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連続炭義小説『ふたり、ひとつづり』



最終週「頁をめくる」⑤

 嫌な予感がした。

 禰豆子がまず戸惑ったのは、任を解かれても尚兄と共にある噂好きのお喋り鴉が静かに禰豆子の肩に乗ったからだ。ただ黒々とした瞳を伏せ、静かに脚の文が解かれるのを待っている。いつもは手紙の返事を待つ間、耳をつんざくかと思うくらいの甲高い声で炭治郎や義勇、麓の町の人々について愚痴や噂話を繰り返すものだからついつい笑ってしまうのに。

「手紙?お兄ちゃんから?」

 問うけれど、やはり鴉は静かに低頭するだけだ。

 近所の人からこうしておくと甘い実が成ると聞いて、善逸が面倒を見ている子供たちと家の周囲の桃の木の摘蕾に勤しんでいるところだった。いい実が成ったら炭治郎と義勇に分けてあげようと言ってから二人はすっかり張り切っている。しかし決して摘み過ぎないよう、枝を損なわないようにする注意深い手つきでもあるから、それが見ていて微笑ましかった。

 憎まれ口を叩き合いながら仕事に精を出す子供たちから離れ、摘んだ蕾を片手に納めたまま家の軒下に入る。鴉の脚に触れたが、そのひやりとした温度に指を離してしまった。見ると、指先がひとりでに震えている。体のほうが先に手紙の中身を知っている気がして、そんなことがあるはずないと気を持ち直す。不安に重く潰された苦しい胸を気のせいだと断じ、もう一度鴉の脚に触れる。今度はうまく手紙を解いた。

 小さく折り畳まれた手紙を開くと、やはり兄の字が並んでいる。しかしいつもより明らかに字数の少ない、余白ばかりの簡単な手紙だった。報せだけがぽつりと紙の中央に黒ずむ。たった二行の手紙を何度も何度もを目玉を上下させて読むのに、ちっとも頭に入ってこない。いつも突然なんだなと思う、あの人は。来るのも去るのも。

 ──「去る」?

 甘い桃が成っても渡せない。
 家に帰ってもその姿はないし、名を呼んでも答えはない。
 どこかぎこちない生まれたてみたいな笑みで静かに兄の傍に立つこともないし、優しい目がそのまま禰豆子に向くこともない。これからずっと永遠に。

 手紙にあるのがそういう「去る」だと気づいてしまった。理解してしまって、大きく息を吸う。傾いた体を背後の壁にぶつける。壁に立てかけた竹箒がばたりと倒れた。左手に握ったままだった桃の花の蕾がぱらぱらと地に落ちる。先端だけが少し紅色をしている。

「行かなきゃ」

 震えた声が左手で押さえた口から転がり出る。左右に視線を泳がせ、うわ言のように繰り返す。行かなきゃ。ふらふらと体を起こし、建付けが悪くなっている古い戸を寄りかかるようにして押し開いた。ぱた、ぱた、草履を落とし、揃えるのも忘れて床を踏む。ギシリ、ギシリと床の軋む音が次第に早くなった。ついには小走りになって襖に手をかけ、声もかけずに開く。

「わっ、禰豆子ちゃん!?」

 善逸は今まさに起きたばかりのようでまだ布団の中に半身を沈めていた。禰豆子の足音で身を起こしたらしい。慌てたように頬を赤く染め跳ねた髪を撫でつけている。最近善逸が人のツテで始めた逓信局の仕事はなかなかに忙しい。昨晩も遅くに帰ってきたから好きなだけ寝かせてあげようと思っていた。だが今は、そんなこともすっかり忘れてよろよろと寝間に入りその枕元に膝を落としている。布団の端を縋るように掴んだ。そうしていないと心と一緒に体が散り散りに千切れて崩れ落ちてしまいそうな気分がする。

「善逸さん、私」

 声が震えた。手紙を見せなきゃ、きちんとそこに書かれたことを説明して、自分がどうしたいか話さなきゃ。それが分かっているのにちっとも頭も口も回らない。苦しく息を浅く吸ったり吐いたりするしかできない。

「私……行かなきゃ」

 怪訝そうにしていた善逸の顔色がぱっと変わる。その表情から、善逸が禰豆子の知らないことを既に知り覚悟を持っていたことを悟ってしまった。一体どんな音を禰豆子から聞いただろう、辛そうに眉根を寄せ、善逸は布団の端を掴む禰豆子の手に寝起きの温い手を重ねた。

