金に釣られていた男たちに更に高額の懸賞金を吊り下げて買収した夏準によって、アレンと那由汰はあっさり発見された。那由汰と安堵を分かち合おうとしたが、歌声が聞こえてきたことが発見のきっかけになったと聞いてからずっと、何故だか嫌そうな顔で睨まれるだけだ。珂波汰に掴みかかるような勢いで抱きつかれているところに割り入ってまでわけを聞き出す気はさすがにない。それぐらいの空気は読めるし、今はそれよりも先にやっておかなければならないことがある。
「ごめん」
真っ先にすっ飛んできて頭の怪我にこわごわ指を伸ばすアンに、怖いくらい無表情の夏準が追いついてきたところで、アレンは頭を下げた。しばらく待っても何の反応も無いのが不安になりちらりと顔を上げれば、夏準もアンも面食らった表情を浮かべている。どうやら通じてない。
「……もっとちゃんと考えて動かなきゃダメだったよな、って。本当にごめん」
那由汰のおかげで心から出てきた言葉だったが、やっぱり二人には響いた様子が無い。顔の上でそれぞれ困惑を深くし目を見合わせている。
「やっぱり打ちどころ悪かったんじゃない……?」
「なるほど」
「おい! 俺は大丈夫だ、ってアタタ……!」
「ほらあ、夏準、早く病院!」
大きく身を乗り出した振動がやたら頭の怪我に響く。二人の顔を見て気が抜けてしまったらしい。先ほどまでそれほど気にしていなかった痛みがじわじわ神経に染み出してくる。傷口が開かないよう気を付けつつ軽く頭を擦っていると、ため息がひとつ落ちてきた。
「それが分かったところでできないのがアナタでしょう。無事なら何よりじゃないですか?」
悪魔を背負っていない、何の圧も感じない、笑み混じりの言葉。怒りは感じないけれど、どこか投げやりにも聞こえるその響きが気になった。追い縋ろうと動いた腕を確かに見ていたはずなのに、夏準はくるりと体を翻す。
「こんな埃っぽいところにいつまでも居たくありません。行きますよ」
止める間もなく長い脚を踏み出してしまった。声をかけてきた依織には素直に反応して足を止め、真剣な表情で言葉を交わしている。
「うおっ?」
意識が完全に夏準へ向いていたので、左頬を軽く抓まれて変な声が出てしまった。半眼のアンの長い爪が頬に食い込んでいる。
「これ僕の分。で、これ。夏準の分」
右頬も抓まれて横に伸ばされる。全く痛くないが、きっと間抜けな顔になっているのだろう。頬を膨らませていたアンも、終いには気が抜けたように笑い出してしまった。くくく……ひとしきり喉を鳴らして、ひとつ息を吐き、それから少し眉を下げる。
「僕も、夏準も。心配したの分かってるよね?」
もし、何かひとつでも悪い方向に進んでいたら。二人はアレンを放り出すような奴らじゃない。きっと大事にしてくれるだろう。アレンであってアレンでない、未来に針を動かせない壊れた時計を。
「うん、ごめん」
想像するだけで体が震えそうになるくらい怖い想像だと思った。今やBAEはアレンにとってのすべてで、二人の間に自分でない何かが置かれることが我慢ならない。例えそれが自分の行動の結果に残ったものだとしてもだ。目線を下げてしまったアレンの頬をアンがため息と共に解放した。
「ケガ治ったら、バスルームの掃除一か月!」
「は、はあ?」
「……文句ある?」
「ないです……」
アンに凄まれて大人しく反省に戻る。これも後先考えずにBAEを放り出そうとした結果というなら受け入れよう。ただでさえ作曲中はうっかり当番をサボりがちになって二人を怒らせている。自分を納得させていると、アンに背中をポンと叩かれた。アンの顔はこちらを向いておらず、珂波汰と那由汰に絡んで噛みつかれている夏準に鼻先が向いている。
「これで終わりにしないであげて」
何か言葉を返す前にアンはアレンの背をぐいぐい押して歩き始めた。有無を言わさず那由汰と共に病院へ放り込まれ、結局一晩検査入院することになってしまった。アンには散々小言をぶつけられたのに、夏準とは事務的な会話ばかりしていた気がする。
「相変わらず悪運だけはありますね」
