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花、復た笑く (炭義禰)



 ねずこは鬼である。

 ねずこは鬼だが、兄がいて、兄はどうやら人間である。人間は皆守るべきもので、家族だから、ねずこはそれを良かった良かったと思っている。ねずこが今暮らしているのは大きなお屋敷だ。初めはここに母と妹が居ると思っていたけれど、よく見ると美しくて可愛らしい女の子たちがたくさん居て、みなそれぞれ違う名前があるようだった。皆が皆「しのぶさま」を慕っていて、ねずこも「しのぶさま」が美しくて優しいから遠くから眺めるのが大好きだ。

 ねずこは今庭にいる。夜の庭ではなくて、爽やかに朝陽が満ちた庭だ。ねずこはこれまで太陽の光が恐ろしくて仕方がなかった。ちょっとでも目に入るとちりちりして、体中の肌がぞわりと粟立った。まともに浴びたら熱くて痛くて苦しい思いをすることが何故かはっきり分かっていて、体が勝手に日の光から逃げ出す。でもある朝から段々その気持ちがなくなって、今はこうして日の中を歩いてもちりちりもぞわりもしない。大きくなったらできなかったことができるようになっていくからね、とお母さんが言っていたから、きっとねずこも大きくなったんだろう。

 朝はみんな忙しい。昼が近くなるとお手伝いできることがあるので、ねずこはトコトコ散歩することになっている。日向ぼっこをすると、何故だかずうっとこうしていたかった気持ちになって嬉しい。早く兄と一緒に散歩して思いっきり撫でてほしいのに、兄ときたらずっと眠ったままだ。女の子たちが真っ青な顔で覗き込んでいるのがかわいそうだから早く起きてあげてほしい。

 池をくるりと回って、「しのぶさま」の部屋の窓を遠目に見て、今日もいないなあとがっかりして、池の鯉を眺めることに決めたところで、何かがものすごい速さで近づいて来ていることに気が付いた。何かを見たわけでも聞いたわけでもないけれど、体がそうだと言うのでねずこは小首を傾げて振り返る。ふわりと風が起き額の産毛が浮いた。音もなく正面に人間が降り立つ。

 父かと思ったけれど、違う男の人だ。どこかで見た気がするのによく思い出せない。ただ、ここに雪は無いのになあとおかしなことだけ思いついて、何故だか少し怖くなって一歩だけ後ろに下がった。男の人はじいっとねずこを見ていて何も言わない。でもねずこを恐れたり嫌う様子もないので、ねずこは怖く思うのをやめて、じいっと男の人を見返した。空の色がそのまま目に染み込んでいる。夕方になったらお兄ちゃんと同じ色になるのかな。

「本当か、と思って」

 男の人が言うけれど、ねずこには少し難しい。首を反対の方向に傾げると、男の人の顔が少しだけ動く。初めてふきのとうを口に放り込まれた弟の顔に似ているかもしれない。その顔のまま、またじいっとねずこを見ている。

「思ったが……本当だった」

 しばらくしてまた言うけれど、やっぱりねずこには難しい。誰か話の分かる人に会わせてあげたほうがいいだろう。兄だろうか。そう考えてひらめいた。この屋敷に戻って来てから、毎日たくさんの人が寝ている兄を見にくる。この人もきっとその一人だ。一歩、前に戻っても男の人は動かない。それを確かめたので指を伸ばして臙脂色の羽織の裾を掴んだ。

「おにいちゃん、あっち」

 ぐい、と羽織を引っ張って笑う。すると、男の人の顔が大きく変わった。尻尾を踏まれた猫に似ているので、ぼさぼさの長い髪の毛まで逆立って見える。ねずこは人の言葉があまり上手ではないからうまく伝わらなかったのかもしれない。もう一度、あっちと屋敷を指した。猫の顔でじいっとまたねずこを見ていた男の人は、もう一度羽織を引くとやっと動いた。首が横に振られる。

「いい」
「あっち」
「目覚めていないと聞いてる」

 でも、もうすぐ起きる。妹だから、ねずこにはそれが分かる。むん、と口を閉じてぐいぐい羽織を引っ張っても男の人は動かない。顔は色々混ざって、ふきのとうを食べてしまった猫の顔になっていた。ついには、はー、と息を吐き出して男の人は背中を向いてしまう。

「こっちだ」

 むう、と怒っていたのを、男の人がねずこをどこかへ案内しようとしているのだと分かってやめた。羽織を掴んだまま男の人と一緒に歩き出す。

「おにいちゃん?」
「いや、お兄ちゃんじゃない」

 男の人はトコトコ歩く。ねずこもトコトコ歩く。男の人のぼさぼさの髪の毛が揺れる。この屋敷を出てはだめだから、その外でなければいいなあと思っていると、裏山に出る垣根の傍で立ち止まった。男の人がしゃがみ込んだので、そっとその足元を覗き込んだ。

「はな」

 垣根に沿って、紫色の花が首を曲げていくつも咲いている。ちょうど男の人が俯いている格好によく似ている。

「入った時に見つけた」

 ぼさぼさの髪の毛の向こうから声がする。ずっと前にも同じことがあった気がする。こっちだよとくりくり丸い目を輝かせた弟がぐいぐい手を引いた。なあに、六太。もう、引っ張らないで。そんなに急ぐと転んじゃう。笑いながら後を追うと、そこには咲いたばかりの春の花。

「きれい」

 その時も禰豆子は六太にそう言って頭を撫でた。兄妹揃って癖毛だから六太も後ろの髪の毛がちょっと跳ねる。同じように跳ねる髪の毛に触れて優しく撫でた。少しだけ見える耳が垣根の陰で薄紅色をしている。きれい、ありがとう、ありがとうございます、雪の、雪の中にいたあの時の──なんだっけ。

 とにかく、撫でているのはねずこなのに、何故だかほわほわと幸せな気持ちになった。後でお兄ちゃんも撫でてあげよう。

 その時、男の人の長い指が伸びてふち、と花をひとつ折った。しゃがみ込んで隣に並んだけれど、もう猫の顔はしていない。もうひとつふち、と花を折る。指が伸びてきて片目を閉じると、その真横の耳に触れられた。紫色の花びらがぼんやり見える。指でその先におそるおそる触れてみたら湿って冷たい。

「根があればまた咲く」

 もうひとつの花が差し出されたので受け取ると、男の人は立ち上がった。お前たちと同じだ。そう言って、地面を蹴って駆け出してしまってもう姿が見えない。指先で湿った花に触りながら、ねずこはまたトコトコ歩く。もうひとつの花は兄の分だから。

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