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連続炭義小説『ふたり、ひとつづり』



第四週「今もここに」②

 義勇の動きは、急流に浮かぶ柔い若葉のようだった。伊之助の両手の木刀から繰り出される猛攻を見極め、僅かな動きだけで躱してしまう。業を煮やした伊之助が跳躍して義勇の動きを上段から封じようとしたところ、逆にその懐に入って顎に膝を入れる。そのまま流れるような旋回の上段蹴りが首に入り、猪頭を吹き飛ばして伊之助は地面に沈んだ。

 回転しながらごろごろと着地して勢いを殺した土埃まみれの伊之助が、への字口でむくりと起き上がる。そして突然始まった手合わせを棒立ちで見ていた炭治郎と禰豆子を勢い良く振り返った。

「飯!!」

 その瞳のがあまりにも活き活きと輝いていたので、さっき朝飯食ったばかりだろという言葉を飲み込んでしまった。昼はいっぱい炊かなきゃねえ、と禰豆子が呆れた様子もなく嬉しげに答えている。突然始まった義勇と伊之助の手合わせは幕切れも唐突だ。

 出来上がった炭を窯から掻き出す横で、ぱつり、ぱつり、木を断つ音が小気味よく続く。足を使って左腕だけで器用に薪を割っていく義勇の横で、伊之助が張り合って薪を割っているのだった。働かざる者昼飯食うべからず、の禰豆子の言葉が少なからず効いている気もする。原木はいくらあっても困ることはないので正直ありがたい。飯炊きや風呂焚きにだって薪は使うのだ。

「それで」

 俺のほうが太い木だぞ、見ろ真っ二つだぞ、俺のほうがお前より割ったぞと絶えずはしゃぐ伊之助を全て無言で流していた義勇が、おもむろに声を上げた。なんだかそれを意外に感じて炭治郎も窯から首を出す。

「お前は何故突然ここを訪ねて来たんだ」

 伊之助も義勇から返事があるとは最早思っていなかったのか、ハア?と素っ頓狂な声を上げて動きを止めている。猪頭から表情は覗えないが、どこか困惑した匂いを炭の匂いの向こうに嗅ぐ。

「それで……義勇さんはなんで毎日ここへ来てくれるんでしょうかね……?」

 口を転がり出た言葉に、ぱつり、とまた木を断った義勇が斧を地に付けたまま炭治郎を見た。窯にかかった屋根が作る影の中だと、青が滲んだ瞳には夜が閉じ込められているように見える。ぱつり、斧が木に下ろされるのと同じように睫毛が下りて、また上がった。

「いっそここに住もうかと思って」
「えっ」

 思わず声が出た。しかもその声にはそんなつもりもなかったのに素直に喜びが滲んでしまっている。

「あっ、義勇さんそれは」

 しかしすぐに義勇の意図を匂いで察してしまって顔に血が上った。恥ずかしいやら残念やら、自分が大人とは程遠い存在に思えて複雑な気持ちになり、仕事に戻る素振りで俯く。

「ちょっと……冗談としては分かりづらいかもしれないです……」
「……そうか」

 ぱつり、義勇にとっては何でもない言葉なのだろう。また木を断つ音がひとつの乱れもなく始まる。ふう、と小さく息を吐いて気を取り直す。

「伊之助、それで結局何か用事があったのか?」

 カラカラと炭を取り出しながら一応話を繋いでおくが、実のところ伊之助が何の便りもなく顔を出して数日寝泊まりしていくことは珍しいことでもなかった。全国津々浦々あらゆる場所へ赴いてはその地の道場に押しかけているらしく、山ほど土産話を持って来ては満足してまた出かけていく。そんな伊之助の来訪を炭治郎も禰豆子も心待ちにしていたから、あまり理由について気にしてこなかった。そこでふと、どうして義勇には同じように思えないのだろうと気づき、それについて考え始めようとして──ああっ、と大声を上げた伊之助に阻まれた。

