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You Only Live Once



 最後に残ったのは感情だった。

 糸のように細く、限界まで引き延ばした人間としての機能がぷつぷつ途切れていく感覚があった。まずは音。水の中に放り込まれたかのように濁った。次は視界。ステージの上を照らすライトと二人の幻影が混ざり合い、白飛びし、ついには判別がつかなくなった。次に呼吸、そして感覚。どうやって自分の体に息を吹き込んでいたのか、支えていたのか突然分からなくなり体に力が入らない。何の音も色も無い闇に呑まれ、さらわれるその一瞬、たったひとつ残っていたのが感情だ。

 あと数分でいいのに。

 自分の内から生まれたはずの言葉が何故だか何よりも重い。ずしりと胸の上にのしかかり、足掻くこともできない体がただただ無に呑まれて沈んでいく。あと数分で良かった。そうすれば多分、何か、意味や価値が生まれたはず。他の誰かがいとも容易く放り捨てても、自分で自分をようやく認められそうだった。ステージを下りた二人の顔を見たらきっと、そう思えていたはずだ。今二人は、思い描いていたのとは全く違う表情を浮かべているだろう。驚きや心配だろうか。それとも失望だろうか。そんなはずじゃなかった。あと数分あれば。こんなところで。こんな終わりで。もう二度と。

 ふと目が開いた。さっきまで息を吸うのも吐くのも苦しかったはずなのに、なんだかとても体が軽い。うっかりするとそのまま地面から足の裏が浮き上がってしまいそうだ。地面? ここはどこなんだろう? うつむく目の先に手がある。しかも、右手も左手もそれぞれしっかり別の手に握られている。おそるおそる顔を上げると、四つの大きな目がこちらを不思議そうに覗き込んでいた。

「どうしたの?」
「大丈夫か?」

 柔らかそうな栗色の髪の少年と赤毛をツンツン跳ねさせた少年が心配そうに声をかけてくる。両手はそれぞれ二人の少し湿った温かい手に繋がっていた。そういえば、そうか。二人に引っ張られてここまで来たんだっけ。後ろを振り返ろうとしたが、こっちこっちと高い声に引き戻されてしまった。

「でも」

 歩き出そうとする力に逆らえず一歩足が前に出たけれど、自分でもよく分からない内に出てきた言葉を二人はないがしろにしなかった。また不思議そうな顔を見合わせてこちらを覗き込んでくる。

「落としちゃった、から」
「何を?」
「分からない。けど、多分……大事なもの」

 二人はこちらを傷つけたりしない、突き放したりしない。それが何故だか分かっている。けれどだからこそ、このよく分からないモヤモヤで引き留めてしまうのが少し怖い。うつむく頭の上に、うーん……とちょっと間延びした声が二重になって降ってくる。

「……大事なものならしょうがないよな」
「でもさあ、きみ、向こうから来たんだよ?」

 向こう、と言われて思わず目線が上がった。少年の細い指が示すのは真っ白い階段だ。くねくねと折れ曲がっていてどこまで続いているのかよく分からない。あんなところ通ってきたっけ。けれどこの少年は素直でいられないことが何より嫌いなはずだから、ここでくだらない嘘なんかつかないだろう。

「多分、来る途中で落としたんじゃない?」
「ああ、そうかもな」

 先の見えない階段にちょっと怖気づく手がぎゅっと握られる。そちらへ目を戻せば、ワインレッドの大きな瞳が笑みできゅっと細くなった。

「きっと見つかる。ぼくが見つけるよ!」

 何故だか肌になじむ根拠のない自信と、何故だか聞き慣れない気がしてくすぐったい「ぼく」という言葉。むずむずと口元が緩むのが分かる。それを見て二人も楽しそうにくすくす笑っている。うん、そっか。──いえ、ええ、そうでしょうね。アンが言うならボクはあちらから来たんでしょうし、アレンが言うならちょっとくらい危うい船でも乗ってあげますよ。今度こそ二人の引っ張る力に逆らわず足を踏み出した。

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