第二週「新しい生活」③
窯に火を入れている間は、寝ぼけ眼でまず火が消えていないかを見る。勢いが弱くなっていれば手を加え、大丈夫そうなら冷たい井戸水で顔を洗う。ついでに水桶に水を満たして土間に置き、居間に戻って服を着替え、そこで日が昇っていたら禰豆子に一声かける。今や鬼であったことなど夢まぼろしだったかのようにすっかり元の通りの禰豆子なのだが、ただ一点、朝には少し弱くなった気がする。それくらいの後遺症なら可愛いものだが。むうむう唸って寝返りを打ち、間延びしたように「おはよう」が返る。なんとか眠気に打ち勝って起き出してこようとする意志を感じ、炭治郎はくすりと笑って寝間を出た。
居間を抜け、土間に下りて鍋を取り出す。米櫃から二人分の米を取り出しざるに上げ、少し考えて更にそこにもう一人分を足す。井戸水で米をとぎ鍋に入れ、指の腹を見ながら水を足し竈に置いた。その日の天気の様子から焚き木の数や位置を変えて火を入れる。強くなり過ぎず、しかし禰豆子に交替するまでは火が尽きぬよう、火吹き竹で火を起こしていく。丁寧にやっていれば大抵は炭治郎の思った通りの火加減になってくれる。そういうふうに火を育てるのが炭治郎の仕事で、また好きなことでもあった。
「よし」
満足のいく火加減に微笑んで立ち上がった。格子窓の向こうの澄んだ青空を見つめる。今日は空気がよく乾いているので窯の火もよく燃えていた。あまり手をかけずにいても良さそうだから、薪を少し割っておこうかと考える。そうしてわざわざ玄関口まで回った。
木戸をそっと開き外の様子をそろりと覗う。澄んだ冬の朝の空気が玄関にも流れ込んできた。しかし鼻は正直で、その清々しさの向こうに微かに香る匂いばかり拾おうとしてしまう。今日もだ。裸木の隙間から人影が見えるのをじっと待っている。
相も変わらず足音ひとつさせず静かにその人は現れるから、炭治郎の幻ではないかと思ってじっと眺めてしまう。炭治郎の質素な日常の中に現れるにはあまりにも凛と澄んだ匂いと華やかな立ち居姿なのだ。木戸に手をかけたまま、ただ呆然とその人が近づいて来るのを眺めてしまう。五日も同じことをして、まだ全く慣れていない。
「あっ、義勇さんおはようございます!」
背後から上がった大声に思いっきり動揺してしまった。炭治郎の背に手を当てて肩先から顔を出した禰豆子だ。とうとう玄関先まで辿り着いた炭治郎の幻は、朝陽に透けた分厚い睫毛をぱたりと一往復して頷く。そこで炭治郎はやっとそれが幻でなく義勇だと知るのだった。棒立ちの兄を禰豆子は遠慮なく押しやって、どうぞどうぞと義勇を玄関に引き込んでしまう。
「朝餉の準備しますね!居間に上がってください!」
「悪いな、毎朝」
「いいえ、だってご飯はみんなと食べるほうが美味しいじゃないですか」
「そういうものか?」
「はい!」
先程まであれだけ眠気を布団と一緒に被り込んでいたのに、今や禰豆子はすっかりそれを吹き飛ばしているようだ。義勇が麓の町に移り住むことを決め、毎朝この家を訪ねるようになってからずっとこんな調子の上機嫌だ。もちろんのこと炭治郎だってその気持ちは分かるのだ。炭治郎だって毎朝飛び跳ねたいくらい嬉しい。しかしどうにも、ここが現実なのかという疑いのほうが濃くなってしまう。一年連絡すら取れなかった人だ。それが毎朝。
義勇は禰豆子に腕を引かれるまま敷居をくぐって、上がり框にすとんと腰を下ろした。そして着物の懐から長い紐を一本取り出してくわえ、片腕一本で器用にたすきを掛けていく。意図を察した禰豆子が後ろから手伝っていたのもあって難なくできあがった。先日、髪を結うのも同じように口を使って片腕一本でやるのだと禰豆子に実演してやっていたことを思い出す。