「そうだったァ!俺としたことがすっかり忘れてたぜ!行くぞ、子分ども!!」
「行くぞ……ってどこへ行くんだ?」
「そんなもん決まってるだろうが!」

 ビシリ、斧が炭治郎の方向へ向けられている。そんな風に刃物を扱ったら危ないだろうと言いたいが、今さら伊之助が聞き分けるとも思えずなんとも言えない表情を浮かべるしかない。ぱつり、義勇は伊之助も炭治郎も気にならない様子で淡々と薪を割っている。

「道場破りだ!!」

「それで」

 道すがら、意気揚々と両手の木刀を振り回して進む伊之助の背を見つつ、木刀を二本左手に抱える炭治郎の話を黙って聞いていた善逸はとうとう呆れた声を上げた。炭治郎を振り返れば、その横に並ぶ男の不愛想な横顔も自然と目に入る。相変わらず細雪が地面に触れて消えるような音しかしない。何を考えているか全然分からない。

「なんで俺は呼ばれたのその流れで」

 いつもは一日前に顔を合わせていたって長々愉快な文を寄越してくる男から、「ちょっと来てくれ」だなんて文が届いたので慌てて駆けつけてみればこれである。穏やかじゃないが穏やかが過ぎる。正直そんな荒事に呼び立てないでほしいし、当然のように木刀を持たせないでほしいし、伊之助にはそろそろ落ち着いてほしい。この前なんか事件の文脈で新聞に載っていた。苦言を続けようとしたその時、ふと隣から華やかな息遣いが生まれて善逸は慌てて振り返った。口を開いた禰豆子に満面の笑みを向ける。

「禰豆子ちゃんに会えるのは嬉しいんだよ!?いつでもね!?」
「ごめんなさい、善逸さん。私が呼んでほしいって頼んじゃって」
「えっ!?禰豆子ちゃんが!?」

 体中の血がぎゅんと高速で駆け巡って飛び上がる。申し訳なさそうな禰豆子の右手を取り、安心させるように微笑んで見せた。古傷に引きつる顔の筋肉を無理やり総動員させる。大丈夫だ、今の善逸は音柱も水柱も目じゃない。映画スタアにだって劣らない二枚目のはずだ。

「それなら話は別ですよ炭治郎の文だったから俺はてっきり……もうね、俺は禰豆子ちゃんのためなら地の涯だって駆けつけるんですよいつだって任せてよ、ね!俺に全部任せてくれるかな!?」
「あ、ありがとうございます……?」

 戸惑ったような音はしているものの、笑顔になった禰豆子にヒャアと声が出てしまった。これも大丈夫だ。どんな二枚目だって禰豆子に笑顔を向けられればこんな声が出る。何を考えているか分からない水柱だってこうなるはず。だから全然大丈夫だ。更に禰豆子に言い募ろうとしたが、その肩に手が置かれる。炭治郎の手だ。ごく軽く触れているように見えて、体が禰豆子のほうへ動かない。どれだけ頑張っても動かない。表情がいつも通りの優しい笑みなのが逆にちょっと怖い。

「禰豆子が言ったっていうのもあるけど、善逸に来てもらったのは」
「頼もおう!頼もおう!!ほら、お前らの言う通り五人揃えてきたぞ!早く出てこい怖気づいたのかあ!?」

 ドンドンドン、武家屋敷のような立派な四脚門を伊之助が騒々しく叩いている。いつの間にか目的地に辿り着いていたらしい。門柱の看板には「道場」の文字。

「伊之助が無茶をした時に止める人手がほしくて……」
「ああ……うん」

 本人もよく言う「猪突猛進」をそのまま人間にした男だが、実際に目にすると圧巻だ。行く先々でこんなに典型的な道場破りをやっているのかと思うと炭治郎と共に頭を抱えてしまう。俺は見たくないよ、友達が投獄されたみたいな記事はさすがに。