「分かった」

 いつもの気弱でひょうきんな姿が嘘みたいなしっかりした声だ。冷えた手に伝わる温もりに涙が滲む。その温もりで初めて、禰豆子は己が泣きたいのだということに気が付かされていた。あ、とため息のような震えた声が漏れたので、善逸は両手で禰豆子の手を包んだ。そしてぎこちなく微笑んで見せる。

「大丈夫、禰豆子ちゃんなら。凄い子だもん。いつも俺、助けてもらっちゃってる。だから、」

 次第に声が震えて善逸は言葉を一度止めた。善逸と炭治郎は全く違うが、こういうところは少し似ていると思う。こちらが何かを言う前に返事を持っていて、横に寄り添って笑ったり憂えたりしてくれる優しさがある。今弱くなりたくない禰豆子を汲んで、言葉を選んでくれているのだと分かる。泣いていいという許しより、走り出す背を押す励ましを求めていることを知っている。

「行ってきて。炭治郎を頼むよ」

「お兄ちゃん」

 ただいまも言わずに兄を呼んだ。返事がない。しかしそれを待たずに草履を脱ぐ。転がるように玄関に駆け込み、兄の姿を探す。もうじき昼時なのに土間に火の気配はなく静かだ。居間を抜けて寝間の襖を開ける。すると、壁沿いの文机の前に緑の市松模様の羽織を肩にかけた背中があった。襖の音に反応してピクリと小さく揺れる。それまで禰豆子にまるで気が付いていなかったらしい。座布団から足を上げ、炭治郎はゆっくりと体を禰豆子へと向ける。

「禰豆子」

 いつもと変わらぬ優しい笑みだ。息も髪も乱れた禰豆子を心配する様子さえあった。それまで座っていた座布団を畳の上に滑らせて炭治郎は穏やかに笑う。

「ありがとなあ、来てくれて」

 兄の言葉に促されるように瞳の際に溜まっていた涙がぼろりと落ちた。後から後から新たな雫がそれを追う。ひっ、と喉が引きつるように震え、禰豆子は両手で顔を覆ってその場にくずおれた。ざら、ざら、畳を膝でにじる音が近づく。

「ごめんな」

 炭治郎にうずくまる背を抱きこまれ、優しく撫でさすられて涙が止まらなくなった。苦しい呼吸の最中、うあ、うああと声が抑えられなくなって幼い頃に戻ったように兄の体にがみついて泣く。炭治郎はただ困ったようにごめんと繰り返した。その声の優しさが堪らなくて腹立たしい。どうして、どうしてと責めるような気持ちが募ってしょうがない。お兄ちゃんは何も悪くない、それは分かっているのに。

「これが、義勇さんの願いだったんだ」

 ぽん、ぽんと子供を寝かしつけるように禰豆子の背を撫で、体を揺らしながら炭治郎は一層優しい声で言う。禰豆子に向けたものではない甘さがそこにはあった。

 最後はもう、ほとんど言葉を交わさなかったと兄はぽつりと零す。

 元々話すのは得意な人じゃなかったけれど、一音出すのも億劫そうで咳き込んだりして。肺に冬の冷たい空気を入れるともうだめだったから、いつも火鉢二個に火を絶やさなかった。大げさだな、目がそういう風に笑っていた。全然大げさなんかじゃないのに。何でもしてやりたい気持ちばかり大きくて、実際にできることはほんの少しに過ぎなかった。

「俺で……」

 その日も、朝のあいさつすら返ってこなかった。ただ匂いでそれを嗅いで、それが愛おしくて、手の甲ですっかりこけてしまった頬を撫でた。許しも得ずに無作法だと分かっていたけれどどうしてもそうしたかった。一瞬、驚いて丸くなる目が子供みたいで愛らしいと思った。ふふ、と笑うと、同じように笑みが返る。目が閉ざされて、心地よさそうに炭治郎の手に頬が添った。

「俺だけでいいって」

 炭治郎だけ残っていればいい。それが、指にこめた何度目とも知れない告白の、義勇さんの答えだった。

「ひどい」

 禰豆子は顔を上げ、今もうここに居ない人を思わず詰った。ぼろぼろと後から後から止まらない涙を拭うことすら忘れていると、申し訳なさそうに眉を下げた炭治郎が優しく袖でそれを拭っていく。

「そう思うよ」
「お兄ちゃんも。善逸さんもだよ」
「そうだな」

 涙を拭う兄の手をしかめ面で押しやってその両腕を掴み、しかし自力で涙を止められなくてその肩に目元を押しつける。兄は呆れた様子もなくやはりそれを優しく抱きとめてくれる。ありがとう、穏やかな声が背にかかった。

