最初の一段を踏み出した時、足の裏に鋭い痛みが走って悲鳴を飲み込んだ。二人に心配をかけたくなかったからだが、ぎゅっと両手を握り込んでしまったせいで異変を悟らせてしまった。驚いて振り返る二人になんでもないと首を振る。
「本当に?」
「もう隠しごとはナシだぞ」
「大丈夫、行こう」
「でも……」
「離さないでくれたら、それで大丈夫だから」
二人はどう見ても納得していなかったが、こちらの言葉を聞くと渋々頷いてくれた。両手が握り直されて安心する。二人の力に引っ張られてもう一段更に踏み出した。また鋭い痛み。けれどそれを堪えながら足を踏み出す。両手の温もりだけに意識を注ごうと努力する。
一段、一段、踏み出すごとに、誰からも関心を持たれない灰色の毎日がまざまざと蘇って足の裏を鋭く刺した。関心を取り戻そうとして必死に何かに取り組んだり、全てを無駄と悟って無気力に陥ったり、つまらない人間の羨望や嫉妬や軽蔑や裏切りをまともに受け止めて傷ついたり。何の価値もない、けれど当時の自分にとっては命がけだった、魂をかけた足掻きだ。痛みの連続に足の間隔が麻痺してきた頃、何か暖かいものを踏む。糸が切れた凧のようにフラフラと辿り着いた市場の見知らぬ人々の活気と親切が心を休ませもし、また寂しくもさせた。次の一段を踏む時に感じる痛みは一際強くなる。
何百段、苦しい階段を超えただろうか。気づけば前を行く二人の背が大きい。足の裏に触れるのは氷のような冷たさだけで、耐えられないほどの痛みは次第に感じなくなっていた。とうとう異国の地を踏んだ時の、絶望と安堵がない交ぜになった気持ち。目に映る全ての物を馬鹿にしながら息を吸って吐くだけの毎日。
──でもお前にはいつか、分かられたいな。一番最初に。
唐突に頭の中で蘇る誰かの声に足を止めてしまった。見慣れた顔がまたすぐに振り返ってくる。
「大丈夫?」
「疲れたか?」
いえ、と先ほどと同じように無理やり前に進もうとした。けれど振り返った「今」より少し幼い顔をしたツンツン頭を見て言葉が出なくなった。
リビングをベッド代わりに提供したのはたった一日のことだ。HIPHOPを家賃にしたルームメイトのために翌日にはベッドが運び込まれ、テキパキと設置する業者の背を二人して妙な顔で眺めていた。そんなくだらないことを何故だか思い出している。
正直に言うと、冷めきった目で見ていた人生にもう一人の人生が隣り合うことは大抵のことが「異物」だった。喉や腹にどうも引っかかる何か。その居心地の悪さに最初は自分の提案を後悔したくらいだ。
人間関係に不器用なくせに、いや不器用だからこそなのか、コミュニケーションは大抵リリックの上で行われた気がする。相手を圧倒するために胸の内に秘めたものを拙く取り出す必要があった。最初こそ痛みや苦しみを伴っていたはずの作業にあっという間にのめり込むようになっていた。間違いなくHIPHOPバカの熱量に当てられたせいだ。
アナタはよく分からない人ですね。
スクールの教室から追い出された廊下。不健康な色をした電灯の光の下で、ワインレッドの瞳は出会った頃と比べ物にならない光を放っていた。そうだろ? どこか自慢げに返されて面喰らう。
俺にもまだ分からない。俺って何になれるんだろうな。
そして当然のように夏準を瞳の中に収めて、恥ずかしげもなく、未来を疑うことなく言った言葉が妙な日本語「分かられたい」、だ。
「アレン」
思わず名前を呼んでいた。素手だったはずの手に革の感触がある。視線の先にある顔からも幼さが抜け、少し気を抜くと不機嫌にさえ見えるほど輪郭の鋭さが増している。けれど夏準を一歩先で待つその目はどこまでも優しい色だ。
「ん?」
なるほど、と思った。急流のような日々の中、夏準はこれを取り落としていて、そして再び拾い上げたいとずっと思っていたのだ。言葉を返す代わりに手を握ると同じくらいの力で握り返される。
「妬けちゃうねえ? やっぱり」
ふふふ、と軽やかな笑みに目をやれば、色鮮やかな長髪に戻ったアンがいたずらっぽく笑って夏準の手を引き寄せている。それに苦笑を返して一歩を踏み出した。肩が並ぶ。
分かりたいと思う。そしてアレンが自分の中でどれほどを占めている無法者かを分からせてやりたいと思った。もう一度人生というステージに戻るなら、絶対にそうしないと気が済まない。