「またお前か……だから何度も言った通りこの道場は由緒ある……」
「すみません!」

 重そうな門がギイと鈍い音を立てて少し開き、精悍そうな青年が数人、渋面を覗かせた。道場の門下生だろう。伊之助が何かを言い募る前に、炭治郎がその体を下がらせて前に出た。勢い良く頭を下げるので両耳で耳飾りが揺れる。

「乱暴な物言いですみません!謝ります!この通りです!でもこの伊之助は、純粋にもっと自分を鍛えたくて稽古を申し込んでいるんです!もし良ければ手合わせをお願いできないでしょうか!?稽古に人手が要るというなら俺たちも参加して──」
「その目でか?」

 その一瞬、誰の音も変わらなかった。炭治郎は頭を下げたままだし、伊之助は不本意そうに歯ぎしりしているし、禰豆子はおろおろと立ち尽くしているし、義勇は何を考えているか分からない横顔で黙っている。きっと門下生の言葉に嘲る音がひとつも混じっていなかったからだろう。炭治郎の片目を心の底から憐れみ、それが炭治郎の限界を示していることを疑わない声だった。

「剣を交えて打ち伏せられてからでないと相手の実力を知れないというのは、哀れだな」

 意外にも、最初に音が変わったのは義勇だった。門の向こうにいる男たちの顔色が露骨に変わり、開いた門の隙間が広くなった。

「ぎっ、義勇さん……!」
「なんなんだ、お前たちは……いいかこの道場は、」
「おい、こいつ」

 強い風が道を走り去って行った時、義勇の右袖が大きく揺れた。男たちの一人がそれを目ざとく見つけたようだった。義勇の言葉で既に腹の虫が蠢き始めていたのだろう、血気盛んな性質らしい男が門の外に出て義勇に指を突きつけた。

「哀れというならお前のほうだろう!その腕じゃロクに戦えるわけがない!」
「哀れ」

 答えたのは義勇ではなかった。義勇の不用意な言葉に慌てていたはずの炭治郎だ。がらりと変わった音に思わず身を引きたくなってしまう。男たちが伊之助の弱いくせの愚かさを、善逸の傷の醜さを、禰豆子の軽率な場違いを上げ連ねる度音が変わる。いつもは穏やかで優しい男だが、その根っこに激情がある火山のような男だというのは、ここ数年の付き合いでよく知っている。こういう時炭治郎から聞く、釣鐘を鳴らした余韻に似た静かで重い音が善逸は苦手だ。めちゃくちゃ怖い。感覚的に似たようなものを感じ取っているのだろうか、伊之助も怒りの表情を濁して少し身を引いているように見える。禰豆子の両手が善逸の腕をぎゅっと掴む。それどころじゃないのは分かっているが、これはちょっと嬉しい。

「炭治郎」

 義勇の音はすっかり細雪に戻っている。先ほど一瞬、感情が波立つ音を聞いたはずだが、幻だったかもしれないとさえ思う。

「構うな。この程度なら」

 前屈みになっている炭治郎を右手で止められないので、義勇は振り返って左手をその肩に置いている。そしてちらりと門の向こうにいる男たちに目を遣った。

「左腕が落ちても勝てる」

 しん、とその場の音が一度全て死んで静まり返った。凍ったと言うほうが近いだろうか。炭治郎の怒りの音もたちまち霧散して青い顔で義勇を見つめている。

「義勇さん、それは……その、それで場は和まないかもしれないですね……」
「そうか」

 善逸の耳からはよく分からないが、炭治郎の鼻では義勇がそれをほんの軽い冗談として言ったことを嗅ぎ取っているらしい。何それ怖い。一生分かりたくない。おい、と道場の男の一人が低い声で別の男に声をかけた。声をかけられた男は心得たように深く頷く。応援を呼ぶつもりなのだ。

