「それで! それでどうなった!? 那由汰は!!」
両腕を跡が付きそうなくらいの力で掴まれている。が、四季の胸を突き刺したのはその痛みじゃない。目前まで近づいてきたビー玉みたいな瞳が不安や恐怖でひび割れている。それを見つけてしまったからだ。息を飲み込んだまま吐き方を忘れてしまった四季の肩に背後から別の手が触れる。
「四季」
優しい声音に吸い寄せられるように目を上げれば、直明の穏やかな笑みが見下ろしていた。あ、と思わず小さく声が漏れ出て、ようやく肺が動き出す。体の力を合わせて抜くことができたのは腕を掴む力も弱くなったからだ。視線を戻すと、前のめりになっていた珂波汰の右肩に依織の手が乗って引き戻している。
「今は話聞こやないか。なんせえ、動くんはそっからや」
チッ、と大きく舌打ちをした珂波汰の手が離れていくので、慌ててその動きを追った。だが、怪訝そうに寄った眉にどうすればいいか分からなくなる。指をさまよわせ、なんとか服の袖をぎゅっと掴んだ。四季のせいで心を乱しているのに、その自分が安易に触れていいと思えなかった。
「いいんだ! 珂波汰くんが怒るのも当然、だから……」
那由汰とアレンが連れ去られていくところを、四季は「また」見ていることしかできなかった。追いかけることもできず、物陰で震えながらその背を見送るしかなかったのだ。じろりと向けられる温度のない視線を受け止めることができずうつむいた。はあ、苛立ち混じりのため息に肩が揺れ、裾から手を離す。いつかもそんな風に、すぐに後ろを向いてしまう癖で那由汰を苛立たせた記憶が蘇り、そんな場合でもないのに涙が滲む。とにかく今は続きを、そう思っているのに喉が開かない。大きく息を吸ったところに笑顔が覗き込んで飛び上がってしまった。大きな体を屈ませている善だ。
「君が巻き込まれなかったおかげで、私たちもこうして何が起きたか把握できている。君の判断は正しかったんだよ、四季くん!」
「そうだよ、四季。早く二人を見つけてあげよう」
四季はやっぱりあの場から逃げるしかなかった。それをただの「逃げ」に終わらせなかったのは、リュウがいつもの調子で落ち着かせてくれて、直明や匋平が珂波汰や依織たち、BAEに連絡を取ってくれたからだ。自分が「正しい」とは到底思えないけれど、でもそんな頼れる仲間たちの助けを無駄にできない。四季はもう一度深く息を吐き出して顔を上げた。相変わらず温度のない透き通ったビー玉の瞳。けれど、怒りや焦りを抑えてくれているのだと何故だか分かった。珂波汰ってそーゆーとこあんだよな、那由汰から幾度も聞いた言葉が頭をよぎる。
「とにかく、早くどうなったか言え」
「う、うん……!」
那由汰を咄嗟に庇って鉄パイプを振り下ろされたアレンは、そのまま気を失ってしまったようだった。脱力した体を受け止めた那由汰がいくら言葉をかけても反応する様子がない。すぐに見切りをつけたらしく、那由汰はその場に座り込んでアレンを地べたに寝かせた。そしてパンパンと自分の服を叩きながらスマホと財布を取り出して放り投げる。
「言っとくけど俺、こんだけしかねーけど。こっちは……うわ、何も持ってねーじゃん。ボンボンだろ? サイアク」
言いながら、アレンの服を同じように叩きスマホだけを放り出す。しかし鉄パイプを片手にだらりとぶら下げたままの男はそれを拾うどころか動き出す素振りも無い。
「疑うなら自分でやれよ。それともただの憂さ晴らしか?」
「俺が一番乗りか。こりゃあついてるな」
「……は?」
男の声には粘り気のある喜びが張り付いているように聞こえた。四季からは背しか見えなかったが、きっと顔には笑みが浮かんでいるのだろう。見上げる那由汰の顔が歪むが、男は気にした様子もなくパイプを持っていないほうの手でアレンの腕を掴み雑に引っ張り上げた。首から下げたメタルが揺れる。
