第三週「変わるもの」⑥
勝手知ったる竈門家の居間の縁側でぼんやり茶を啜っていると、浮かない顔で兄妹が戻ってきた。手招きをして、盆の上に用意していた湯呑二つに茶を注いでやる。兄妹と共に先程まで居た隣町は麓の町よりもやや大きく、茶葉を扱うような店もあった。労をねぎらうような茶がいいと店主に尋ね、勧められたままに買った茶葉からは花の香のような匂いが立つ。舶来の茶を真似て香りをつけたものらしい。
縁側に腰を下ろして両脇に座り、それぞれ湯呑を取った兄妹はしかし何も言わなかった。鼻が利く炭治郎でさえしゅんと項垂れて黙り込むだけだ。
「すみません、義勇さん……お役に立てませんでした……」
炭治郎の沈んだ声。寫眞を撮りたいという義勇の願いを聞いて、兄妹は共に寫眞館を探してくれていた。偶さか竈門家を訪れていた街住まいの善逸が聞いた噂話を頼りに隣町まで行ったはいいが、やっと辿り着いた寫眞館で門前払いを喰らってしまい、俺たちが何とかしますからと義勇は先に家路を辿らされていた。その言葉に素直に従ったのは、炭治郎は敢えて言明しなかったが、店主の敵意のようなものが義勇にだけ向けられていることを義勇も悟っていたからだ。
「あの、すごく良い方だったんです!でも……」
禰豆子が顔を上げ、義勇に縋るような目で言い募る。しかしそれきり言葉が止まってしまった。ここまで心を砕かせておいて、何もせず座っているだけというのも居心地が悪いものだ。ただでさえこの兄妹には毎日良くされている。
キイと、蝶番の付いた洋風の開き戸を引く。これも洋風の帳場机の上で寫眞を広げていた店主が顔を上げ、丸眼鏡を指で押し下げ顔をしかめた。
「懲りない方たちだ。街に出りゃあ寫眞館なんか山ほどありますよ」
「この辺ではここだけだと聞いた」
呆れたように大きなため息を吐き白髪交じりの頭を掻く男に憮然と答える。戸のすぐ傍に置かれた、細かな彫りの施された椅子のひとつに勝手に腰を下ろした。昼間のように出て行ってくれと素気無く声をかけられることを覚悟しての行動だったが、男は何も言わない。あれほど冷たく尖っていた気配が今、硝子窓から入る夕陽の橙色に暈けていることにやっと気が付いた。眉根を寄せて顔を上げると、男はまたこれ見よがしに大きなため息を吐く。
「さっきのは、あんまり無礼なふるまいだった。お詫びします、鬼狩り様」
義勇はこの店主に身の上話どころか名さえも明かしていない。その隙もなく店から追い出されたからだ。炭治郎たちは多弁だが、決して軽率ではない。義勇のことを──特にその過去について勝手にべらべらと話したとはとても思えない。
「……もう鬼狩りじゃない」
ともかく、訂正すべきところはひとまず正すことにする。もうこの世の鬼は全て滅んだ。それを狩る者たちも誰にも知られずに消え行くべきである。憤怒と憎悪を燃やし、己が身を人の限り限りで削りながら、地を這い泥を啜る者たちのその戦い様が、何も知らぬ人々の目に奇異と恐怖の念を抱かせることを経験的に知っている。
ふう、漏れた吐息に逸らしていた目を戻した。またため息が吐かれたのかと思えば、店主が浮かべていたのは苦い笑みだった。瞳には夕暮れと同じ優しい光が宿っている。
「では、お名前をお伺いしましょう。台帳にお客様の名前を書かなくちゃいけませんから」
あまりにも劇的な心変わりに顔をしかめてその顔を凝視するしかない。しかし男は、それ以上何か親切に言葉を続けるつもりはないようだ。台帳をぺらぺら捲って、万年筆の蓋をくるくる回して外す。
「……冨岡義勇」
「富、岡、様と。この度はどういった寫眞を?」
あんなにも落胆していた兄妹の姿は一体何だったのか。拍子抜けして固まってしまったが、あまり呆けて気が変わられても困る。目を伏せ、あの二人の寫眞をと告げた。
『いつかは禰豆子もここを出て、離れ離れになることは考えてましたよ。それは俺の願いでもありますから』