「おっ、ようやくやる気になったのかあ?」

 伊之助の切り替えの早さには驚かされるが、決して感心したくはない。嬉々として構えを取る横で、義勇が炭治郎の腕から木刀を引き抜いている。

「炭治郎」
「はい」
「お前は剣を振るっていろ」
「はい!」

 一体何の確認だろうと問う間もなく、伊之助と炭治郎が飛び出した。門の中に入って向かってくる男たちと打ち合いを始める。義勇は一拍遅れて踏み込み、跳躍して炭治郎の肩に足をかけ宙返りをする。それを驚きで見上げる男を打ち伏せ、別の相手を振り払った炭治郎の木刀を軽く蹴ってまた跳躍。炭治郎の太刀筋に合わせながら、敵の意表を突いて自分自身を飛び道具のようにして戦っている。炭治郎の右側から来る攻撃を決して通さないようにしているように見えた。臙脂色の右袖がひらひら揺れて旗のようだ。

「なんだそれ!なんだそれ!!俺にもやらせろ!おい善逸!来い!!」
「やらないからな!?」

 先程男も言いかけていたように歴史が長く大きな道場らしい。次々現れる男たちを伊之助が先頭を切って打ち伏せていく。炭治郎も義勇もそれを止めるどころか追い抜く勢いだ。

「あーあー、もうメチャクチャだよお……止めるんじゃなかったのかよおたんじろお……」

 先程まで一緒になって頭を抱えていたはずの炭治郎の背が遠い。何だかんだ言って炭治郎も短気なところがある。先程の言葉がよっぽど腹に据え兼ねたのだ。特に義勇にかかった言葉に対して、音が全く変わっていた。深いため息を吐いて額に手を当てた。その袖をついと引かれる。

「善逸さん、あのね」

 振り返ればそこにあるのは弱った顔をした禰豆子だ。そんな顔さえ可憐なので、この状況を放り出して街かどこかへ連れ出したい気分になった。さすがにそこまで薄情ではないけれど。

「本当にごめんなさい、でもね。みんながこうして鍛錬してるところが好きだったのを覚えていたから。もう一度見られるんじゃないかって思っちゃって」

 あの最後の戦いは本当に苦しかった。

 体中に大きな傷を負ったけれど、それ以上に内側に負った傷があまりに大きくて、なかなか埋まらなくて今でも時々立ち往生する。爺ちゃんのところへ居た時だって、蝶屋敷で機能回復に励んだ時だって、柱稽古で泣き叫んだ時だって全部全部辛くて苦しかった。戻れと言われたら正直迷う。でももう二度とあんな風な気持ちで鍛錬には打ち込めないだろう、それが分かるから寂しくて悲しくなったりもする。

「こんな騒ぎになるとは思ってなくて……でも」

 兄によく似た、禰豆子の瞳に宿る優しい炎が涙で揺れていた。でも口元や目元、善逸の耳に届く音には隠しきれない愉快げな笑みがある。二度と戻れない懐かしいものに、指先でいいから触れたい気持ちは善逸にもよく分かる。そして善逸の好いた相手が今、それを望んでいる。

「禰豆子ちゃん、見ててくれる?」

 木刀を構えて腰を低く落とした。シイイ、噛み締めた歯の隙間から気合を入れて呼吸する。

「あんな奴ら、俺の技で一瞬ですからね……!瞬きひとつしないでね……!」
「あっ」

 禰豆子が何か言いかけた気配がしたが、後で聞くことにして善逸は乱闘に加わった。

 結局、大騒ぎを心配した周囲の町民たちが警官を呼び、善逸たちも道場の門下生もこってり絞られることになってしまった。ただ、道場の敷地内だったことと、留守にしていた師範の執り成しによる和解で何とか見逃してもらえた。全く悪びれた様子のない伊之助と義勇、申し訳なさそうにはしつつも明らかに嬉しげな兄妹の後ろにつき、善逸は一人ぐったりと疲労を噛み締めたのだった。

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