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You Only Live Once



 最初に感じたのは衝撃だった。頭から歯の裏のあたりまで不快に響く。視界が白くぼやけて足元がぐらついた。体が支えていられないのだ。鋭い痛みが数秒遅れて頭から爪先までを貫き、意識が大きく傾き、吐き気がせり上がってきて気持ちが悪い。ひどい耳鳴りのせいで間近で叫ぶ声が何を言っているのかうまく掴むことができない。やばいな、これ。今にもかき消えそうな思考が薄くそれだけを悟る。激しい反作用の後で何度か似たような感覚になったことがあるので、この後自分がどうなってしまうのか簡単に理解できた。何もかも分からなくなる前にこれだけは絶対にということがあったはず。そうだ、今、この腕を離さないと。

「逃げ、ろ……」

 じゃないと庇った意味がない。なんとか腕を前へ突き出すと、視界にどろりと赤黒い闇が下りてくる。体から力が抜けたが、倒れ込む前に何かにぶつかった。まさか支えられているのだろうか。そうじゃない。逃げないとだめだろ。

「な、ゆ……」

 口すらうまく回らなくなってしまった。血の気と一緒に意識が抗えない力で引いていく。それを押し留める力が少しも入らない。不快な耳鳴りに吐き気を搔き乱されながら思考が急激に剥ぎ取られ、暗闇の中に意識が放り込まれた。

 何かを考えようとして失敗した泡沫をいくつも纏いながらゆっくり沈んでいく。

 それが危険なほど心地良いので、アレンは次第に藻掻くことをやめてしまった。
 暗闇の重みにされるがまま意識をより深くへ沈めていく。

 そう言えばこういう時って走馬灯が見えるっていうけど、意外とそんなことないな。

 その時はそんなこと考えてもいなかったけど、やっぱり今思うと結構長い間退屈だった気がする。いや、今が毎日、どころか毎分毎秒、刺激的すぎるだけか。あいつらの顔ばっかり浮かぶから、俺の走馬灯ってまだまだ短いな。今もついさっきのことなんか思い出してるし。

 大体、最近は「あいつら」の内一人が毎日を搔き乱し過ぎてる。元々、そうやって人をおちょくって楽しむとんでもない奴だって知ってはいたけど。最近はますますひどい。

 今朝だってそうだ。

「うわっ」

 目を開けて一発目に見たのがベッドに肘をついてつまらなそうにアレンを覗き込む顔のズームだったせいで、思いっきり頭をベッドボードにぶつけた。寝ぼけたまま起こされる声から逃げている内に変な体勢になっていたのだろう。今日って頭に災難が集まり過ぎだろ。リリックとかメロディーとか飛んだらどうしよう。

「った……!」
「大げさですねえ」

 誰のせいか分かってるくせにこの声だからタチが悪い。頭を擦りつつ目を上げれば、アレンが一人でバカやってるのを呆れて見下ろすいつもの澄まし顔だ。思わず顔をしかめるが、もちろんそんなことくらいで夏準の余裕が崩れるわけもない。むしろ、カラーグラスの向こうの瞳が嬉しそうに細くなる。いつもなら「まあ夏準だし……」で諦めて終わるが、つい先日落とされた爆弾の衝撃から全然立ち直れていないアレンは、返す言葉どころか表情すら決めきれない。口元を引き結んで恨みがましく後頭部を擦っていると、長い指が伸びてきて思わずギクリと硬直する。ふ、と鼻で情けない動揺を笑われた。

「そんなに慌てなくても取って食べたりしませんよ?」
「おい」

 ぎゅっと鼻をつままれて変な声になる。その優しい力加減がむずがゆい。反射で上げた腕で指を手ごと掴んで遠ざければ、そのまま手が裏返って握り返された。からかわれていると分かっているのに律儀に動揺している自分に自分で呆れる。

「間抜けな寝顔を眺めているのが面白かっただけです」
「間抜けって……」
「嘘をついてもしょうがないでしょう?」

 ベッドの脇にしゃがみ込んでいた夏準が立ち上がり、握ったアレンの手をぐっと引いた。渋々体を起こす。時間に追われている朝は声をかけるだけで後は簡単に見捨てられるが、ここ数日夏準はずっと機嫌が良い。鼻歌でも漏らしそうな笑みを傾けてアレンを覗き込む。

「本心ですから、全部」

 やっぱり返す言葉も表情も決めきれないことが、至近距離で見つめている夏準には簡単に分かってしまうだろう。文字通り手に取るように。アレンの手をぎゅっと握り込むので意識がついそちらに向いた隙をやられた。額に柔らかい感触が付いて、すぐに離れる。