「手伝う」
「ありがとうございまあす!」
聞いてください、義勇さんが来るから汁は毎朝出来立てを炊くことにしたんですよ、嬉しげに言う禰豆子に続いて土間に入る背をただ見送る。準備しますから火加減見てもらえますか。分かった。見てくださいこれ、昨日もらった大根!ああ、でかいな──禰豆子が掲げたのは見事な青首大根だ。町の人々は突如現れた美丈夫に興味津々なのか、竈門家に通っていることを知ると訳知りたさに禰豆子にあれやこれやといつも以上にお裾分けを託してくれる。静かに相槌を打つその姿をしばし眺めて、ハッと夢から覚めたように土間に入った。
「あのう」
声をかけると、まな板に手をかけていた禰豆子と竈の前にしゃがみ込んでいた義勇の顔が上がる。じっと見上げる義勇の視線から逃げるように禰豆子と目を合わせてしまった。
「禰豆子、義勇さんと少し話がしたい」
「はいはい、すぐ返してねえ」
上機嫌の禰豆子にはなんだか、ずっとやり込められているような気分がする。満面の笑みで手を振られるのに何故か居た堪れない気持ちになりながら、素直に近づいて来る義勇を居間に上げる。文机の前に置いた兄妹共用の座布団を手に取って上座に置き、義勇に掌で示した。
「義勇さん、どうぞこちらへ」
ひとつ頷いて、義勇は静かな所作で腰を下ろした。そのすぐ正面に炭治郎も膝をつく。一瞬義勇が妙な表情をした気がしたが、匂いが揺れなかったのでどういう気持ちかは分からなかった。真剣な表情で義勇を見つめる。
「誤解のないように最初に言っておきます」
ひとつ、思いっきり息を吸って意を決して口を開いた。一体炭治郎が何を話すつもりか見当がついていないのか、義勇の眉根にはわずかに皺が寄っている。
「俺も禰豆子と同じです。皆と居るほうが楽しいし、嬉しいです。何をするにしても。義勇さんなら尚更、俺は嬉しいです」
二人の暮らしは平穏で和やかだ。けれどこの家には本当だったら、もっと多くの笑い声や足音、弾んだ話し声や手仕事の音で溢れているはずで、それをどうしても寂しく思わない日は無い。しかしこの義勇はたった一人で炭治郎のそんな隙間を易々埋めるだけではなく、何か温かい気持ちを溢れさせてしまう。この大恩人は炭治郎の中でとんでもない質量を占めているらしかった。
「そうか」
目が伏せられて、いつも通りの低くて訥とした返事。しかし匂いにも言葉の端にも柔らかさが滲んでいる。それに胸が締めつけられて炭治郎の口元も緩んでしまいそうになり、慌てて表情を引き締めた。違う、今はそうじゃない。
「それでも気になりますから聞きますが」
きょとりと蒼い瞳が炭治郎に戻った。何故だかほんの少しだけ幼さが見える気がして、開いた口を一度閉じてしまう。しかしここで引いてはいけない。両膝に置いた手をぐっと握り込んで気合を入れた。
「義勇さんは何故毎日うちへ?」
ぱたり、瞬きひとつ。ふたつ。思案するように睫毛が下を向き、義勇の腰が浮いた。
「帰るが」
「いえっ……!待っ……!違うんです!だから最初に誤解のないようにって言ったんですよ!!」
慌ててその左手を両手で覆い、青い顔で義勇を再び座布団の上に戻す。義勇の腰が戻り、気分を害した匂いがしないことに安堵する。
「ただ、理由が知りたいんです!」
これまで音沙汰も無かったのに唐突に現れて、連日現れては何をするでもなく炭治郎の仕事や鍛錬を眺めたり時には手伝ったり、禰豆子と共に山菜採りや町の手伝いに出かけたり。炭治郎たちとっては嬉しいことばかりだから余計に心配になってしまう。例えば、誰かに頼りたい困りごとがあって、それを言い出せずにいるとか。何かとんでもなく悪いことが起きて、それを前にして炭治郎たちに会いにきているのではないかとか。とにかく悪い想像がもやもやと胸の隅にくすぶるので早くすっきりしてしまいたかった。ただ炭治郎たちに会いに来ているのだと聞きたい、子供のようなわがままもあるかもしれない。
