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ワン・アンド・オンリー・ユー



「お兄ちゃん!」

 フクが持ってきてくれた布団を敷いてやっていると、夕香が部屋のドアを開けた。今日はいつもより少し夜更かしをしたから、まぶたが随分重そうだ。ドアの向こうにそんな夕香に苦笑するフクも見える。

「ああ、おやすみ」
「おやすみ!夕香ちゃん!」
「うん、おやすみなさい……また明日ねっ、絶対夕香が知らないうちにいってらっしゃいしないでね!」
「じゃあ早く寝て早く起きないといけませんね。おふたりとも、おやすみなさい」

 円堂と二人で挨拶を返すと、フクが名残惜しげな夕香を連れてドアを離れていく。ドアがひとりでにパタリと閉まった。ベッドに腰掛けると、円堂は感心した様子で枕をポンポンと叩いている。

「寝れそうか?」
「うん、ふかふかだ!ありがとな」

 豪炎寺はベッドに座り、円堂は布団の上で胡坐を掻いて、上下で視線の橋を作る。世界に向けての意気込みやチームメイトの話をいくつか経て、やがて会話が途切れたところで、もう寝てしまうことにした。明日も練習だ。
電気を消して、布団に潜り込む。いつもは一人の部屋なのに、もぞもぞと自分以外の布団の音が聞こえるのは、変な感じがした。
 目を閉じる。だが眠気はなかなか訪れない。寝返りを打った。暗闇の中では、円堂が寝ている布団もぼんやりとしか見えない。

「……円堂」
「ん?」
「起こしたか?」
「いや、起きてた」

 やっぱり人んちって緊張するよな、円堂がいつもの調子で笑ったのが分かる。見えなくても、頭の中に勝手に浮かぶのだ。円堂、もう一度名前を呼ぶ。

「ん?」
「お前……前にも親父に会ったことあるのか」
「あ……あるだろ。ほら、韓国戦終わって……」
「本当に、それだけか?」

 円堂は黙り込んでしまった。豪炎寺も本当は聞くのをためらったのだ。だが父親の言葉がどうも引っかかっている。その後の円堂の反応も。随分沈黙が長いので、寝たかと聞くと、ううんと返ってくる。答えづらいなら寝たふりをしてもよかったのに。

「それにお前……ほんとは、ケンカなんてしてないんだろ」
「えっ……!」
「……お前の母さんが心配してると思って、勝手に電話した」
「ああ……うん、そっか……」
「悪い」

 円堂が慌てていや、と声を上げた。手を上げて大げさに動かしているのもぼんやり分かる。嘘ついたのオレだし、普通こんなことしたら心配するよな、こっちこそごめんと早口で言い募られた。だがやっぱり、どうして嘘をついたのかの説明は無いのだ。

「……円堂」
「嘘、つくつもりじゃなかったんだ……。でもこれ……どうしたって嘘だよな」
「円堂」

 そうじゃない。そういう言葉が聞きたいわけじゃないのだ。そう思って名前を呼んで、円堂もそれが分かっているだろうに何も言わない。ただ静かに、今日のお前の家はにぎやかだな、と呟くだけだ。それを円堂が言うとちぐはぐに感じる。だってそれは円堂が居るからだろう。

「なあ」
「うん」
「そっち、行っていいか」

 一瞬意味が分からなかった。円堂が起き上がる気配がして、返事を待たずにベッドに腰掛けたので、その振動で初めて言いたいことを理解する。夕香とも最近は一緒に寝たりしないのに、同い年の友人とひとつのベッドで寝るのは少し恥ずかしい気もした。だが円堂なら別に構わない気もする。腕を上げて、掛け布団の口を広げた。

「ほら」
「うん」

 円堂は少しだけ、豪炎寺より体温が高い気がする。人の体温だからそう思うのだろうか。こんなに近くに他人が居たまま眠るのは久々で、どっちが正しいのか分からない。円堂がごそごそと動いている。やはり寝づらいのかと思えば、顔中がその温かさに埋もれた。驚いて身を固くする。

「円堂……っ?」
「……嫌か?」
「お前、どうしたんだ?」
「前、お前もこうしただろ。雨の日」

 覚えていたのか。もうとっくに忘れ去られていると思った。敢えて触れないで放っておいたところを突かれて、急に頬のあたりが熱くなる。暗い部屋の中で良かった。

「忘れるわけないよ。忘れられなくて、来たんだ、ここまで」

 その日は一日、誰も居ない日だった。寂しいと思うような歳でもないが、静かで広々とした新しい家に一人でじっとしている気にはならなくて、傘を片手に街を歩いていたのだ。
静かな家の、静かな玄関に、静かでない円堂が立っていた。それがどうしてか苦しかった。だから抱き締めたのだ。それでどうなるかなんて分かりはしなかったけれど、抱き締めたって益々苦しくて、辛いことだけは確かだった。だから次の日からは忘れたフリをしていた。

「……何でだろう」
「何でだろうな、ほんとに」

 ぎゅっと、お互いの腕に力を込めたが、どちらのともつかない心臓の音が早くなるだけで、それ以上のことはまるで分からなかった。

 分からないのに、離れられないままだった。

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