ようやく夏準の言葉が聞けた、と思ったのは数針の縫合で済んで延長も無く無事退院する車の中だ。検査の結果がオールグリーンで間違いないことをアンに電話で伝え、スマホを膝の上に伏せたところで転がってきた言葉だった。
「まあ、いい機会だと思ってしばらく大人しくしておくことです。黒幕の調査については協力者も居ますから」
自分の顎に指を当てて窓の外を眺めながら組んだ脚を組み替えている。それだけの仕草に壁を感じた。口を挟ませないようにしている、というのが肌で分かる。からかわれているとばかり思っていたのに、ここ数週間とんでもない近さに居たんだなと思い知った。そしてそれを惜しいと思っている自分に嫌でも気づく。
「夏準」
窓に向けられた睫毛の先がまばたきで揺れて、それだけだ。路面をタイヤが滑る低い音だけが二人の間にある。この距離で聞こえないふりなんて通じるわけもないのに。その横顔を諦めずに見つめていると、静かな車内に息を吸う音が響いた。前髪の隙間で眉が動いている。
「……なんですか」
「怒ってるよな」
息を吸う音、吐く音。一度目を閉じた夏準はアレンを振り返って首を傾げた。いつもと変わらないニヒルな笑み、に見える。
「怒らせたいんですか?」
「お前を怒らせたい奴なんていないだろ。でも、隠されるほうが嫌だから。俺は」
素直じゃないことも、腹の中が真っ黒だということも分かっている。分かっているから別に何でもかんでも知りたいとは思わない。ただ、自分の行動や信念が誰かの──かけがえのない誰かの感情や言葉を封じているのだとしたら。そうされてきたアレンは、絶対にそれを自分で繰り返したくない。視線を逃すまいと座席に手を付くと、夏準はまた馬鹿にするように息を吐いた。
「本当に怒ってなんかいませんよ。自意識過剰じゃないですか? もしくは被害妄想ですか?」
にっこりという音が聞こえてきそうな余裕のある笑み。目の前に差し出された手のひらとその顔を呆然と眺める。それでごまかせると本気で思っているのかと思うと次に続く言葉が無かった。そこまでのことをやってしまったのだろうか? 積み上げてきた時間を全てひっくり返すほどのことをやって、取り返しがつかないのだろうか。口を間抜けに開けたまま黙り込むアレンを見て、夏準は笑みを不審そうな表情に変えた。アレンが受けた衝撃を本気で理解していない。それにまた動揺する。
「アレン?」
「……自意識過剰にもなるだろ。あれだけ、口説くとか言われて……」
我ながら弱すぎる反撃だ。声にも全く力が入っていない。そんなヘロヘロのヴァースを受け取り、案の定夏準は鼻で笑った。しかしそのまま冷たく突き放されるのかと思えば、笑みが穏やかに喉元で転がって静かな車内を揺らす。何を考えているか全く分からず、困惑するしかないアレンにまた笑みが向けられた。
「アナタを殺してみたかったんです。ボクも」
「え!?」
少し眉の下がった笑み。ファンに向けるものともライバルたちに向けるためのものとも違う。アンの浮かべた表情とよく似ているのに、落とされた言葉の性質が違いすぎる。思わず身を引いて大声を上げてしまったアレンを夏準はまた喉を鳴らして笑う。物騒なことを言っているのに柔らかい笑みだった。わけも分からないのにそのちぐはぐさに胸が苦しくなる。
「ボクにとっては、人生は一度きりじゃありません」
言って、夏準は窓際に肘をついて口を閉ざした。アレンに考える時間を投げてよこしたのだと分かったが、やはりすぐにはその意味を推し量ることができない。口元を引き結ぶ姿を夏準は気分を害した様子もなく愉快そうに眺めている。
「ボクを殺すことも、生かすこともできる人間がいる限りは」
誰かの苦しくてつまらない人生を一瞬で塗り替えるほどの力。アレンの音楽にはそれがあるといつかに教えてくれた。危うく音楽を捨ててしまいそうになった時、それを拾ってくれるのはいつも夏準だ。だから諦められなかった。打つ手が無いなんて信じたくなかった。どれだけ危険でも無謀でも絶対に引き戻さなければいけなかった。
「でも」
車が止まった。気づけばマンションのポーチに入っている。運転手にドアを開けさせるために夏準はアレンから視線を逸らして姿勢を正面に戻した。
