を開けた。
「そっちじゃない」
「そっち」
炭治郎が目を白黒させ、義勇がその肩に触れ軽く押す。左肩は後ろに、右肩は前に。後ろを向けと言われていることを察し、炭治郎はくるりと膝を回した。背からその両肩に手を置いたままの義勇からは満足の匂いがする。一体どうしたのだろう、そう考え始めた時、背中が何かに覆われた。何か──考えるまでもないことだ。義勇の熱と匂いがごく近い。
「あの」
首元や顎には跳ねた髪の先が触れている。脇腹のあたりに軽く控えめに添えられた両手。炭治郎は動揺した。この状況で動揺しない者があれば是非とも門下に入って学びたい。考えろ、考えろ、落ち着けと念仏のように心で唱える。
「これは、つまり、何の稽古で、あってその」
言葉がぶちぶち途切れて全く流れていかない。義勇の髪から香る匂いだけが意識の全てを埋め尽くしていて、一瞬でも気を抜くと妙な言葉を口走ってしまいそうで苦心した。どくどくと心臓の音が体中から響いているが、ひょっとして義勇の耳にも届いているのだろうかと思うと気が気でない。
「いや、稽古じゃない」
義勇には炭治郎や師のような嗅覚はない。だが、こうして間近になると「その人の匂い」というものがあったことを思い出す。こんなに近く誰かに触れたのは久しいことだった。少し焦げっぽいだろうか。だが、いやな匂いではない。むしろ。肩先に鼻を擦りつけると小さく揺れる。
「備えだ」
「備え」
答えて満足し、その温もりと匂いをただ感じていたが、炭治郎がすっかり沈黙していることに気が付く。言葉がまた足りなかっただろうか。随分長く自分の居場所を諦めていて、誰かに理解される努力を怠ってきた。加減が難しいが、未熟に立ち止まっていた義勇の背を押したこの男には最大限の努力を示すべきのように思われて、義勇は炭治郎の首筋に頭を擦り寄せて言葉を探した。炭治郎の肩がまた小さく揺れる。
「お前と話してから、昔のことをよく思い出すが」
「は……はい」
「俺は、心配性らしい」
心配性、心配性……心配性?炭治郎は最早言葉がただの音として流れていきそうな程動揺していたが、何度も必死に義勇の言葉を心中繰り返した。一語、一音でさえ義勇から零された物を取り落としたくない。拾って手中に大事に収めていたい。
「備えるもの、大事なものを何でも懐に入れている……と、笑われた」
脇腹に添えられた義勇の手がぎこちなく動いて、炭治郎の胴に回った。ぎゅっと力が込められたが、弱く優しい加減だった。大切な宝物にどう触れたらいいか分からない幼子みたいな触れ方だった。
「だからお前も」
しかし炭治郎の胸はまるで滝に圧し潰されるようにぎゅうっと締めつけられて、まっ平になるのではと心配になるくらいだ。何故か目元が熱くなって慌てて瞬きをする。
「義勇さん、困りました」
炭治郎自身も驚くくらいの途方に暮れた声だ。胴に回った腕に己の腕を重ねて強く握り込む。堪らないと思う。こんなことをされて、こんな言葉を言われたら堪らない。ずっとずっと、我慢してきたのに。
「俺、稽古だって頭をちゃんと切り替えて来たんですよ、本当です」
実のところこの二人は、恋仲、なのかもしれなかった。
お館様の命を受け──敢えて重ねて説明する必要のない131話の事情により──ざる蕎麦早食い勝負を経て、炭治郎も義勇も以前より相手のことを知りたいと考えるようになっていた。炭治郎は復帰まで義勇に付いて回ったし、義勇もそれを避けずに受け入れていた。復帰の前日、炭治郎はあるひとつの気付きを得て素直にそれを義勇に告げた。俺、もしかすると義勇さんをお慕いしているんじゃないかと思うんです。長い沈黙を経て答えて義勇、お前に慕われるのは嬉しい。
そういうわけで別れて幾月、少しだけ文面の変わった手紙を義勇は何度か受け取った。そしてそれをやはり、嬉しいと感じていた。
「すまない、俺も」
時を置くと、ますます義勇さんを思います。
その文に、義勇はなるほどそうだなと感心した。炭治郎はまだ幼く拙いが、そのひたむきさで物の眞實を突く時がある。そうして義勇は炭治郎の文を懐に大事に仕舞ったのだ。記憶の中で呆れたように錆兎が笑っていた。
「……わあっとなった」
そうですか、じゃあしょうがないですね。生真面目な相槌を忘れて炭治郎は口元を引き結び、益々「わあっとなる」心を押さえつけるのに苦心した。