「やっぱり間抜けな顔」

 く、と喉を慣らして笑われる。怒らなきゃ、頭では分かっているのに、その表情に意地の悪さより無邪気さを感じて、ますますどうすればいいか分からなくなる。言葉にもならない唸り声を漏らして額を擦ると、クスクス笑いながら夏準は部屋を出ていく。

「先に食べていますよ。二度寝しないように」

 パタリ、と閉じたドアをじっとり睨みつける。悔しいことに二度寝できる眠気なんかひとかけらも残っていない。

 元々何考えてるか分かりにくいやつではあると思う。けれど、Paradox Liveのステージを経ていく中でアレンには次第に揺るがない自信が築き上げられた。肩を並べてステージに立ったり、暮らしていったりする中で、夏準が何を大事にしていて、何を表現したいかを今この世界で誰よりも体の奥底から理解している。逆にそれ以外の大抵のことは別に分かっていなくたっていいのだ。それがアレンと夏準の間にある信頼なのだから──と、思っていた。つい数日前までは。

「ひとつ、いいですか」

 その日の夏準もやたらに機嫌が良かった。ダイニングテーブルの上に並ぶ品数から言ってもそれは明らかだった。まるでカフェで出てくるランチのように、参鶏湯を中心に色鮮やかな小鉢がいくつも並んでいる。写真を撮る手が止まらないアンと楽しげに盛り上がっていた内容からすると、薬膳料理のアレンジだとかどうとか。何が出てきても不味いわけはないのだし、一皿に盛られているほうが食べるのが楽でいいが、そんなこと口に出した日にはどうなるか想像もできないので実行したことはない。

「なに?」
「どうしたんだ?」
「一応、言っておいたほうがいいかと思いまして」

 これまたサービスよく注がれたコーン茶のグラスを受け取り、香ばしくて甘い匂いの向こうにある笑顔をなんとなく眺める。そう言えばこの時も、ふっと目が愉快そうに細くなった。隣に座るアンとちらりと視線を交わし、お互いに心当たりがないことを確認し合う。 

「ステージも終わって少し落ち着いてきたでしょう」
「まあ……そうだね。でも、まだ余韻の中にいる感じ」
「そうだよな。最高すぎて、まだ耳の中にステージで聞いた音が響いてる感じがする」
「ええ。今はその余韻に浸ってもいい時間だと思います」

 珍しく夏準の言葉が優しく響くのは、夏準もその余韻を楽しみたいからに決まっている。曲にヘッズを引き込んだ手応えが確かにあった。フックを前に誰も彼も息を呑み期待に息を潜ませ、三人の歌声に導かれて爆発する。その心の揺れが一つの大きなうねりになり、ステージ全体を震わせていた。

「それで?」

 うっかりするとまたあのステージの上に戻りそうになる意識が、アンの言葉でなんとか戻ってくる。互いに似たような状態なのが分かるので、三人して苦笑を突き合わせてしまう。

「そんな時間の中にあるなら……多少のことが起こっても、活動には影響が出ないと思うんです」

 にっこり。擬態語まで聞こえてきそうな完璧な笑み。アレンは再び隣に視線を送った。アンもアレンの肩に手を置いて体を傾けてくる。

「なんか雲行き怪しくない?」
「何が起こるんだよ……」

 機嫌の良さから言って、以前のような不調だったりしないとは信じたいが。夏準が上機嫌になるような夏準にとって楽しいイベント、が必ずしもアレンにとっても楽しいものであるかは正直怪しい。人が見せたくない姿を見に、大学生には敷居が高い店までわざわざ押しかけてくるような男だ。

「アレン」
「うわっ、はい」

 身構えていたせいで思わず丁寧に返事してしまった。やっぱり俺なのか。隣でアンが薄情にも安堵のため息を吐いている。が、すぐにその息はまた勢いよく吸われることになった。

「ボクはアナタが好きです」

 アイスティーポットに手を添えたまま、余裕に飾られた夏準らしい笑みをひとつも崩さず、何に気負いもなくさらっと吐かれた言葉をアレンは反射で受け止めた。が、それを咄嗟にどう投げ返していいのか分からない。ぽかんと口が開いた。

「アナタの持つ音楽もリリックはもちろん。音楽以外は頼りないところも多いですが……まあ、しょうがないと思っています。それも、アレンですから」
「な……んだよ急に、改まって……」

 普段は皮肉しか聞いていないので、こう面と向かって褒められると気恥ずかしいし、この後よっぽどのことが来るのではと恐ろしくなる。あまりに唐突なので、さっき否定した夏準の身に何か良くないことがまた起きた可能性が蘇って心配にもなった。ただ、夏準はアレンの楽曲に対しては素直に評価してくれることが多いのだ。よく考えたら楽曲しか褒めてないな、そこに気づいてようやく受け身を取れた。照れは消せないのでなんとなく頬のあたりを指で擦りつつ緩んだ口元をごまかす。