「アナタは一度きりの人生、気をつけて生きていくことですね」
言い捨てて颯爽と車を降りる背をまた呆然と見送る。どうしても看過できないもどかしさがどこから来るのかようやく分かった。夏準はアレンのことをもう諦めている。アレンを殺すことを──それまでの人生を塗り替えるような一撃を与えることを。そしてまさしく今のように放心状態になったアレンをからかうように笑いながら、息を吹き返すことを諦めている。自分にはそれができないのだと思い込んでいる。
「夏準!」
どう見ても普段通りではないアレンたちに干渉することなく丁寧にドアを開けてくれた運転手に頭を下げ、転がるようにポーチに飛び出した。長い脚を駆使してスタスタ先を行く夏準を小走りに追いかける。走るとさすがに傷に響く。顔をしかめながら抜けたエントランスではコンシェルジュがこれも動じない笑顔で目礼だけを送ってきた。そのプロ根性に感謝しつつエレベーターの前でようやくその背に追いついた。
「夏準」
「……なんですか?」
心底呆れた、けれど親しげな笑み。分かっている。夏準は別にアレンの何もかもに呆れているわけじゃない。アレンがこの小さな違和感に気づけないまま見過ごしていたら、きっと何事も無く日常に戻っていただろう。取り落とした何かの名前を知らないまま、ぼんやりと思い出してはたまに寂しさに似た気持ちを抱えて、それでも毎日を夏準がそつなく繋いでいったはずだ──そうならなくて良かったと心から思う。
「俺の人生を一度きりにしたの、お前だろ」
ポン、と軽い音がしてエレベーターの扉が開いた。けれど夏準は動かず、アレンの顔を表情なく眺めている。考える時間を投げてよこしてやることにして、アレンはその何とも言えない表情を見つめながらエレベーターに乗り込んだ。夏準がゆっくりと後に続き、隣に並んだことを確認して階数のボタンを押した。
「俺はお前がもう居るから、死んどく暇も無いんだよ」
扉が閉まるのをタイムアップと勝手に決めて、惜しみなく正解を見せびらかす。自然と笑みが浮かんだ。ついに自分らしいフレーズを、リリックを思いつけた時と同じ気持ち良さが湧き上がっていた。
「お前が居なきゃ、生きてたって死んでたって意味ない」
一度の人生を惜しいと思うような、そんな毎日が当たり前に来るようになったのは、夏準との出会いがあったからだ。アレンにとって夏準と「殺す」という言葉がどうしても結びつかないのはそのせいだろう。夏準はいつも死にそうなアレンを拾い上げている。今回だってそうだ。
「お前が死なない限り、俺を殺すのは無理だよ」
珍しく夏準は咄嗟に刃を返してこない。おかげで、カラーグラスの向こうにある目が丸くなっているのがよく見えた。ポン、軽い音がまた鳴って扉が開き、夏準は我に返ったように顔を正面へ向けた。大きく一歩を踏み出してフロアに出たので後に続く。
「それが……」
「それが?」
言葉が続かないので繰り返してみただけだったが、すっと息を吸う音には明かな苛立ちが混じっている。スタスタとまた長い脚が廊下を踏み出した。
「それが、フラフラ死にかけに行った人間の言葉ですか? 軽すぎて耳に入りません。よくもそんなことが恥ずかしげもなく……」
夏準が言葉と足を止めてこちらを振り返ってくる。うっかりアレンが笑みを零してしまった吐息を耳聡く聞きつけたからだろう。冷たい視線に串刺されても、アレンはどうしても緩む頬を引き締められなかった。
「悪い。怒られて、ホッとしたって言うか」
心底安心して油断しきっていたのが良くなかった。夏準の形の良い眉がピンと跳ね上がり、苛立ちを超えた怒りが目の中に煌めいたのをはっきり見つけてしまった。思わず一歩後ずさったが、もちろん逃げられるわけもない。手首をがっしり握られている。
「ああ、そうでしたかあ。そんなにお望みなら一晩中……添い寝でもして子守歌代わりにアナタの悪いところを上げ連ねて差し上げますよ。ああ、でも。一晩では終わらないかもしれませんねえ」
「あっ、いや……別に怒られたいって意味じゃないんだけど、はは……」