「俺を心配して来てくれたんだろう?」

 心配なんていつもしていた。この家に戻った時から、もしかすると鬼だった時からずっと、ずっとだ。全て終わったってもう二度と何も知らなかった日常に戻れない、その苦しさはあの戦いに関わった皆が持っていたものだと思う。

「実は俺も、思い出したよ。大切な人を何度も、何度も、何度も何度も、失くしたことを」

 しかし妹の禰豆子から見て、激流から放り出された兄は殊更不器用に見えた。いよいよ失った者たちへできることが何もなくなって、優しすぎる心がいつも軋んでいるのを隣で感じた。人のことばかりだから、この兄はいつも。

「俺はだめだなあ、やっぱり。体が大きく強くなっても、心が弱いままで」

 あの日、何の便りもなく義勇がこの家に訪れて、兄のそんな行き詰った生活をすっかり変えてしまったことが、どれだけ炭治郎と禰豆子をもう一度救ったか、あの人はちゃんと知っていただろうかと思う。それだけのことをして、これだけ心の中で大きくなってあっさり消えてしまわないでほしいとも理不尽に思う。そんな禰豆子の幼い駄々を匂いで嗅いだのだろうか。炭治郎がふっと笑みを零す。

「でも変わった、変われたこともあるんだよ」

 零れる涙をみっともなく垂れ流しながら禰豆子は炭治郎の肩から離れた。無理のない、不思議なくらい陰りひとつない心からの笑みだ。自分は長男だからと歯を食いしばって様々な我慢をしてきた兄の顔ではない。

「もう、血の匂いじゃないんだ」

 きょとんと目を丸める禰豆子を慈しむように笑って、懲りずに湿った袖が涙を拭っていく。炭火の温かい火が灯る瞳には、平穏な日常に立ち尽くしていた頃の迷いはひとつも戻っていない。

「この部屋のどこにも、義勇さんがいて、匂いがして、満ちていて」

 言い聞かせるような口ぶりだった。お前もそうだろう、と優しく問われている。土間で一緒に飯を炊いたり、庭先で掃除を手伝ってもらったり、玄関からぐいぐい背を押して町に連れ出したり、縁側でうっかり昼寝してしまった時は背を貸してくれたり。ぱつん、ぱつんと片腕で器用に薪を割る音が記憶から響く。窯で火を見る兄が話かける声に、時折一言、二言返す穏やかな声。たまに頓珍漢な答えをして兄を黙らせるのがおかしくて、くすくす笑いながら二人を呼んだ。義勇さん、お兄ちゃん、ご飯にしよう──

「少しも寂しくないんだよ」

 全く涙の止まらない禰豆子にすっかり弱った様子で、炭治郎は一度身を引いた。さりさりと畳に膝を滑らせて文机の綴りを手に取る。先程まで眺めていたものらしい。禰豆子の前に置かれたそこには、一番丁寧な時の兄の字で「拝啓」とある。何十もの手紙を綴りにしたものらしい。ぺらぺらと頁をめくって、ああ、と炭治郎が声を上げた。寫眞が一葉、栞の代わりに挟まっている。寫眞館の店主が三人に焼き増してくれたものだった。居心地悪そうに椅子に座るその人の顔の横、兄の字が手紙を綴っている。

 眞實の妹を見送る如き寂寞を覚えました。其の前途の、洋々たることを祈ります。

「いや、少しもは言い過ぎかなあ」

 また顔を伏せてしまった禰豆子におどけたような笑みを零す炭治郎の声もとうとう震えていた。知っていた。寂しくないわけなんかない。だからここまで休まずに息を切らせて駆けてきたのだ。

「禰豆子」

 自分で涙を拭い拭い、顔を上げた。兄が柔らかい笑みを浮かべる頬を、口元を引き結んで嗚咽をこらえながら拭い返してやる。

「頁をめくろう。いつも」

 寂しくて辛い。胸が痛くて苦しい。けれどそろそろ泣き止みたい。禰豆子にとっても義勇は頼りになる兄だったり、どこか可愛らしい弟だったり、いつからか本当の家族だった。それを炭治郎のように心に留めたいと思った。悲しみでなく、愛しさや幸せな気持ちで。

「次の頁に進んで、でもある時に前の頁に戻ったりして、笑ったり、泣いたりしながら。そういうふうに生きよう」

 まだ涙は止まらないけれど、禰豆子は笑顔でひとつ、うんと強く頷いた。

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