「俺も夏準のこと好きだよ。お前のフロウは本当に……」
「アレン」

 やっぱり笑顔。けれど、名前ひとつで夏準の言葉を正しく理解できていないことを咎められている。素直に口を閉ざしてしまったアレンを、夏準はまた愉快そうに笑う。その細くなる目の色を何故だか直視できない。気まずい。

 なんだよ、ぶっきらぼうな呟きに、夏準はコンコンと軽くダイニングテーブルを二回叩いた。

「せっかくなのでこの時間、hitting onに使おうと思っています」

 自分の耳をまず疑ったので、最初はきっと夏準が韓国語を使ったのだろうと思った。本当に何なんだよさっきから全部急だな。いきなり知らない言葉使われても分かんないって。そう返すつもりだった口が開かないのは、聞き取れた単語が綺麗に前後の文脈と一致するからだ。アレンが何の反応も見せないことを夏準は気にした様子もない。日本語だと口説く、ですかね? でも最近のメディアであまり聞きませんよね? 雑談する気軽さでアレンを追い詰めている。

「そういうことなので、アン」
「うえっ、はい」
「ちょっと騒がしくなるかもしれません」
「あー……うん。ご丁寧に、ども……」

 アレンと一緒になってぽかんと口を開けていたアンが姿勢を正した。ちらちらアイコンタクトを送ってくるが、今は気まず過ぎてそれすらうまく受け取れない。何を考えて突然そんなことを。今は余裕があるからアレンで新しい遊びを始めたのだろうか。やっぱり多少は分かってないとダメだな。今更だけど。

 混乱から抜け出せないアレンとアンをたっぷり眺め、夏準はマイペースに箸を取り上げた。食べないんですか? 笑顔を傾けられ、二人して油切れのロボットみたいに動き出す。いただきます、ようやく言葉を発したアレンに夏準はやっぱり笑顔だ。

「ボクから逃げられたらいいですね?」

 いつもとは意地の悪さと無邪気さの配合比率が真逆の顔をまた思い出してしまった。なんだかそんな顔をここ数日で山ほど見ていて、だからアレンは何も言えないし何もできない。夏準が発見したらしい新たなからかい方をどうかわせばいいか全く分からない上に、アレンはその表情が嫌いになれないのだ。

「あっは、Morning, sleepyhead! どう? もう夏準に落とされた~?」
「順応早すぎるだろ……」
「だって面白いじゃん」

 ここ数日頭の中で何度もリフレインする記憶を振り払えず、のたのた這い出たリビングでアンを恨めしく見つめる。今日も夏準の機嫌は絶好調のようだ。プレートには小さなパンケーキが乗っていて、シロップの甘い匂いがする。きっと当事者ではないアンにしてみれば、毎食が豪華になるだけの楽しいイベントなのだろう。唸りつつダイニングテーブルに座ると夏準が近づいてくる。思わず身構えたところにコーヒーが差し出された。

「どうぞ?」
「あ、ああ、ありがと……」

 朝陽に白く照らされた笑みに気後れしつつそれを受け取る。夏準の笑みに呆れの色が滲むのが分かった。やれやれ、とアンの背後からその両肩へ両手を置く。

「なかなか難しいですね。ボクなら……もっと簡単かと思っていましたが」
「そりゃーそうだよね、完全無敵の韓流王子サマだもんねー」
「ええ。アンなら……落ちてくれますかね?」
「もーやめてよ、早速浮気~!?」

 アンの体を傾け、覆いかぶさるようにして顔を覗き込もうとしているので、アンがケラケラ笑っている。こうして見ているとやっぱりいつもより少し過剰にからかってじゃれついているようにしか見えない。夏準に傾けられたまま、アンが「あー」と納得の声を上げた。

「そっか、でもそうだよねえ。僕たち三人ずっと一緒に居るし、いきなりは難しいかあ」
「そういうことです。でしょう?」

 夏準の目がこちらへ向いて、また言葉を無様に剥ぎ取られる。その目の色があまりに穏やかで、目が合うとどうしても「本心」を疑えなくなってしまう。

「……なんて答えたらいいんだよ」

 早々に白旗を掲げるアレンを、アンを味方に付けた夏準は二人して楽しそうに笑ってくる。孤立無援のアレンが不貞腐れた顔で頬杖を付いてようやく、夏準はその笑みを弱火にした。

「アレンのせいばかりでもないですよ。こればかりは、ボクにしても難しい問題ということです」

 ちらり、アンが聞き返す代わりに夏準を見上げる。それを夏準は苦笑で見下ろし、その視線をアレンに戻した。

「初めてですから」

 んぐ、呼吸が喉の奥で潰れて間抜けな音になる。

 ド、と大きな音が続いて何かと思えば、一瞬止まっていた鼓動が走り出した音らしい。外にまで漏れていたんじゃないかと不安になるくらい大きい。そのビートに突き動かされるようにして、アレンは跳ねるように立ち上がった。