「コイツ……?」
それがきっかけだったのかは分からないが、男は動きを止め、低く何かを囁いたようだった。アレンに対して何かに気づいたような素振りだったように思う。不審そうな顔をしている那由汰の上にアレンをもう一度放り捨てたところで、新たに二人の男が駆け寄ってきた。見た目からして、男を止めるために駆け寄ってきた一般人にはとても見えない。案の定、歪んだ笑みで軽口を叩き合っている。
「どうせ人手が要るからな。多少の分け前はくれてやるよ」
男たちがアレンを担ぎ上げ、一人が那由汰の腕を掴み上げた。痛みに歪む顔を見ていられなくなり、震える足を踏み出そうとした。何ができるかなんて考えていない。とにかく、このまま連れて行かせるわけにはいかないと思ったのだ。しかしその瞬間、こちらを鋭く睨まれた。こちらに背を向けている男たちではない。ビー玉みたいに不思議な色をした綺麗な瞳が確かに四季を見ている。
「おいおーい、アンタらさあ」
男の腕をわざと大きな動作で煽るように振り払い、那由汰はのんびりとその場に立ち上がった。明らかに男たちを煽っている。簡単に波立つその場の空気をからかうように浅く笑う。
「どーでもいーけど、こんなとこ見つかったらヤバイだろフツーに。こっちも、ヨケーなお世話つったって見捨てるなんてダセーことできねぇんだよ」
さっさとどこへでも連れてけよ、ツバと共に吐き捨てた言葉に刺激された男たちは那由汰とアレンを乱雑に引きずって寂れた街の細い路地に消えていってしまったのだ。
「那由汰くん、僕が見てることに気がついてた。目が、合って……でも、やっぱり僕は何もできなくて……!」
「そういうことかよ、クソ……アイツ……!」
ぐしゃぐしゃと髪を搔き分け悪態を吐く珂波汰になんと声をかければいいか分からない。那由汰は明らかに自分に男たちの気を引きつけようとしていた。四季の存在に気づかせないよう庇ってくれたに違いない。ただ見つめることしかできない四季に珂波汰の鋭い目が向けられた。連れ去られる那由汰がこちらを睨んだ目と本当によく似ていて、ハアッ、聞かせるための強いため息にやはり怯んでしまう。
「お前が見てるから、無茶できると思ったに決まってんだろ」
「え……」
思いもしない言葉に何も返せないが、戸惑うばかりの四季を珂波汰は最早少しも気にかけていない。苛立ちも焦りも怒りも四季に向けられたものではないのは明らかだった。もっと親しみを込めて那由汰に向けられている。そしてそんな風に誰よりも那由汰に近い距離に居る珂波汰が、四季に向けられた信頼の形を何でもないことのように突然鮮明にした。
呆然とする四季を、今度は華やかな顔が覗き込む。驚かせないよう配慮してくれたのかしゃがみ込んでいて目線が低い。縋りつくように両腕が弱く握られた。いつもは眩しく光を零す琥珀色の瞳が今は弱々しい。
「アレンの怪我って、どんな感じだった? 血とか……!」
「遠目には見えない、くらいでした……那由汰くんも、『トんでるだけかよ』って……」
「トんでるだけ、じゃないよ! もお……!」
話すことに必死で、一瞬BAEの二人もここに居ることを忘れかけていた。アレンは既に暴力を振るわれたことが分かっていて、どんな状態かはっきりしていないのだ。珂波汰以上に心配だろうに、きっと四季の話を遮らないようにしていてくれたのだろう。ちらりともう一人のBAEのメンバーを窺い見たが、こちらは無表情でスマホの画面を操作している。意外だと思えるほど相手のことを知らないので、どんな感情になればいいのか分からない。困惑して視線をアンに戻すと、ただ眉を下げて笑っている。
「『一番乗り』、どういう意味だろうか……」