炭治郎の言葉を正面から受け止めた義勇は、炭治郎をじっと見つめる。今や視線の高さはほとんど変わらなくなっていた。静かに凪いだ瞳を何故か直視していられなくて、目を逸らした自分を不審に思いつつ、誠実であるためにまた目を戻し、何故か目をまた逸らし──何をしているんだ、俺は。
「……知ってどうするんだ」
「えっ」
ぽつりと水滴が落ちるような言葉に、咄嗟に的確な返事ができない。思わぬ問いだった。そして義勇のこの訪問には何か明確な理由があるのだという答えの端に触れさせられる答えでもあった。
「追い返すのか」
それは狼狽える炭治郎に追い打ちかける言葉だ。俯く義勇からしゅんと落ち込む匂いを嗅いでいる気がする。大いに慌てて両手で覆ったままの左手を持ち上げてぎゅっと握った。
「そっ、そんなわけないです!そんなことは絶対あり得ません!どんな理由でだって俺も禰豆子も嬉しいんだし、何ならここに住んでもらったっていいって思うくらいで……」
「そうか」
間近から覗き込んだ義勇の瞳は相変わらず静かに凪いでいる。少なくとも見た目からは落胆した様子は覗えない。わけも分からず、炭治郎の頭には何故だか「しまった」の四文字が浮かんでいる。
「なら、問題ないな」
「あっ……」
完全に次の手を封じられた。左手を握り締めたまま沈黙する。義勇さあん、お兄ちゃあん、できましたよお、禰豆子ののんびりした声に何故だか気まずくなってその手を解放してしまう。義勇は何も気にした様子なく膝に手を戻し、禰豆子を手伝うために立ち上がって歩き去ってしまった。
「さすが、強い……」
思わず呟いて両手を畳の上についたが、ここで諦める炭治郎ではない。粘り強さには自信があるのだ。
とにかくその日は一日中義勇に共にいてもらって、近況を尋ねてみたり困りごとがないか探ってみたり、ありとあらゆる方向から四六時中話しかけていた。以前にもお館様の願いを受けて似たように粘りに粘ったことを懐かしく思い出したが、今の義勇の強さはその時の比ではない。厠の前までついて行っても素知らぬ風だ。手土産の鰯の干物を禰豆子と共に上手く焼き上げ、夕餉で兄妹に舌鼓を打たせたことにすっかり満足した様子で、ついには夕暮れの中すたすたと山を下りて行ってしまった。
「義勇さんが、全然、折れてくれない……」
見送った玄関先で思わずくずおれると、その背中にくすくすと愉快げな笑みが落ちる。むっと頬を膨らませて見上げれば、禰豆子が両手を口元に当てて心底愉快げに喉を鳴らしている。
「……そんなに笑わなくたっていいじゃないか」
「だってお兄ちゃん、義勇さんの弟みたい。こんな小さい子みたいなお兄ちゃん久々に見たから」
ついには目元に涙まで滲ませていて炭治郎は心外な気持ちを抱えたが、あんまり楽しげなその様子に怒る気も湧かずに最後には苦笑してしまう。玄関にあぐらを掻いてその可愛らしい笑みをただ見上げる。それにまだたった一日だ。明日も明後日も諦めずに話しかけていればきっといつかは──そこで炭治郎は気が付いた。今日一日で、すっかり義勇を幻から日常に嵌め込んでいる。明日も明後日も義勇がこの戸をくぐって来てくれることを受け入れていた。
「良かった、義勇さんが来てくれるようになって、って思うよ」
その気づきと禰豆子の言葉が、炭治郎の胸にある窯にあたたかな火を入れた。