突如訪れ、ひとしきり騒ぎ、禰豆子を町へと誘い出し──相も変わらず騒がしい善逸と、それに手を引かれる禰豆子の背を見て炭治郎はポツリと言ったのだ。
『それでもずっと、いました。どんなに苦しい時もいつも傍に』
声も笑みもいつも妹を見つめる時と変わらず優しく、慈しみに満ちている。しかしその瞳の赫にこの男らしからぬ寂しさのような、虚しさのような空洞を見つけた気がして、義勇は思わず眉根を寄せてしまった。そんな義勇の匂いをまた、いつものように「鼻」聡く嗅ぎつけたのだろうか、表情がすぐに愉快げな笑みにくしゃりと崩れて顔が上がった。
『でももう禰豆子も、十六ですからねえ』
一度だけ、禰豆子から文をもらったことがある。活気に満ちた兄の字とは全く違った、ほっそりした柔らかい字で、義勇への感謝や近況を問う文言が綴られていた。字は違っても書きぶりは似るのだなと読み進めて──終わりのあたりで目が止まってしまった。その一文から目が離せない。不思議だった。その心細そうな細い字から、芯のある太い字の奔流が生まれて義勇の脳裏を駆け去っていく。
兄が、心配です。
炭治郎からは何通も文をもらっていた。この一年とは言わず、柱合会議で禰豆子の存在が認められるようになった後あたりから折に触れ私信が届いた。義勇はそれをただ目で追って頭に入れていた。それは実のところ「読む」という行為ではなかったのかもしれない。だが、禰豆子の一文に触れた時、その一通一通が確たる文字になり、鮮やかな絵になり、豊かな記憶になって義勇を過ぎ去って、気づけば文机の前で一日が終わっていた。
その翌日、義勇は住まいにしていた屋敷を人に譲る算段を始めたのだ。
「悪くないと思った」
口が勝手に開いて言葉を落とした。店主が怪訝そうに首を傾げている気配がする。言葉が足りていない、よく指摘された記憶がふっとよぎって、伏せていた目を上げた。
「何かが、残るのも」
こんな言葉くらいでは何も伝わらないだろう。それぐらいは義勇にも分かっている。その心根の優しさで義勇の未熟を許し、義勇の言葉の裏を知ろうと試みるあの兄妹が風変りなだけだ。それでも義勇は今、この男に己の行動の目的をなんとか伝えることを諦められないでいる。少しでも理解されて、この願いを聞き入れて欲しいという気持ちが放棄できない。
ひたと睨むように男の顔を見つめる義勇を店主もまたしばらく見つめていた。表情の消えていた思案顔がふっとまた緩む。どこか呆れたようにも見える笑みで、手元にある紙を手に取った。どうやらそれは寫眞のようだった。
「倅が死んだ時はこの世の何もかもが憎かった」
囁く声は穏やかな調子だが、目には今まで何度も見てきた暗い色がある。隊の中でも、外でも、鬼に人生を踏み荒らされた者が皆抱える空洞だった。
「鬼狩り様さえも。何故あと一日、いや半刻でも良かった。早く来てくださらなかったのかと思いました。倅を助けてくれりゃあ良かった。何故私を助けたのか。何も言わず立ち去った、」
男が言葉を切る。単に言葉を続けるのに躊躇ったのかもしれないが、沈黙が義勇の想像を試しているようにも思える。
「……貴方を、化け物と同じように心の中で何度も責め詰った」
こなした任務は数知れない。そこで関わった人々の顔は記憶に留めないようにしていた。抱えればその重さに足が止まる。前へ進めなくなり後ろを振り返ってしまう。思い出したくない記憶と後悔に苛まれて刀を取り落とす。そんな己の気質を分かっていたからだ。戦うことを体のいい建前にしていた。
「やがて疲れて、いつからかそれも──倅のことを考えることさえやめてしまいましたが」
男は苦笑を浮かべて帳場台の前から義勇の元に歩み寄った。寫眞を目前に差しだしてくる。何でもしますからと言い張って店の倉庫の片づけを強引に始めた兄妹が見つけてきたものらしい。
「あの二人は気持ちのいい、心の優しい若者ですね」