「アレン?」
「用事思い出した」
「よ、用事? バイト?」
「用事」

 有無を言わせず私室に転がり込んだ。適当に服を引き寄せて着替え、スマホと鍵だけ存在を確かめて、リビングを走り抜ける。さすがに目を瞬かせている夏準とアンとなるべく目線を合わせないことに苦心した。

「なんなんだ……」

 新しい遊びにしては性質が悪すぎるだろ。三歩に一歩のペースで同じ呟きを繰り返しつつ、ふらふら頭を抱えて歩いていた。振り返ってみるとやっぱり、朝から災難が頭に詰まっている。

「あれ? お前」

 ふと、聞き慣れた気だるげな声を耳が拾って足を止めた。そこで初めて周囲の景色が頭に入ってくる。スラムにほど近い寂れた街並み、埃っぽくて整備されていない道。愛着あるレコード店の看板の下、目を丸めているのはハットを被った那由汰だ。

「ナユタ」
「またかよ。ほんとに常連なんだな」
「ああ、時間空くとつい来ちゃうんだ」

 行く当てもなく彷徨っている内に体が勝手にいつものレールに乗り上げていたらしい。ということはもう2、30分は「なんなんだ」をひたすら繰り返していたことになるのか。擦れ違う人の視線をやたら感じると思った。

「ナユタも?」
「ま、それもあるけど。俺は待ち合わせ」
「カナタと?」
「わざわざ珂波汰と待ち合わせなんてしねーよ。四季だよ、四季」
「そっか……楽しそうだな」

 これまでの付き合いで那由汰と四季に交流があることは知っている。その何の気兼ねも無さそうな関係がなんだか妙に恋しい。アレンたちも本来はそういう関係のはずなのに。ちょっと妙なことになってしまった。

「気持ち悪」
「え?」
「いつもみたいにHIPHOPバカでーすって顔してないからだろ」

 突然罵られて面食らってしまったが、那由汰は店のウインドウに寄りかかったまま冷めた目を送ってくるだけだ。

「何があったかとか聞かねーぞ。メンドクセー」
「ああ。聞かれても多分……うまく説明できない、かな」

 珂波汰と二人、唯一無二の世界を作り上げている那由汰にまで悟られるくらい顔に出ているのか。アレンは自分の両頬を手でぱちりと挟んだ。那由汰のおかげで少し冷静になれた気がする。夏準は「本心」だと言った。それならアレンも自分の本心を見つけないと、このまま永遠に夏準の玩具になって終わりそうだ。それだけならいいが、いやよくはないが、でもそれで傷つくのは多分アレンではなく夏準という予感がしている。

「四季来るまでヒマだから、なんか話してろよ」

 思考に沈みかけた意識をまた那由汰の気だるげな声が引き留めた。長い袖から出た指でつまらなそうにハットのつばをいじっている。

「どーせ適当に聞いてっから、HIPHOPの話でもいいし……そうじゃなくてもいいし」

 「なんだよ」、照れを傍若無人に押し隠すしかめ面に思わず笑ってしまった。いつもリリックに深く刻まれる熱に少しだけ触れている気がする。何もかも話せる気はしないが、少しくらいなら。ステージの上で同じ音を、バイブスを分かち合った相手にはやっぱり心が解れる。友達の友達って感じならうまい具合に話せるんじゃないか──口を開こうとして、ふとこちらに向かって歩いてくる男の姿が目に止まった。一見ただの通行人にしか見えなかったのに、何故そこで気づけたのか今になっても分からない。だが、何かが妙だと思った。

「ナユタ、」

 その腕を掴んで後ろに下がらせると、こちらを気にしている素振りも無かった男の顔が笑みで歪んだ。背に隠れていた腕が前に出てきて鉄パイプが握られていたことを見せつけられる。逃げようとバックステップを踏んだが、それより男の勢いの方が早かった。振り上げられる鉄パイプから那由汰を庇うために前へ出た。そして鋭い衝撃。後から痛みと耳鳴り。

「おい! クッソ! しっかりしろ! なんだテメーら!!」

 那由汰はあの後きちんと逃げられただろうか。ここのところ本当にツいていない。滅多に感じることのない痛みや衝撃をうまいことリリックやトラックに落とし込めなければ元が取れない。次はどんな曲にしようか。曲でなら夏準の「本心」に触れられるだろうか。だったらいいなと思う。翻弄されるだけじゃなくて、ちゃんと、夏準にとっても難しい、初めての何かに触りたい。

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