寫眞には義勇の座る椅子に腰掛ける母娘らしき女二人と、母の椅子の背もたれに手をかけて立つ優しげな面差しの青年が笑顔で映っている。見上げた店主の顔立ちと表情によく似ていた。
「ぜひ寫眞を撮らせてください。お代は結構です。うちの家紋にも藤を入れてありますから」
申し出に顔を思い切りしかめてしまう。寫眞館で撮る大判の寫眞は決して安いものではない。それなりの手間と資材が必要なものだからだろう。
「俺はもう鬼狩りじゃないと言った」
言えば、ふっと男がまた息を漏らして呆れたように笑った。
「でも、感謝に終わりは無いもんでしょう。貴方がいなきゃあ、孫も抱けなかった」
それに私があの二人をぜひとも撮りたいんです、貴方と同じように。そう続けられると口下手な義勇にやり返す術など残っていなかった。
「義勇さん」
再び訪れた寫眞館の座敷で、店主の娘の持つ着物を借りて身に纏った禰豆子が珍しく照れた様子でもじもじと義勇の右袖を引いた。手持無沙汰に店主のこれまで撮った寫眞を眺めていた義勇が顔を上げても、なかなか言葉を切り出さない。いつもの麻の葉柄の着物に華やかな柄の羽織や襦袢、帯を巻いている。髪もいつものように結いあげるのではなく、背に流すようにして結われていた。
「何だ」
「あの、何か変じゃありませんか」
「いや」
何故義勇にわざわざ聞くのだろうか。妙なところがあれば着付けを手伝った娘が直しているはずだ。身なりに気を遣う姉が居たには居たが、幼い頃の記憶なので女の着飾りにどんな作法があったかなんて覚えていない。
「義勇さん!」
怪訝を隠さずにいると、奥の部屋から炭治郎も飛び出してきた。こちらは洋装だ。シャツに胴着と襟締めがつき、パナマ帽を片手に抱えている。いつもは布を巻いている右目は黒い眼帯に変わっていた。後から続いて出てきた店主と娘がくすくす笑っている。
「俺は!?俺はどうでしょうか!?」
「いつも通りだと思うが……」
いつも通り、義勇の言葉を繰り返した炭治郎は何とも言えない微妙な表情を浮かべた。すんすん鼻を鳴らすので怪訝な表情を深めてわずかに身を引く。
「いやだお客さん、だめですよちゃんと、綺麗だ立派だって褒めてあげなきゃあ」
店主と違って顔立ちの華やかな娘が、しかし店主とよく似た目を細める笑みを浮かべた。その足には少年がしがみつき、目だけを輝かせて炭治郎と禰豆子を交互に見ている。その心境が義勇には理解できる気がした。
「元より美しく立派だから飾っても変わらない」
しん、と一瞬静かになった場にいよいよ顔をしかめる。黙れば言葉が足りないと言われ話せば余計なことをと怒らせ、本当に人と話すのは面倒が多い。
「ええっと、じゃあお客さんの番ですね」
ぱしん、と店主の娘が両手の平を打ち付けたので義勇は思わず驚きに背筋を伸ばした。一体何を言っているのか咄嗟に呑み込めない。
「いや、俺はいい」
「義勇さん、きっと何でも似合うから逆に難しいですねえ」
「おい」
「義勇さん見てくださいこれ!絶対に義勇さんに似合いますよ!」
「だから」
義勇の見ていた寫眞を覗き込んで服装を見ているらしい禰豆子も、奥の部屋から丈の高い絹帽を持ち出してくる炭治郎も義勇の言葉をまるで聞く様子がない。炭治郎、禰豆子、名前を呼んでひとまず注意を引く。俺はいい、と繰り返したが兄妹全く同じ様子で頬を膨らませられた。
「だめです!」
「一緒に写りますからね!絶対!」
「……俺は家族寫眞のつもりで連れてきたんだが」
何か形があることは、炭治郎にとってきっと意味があることだろうと思い立っただけだ。何でも後生大事にできる男だ。義勇とは違って。
「だったら尚更入らなきゃ、義勇さん」
私たち同じ釜のごはん食べてますし、と禰豆子がしたり顔で言い、炭治郎がそうだ、そうですよとここぞとばかりに満面の笑みで手を打つ。そんなことを言ったらどれだけの人間がこの兄妹と家族になってしまうのかと思ったが、結局は押し切られて椅子に座り、兄妹に両脇から挟まれて寫眞の四角い枠内に納まることになってしまったのだった。