「鋭いなあ、センセ。俺もそこが気になるわ」
「何か、目的があって一時的に徒党を組んで動いている、んでしょうか……どこかの組に居る人間なら、このシマの中で動こうとは思わないはずです」
「せやなあ……まあ、ウチへのカチコミも絶対ナシかっちゅうと……ここ最近羽振りいいんは分かっとるやろし……」
依織と善が時折どこかと連絡を取っているが、なかなか情報は集まらないようだ。ひとまず、外に居た北斎たちは店に残った匋平たちと合流したようだった。普段よりずっと口数の少ない夏準が唯一提案したことだ。
「待て、珂波汰くん! どこに……!」
「どこでもいいだろ。放っとけ」
一向に変わらない状況に珂波汰はとうとう痺れを切らしてしまったようだ。部屋を出ていこうとするその肩を善が止めたが、すぐに振り払われる。尚止めようとする善にしかめ面の珂波汰が何か返そうとしたところ、場違いなほど軽い吐息がふっと部屋の重い空気を揺らした。ふふ、あはは、と人の神経をわざと刺激するような笑みが繋がっていく。珂波汰の鋭い視線が部屋の奥へと向けられた。
「相変わらず、単純なんですねえ。また袋のネズミになりたいんですか?」
「なんだと?」
「何の考えも無しに道具を使う相手の前に出る……誰かと同じレベルの愚か者です」
ステージや店で見かける時と大きく変わらない、笑顔のお手本のような表情なのに、珂波汰が夏準に向けているのと同じくらいの鋭い怒りの気配を感じている。肌を粟立たせる凄まじい怒りに挟まれ、思わず直明の腕を掴んでいた。困惑した表情の直明がそれに手を重ねてくれて少しだけ安心する。
「でも、ボクは……ボクたちは、アレンがそうしたいなら止められないんですよ。不本意ながら」
低い声は、もしかしたら離れている珂波汰や善には聞こえなかったかもしれない。その言葉がどうしても気になって盗み見ではなくしっかりと夏準へ顔を向けた。表情はやっぱり仮面のように笑顔で固定されている。
「『一番乗り』ということは、恐らく探していたのはナユタで、誰かと競っていた。それは間違いないでしょうね。でもその後、男はアレンの顔を見て何かに気づいた……そう、でしたよね?」
「は、はい……!」
じっと見ていたところを見つめ返され、思わず声が裏返ってしまった。しかし夏準は気にした様子もなく、笑みを崩さずに部屋の中央──珂波汰の正面に視線を戻した。
「誰でもいいわけではないのであれば、気を失ったアレンはそこに放っておけばいいんです。なんなら、トドメを刺して口を封じてもいい」
言葉の強さにぎょっとして視線を逸らせないでいると、ふと気づいたことがある。スマホを持っていない左手が握り込まれているのを見ることができているのは、角度からして四季と直明だけだろう。
「でもそうしなかったのは……アレンも連れ去る価値があったからです。幻影ラッパー……しかも、『あの事件』に深く関係している誰か、だとしたら」
夏準の言葉にその場に居る誰もが表情を険しくし、体を硬くしたのが分かった。視線が珂波汰へ集まる。Paradox Liveのファイナルステージで起きた事件の全容を知る者は少ない。メタルによって引き起こされた混乱の中、それを記録できた物も残っていなければ、人びとの記憶にもかろうじて切れ端が残っているくらいだろう。有耶無耶にされた空白の中身を知っていて、それを狙う「誰か」が居るとしたら。この場に居る誰もがその答えに心当たりがある。そしてその推測が正しい場合に、珂波汰が最も危険であることも簡単に想像できる。
「だったら尚更じっとしてられるか! 俺が行ってやれば……!」
「『行ってやれば』? 三人仲良く捕まって実験材料にでもなるんですか? すっかりオトモダチになったんですねえ」
「お前……! ふざけてるヒマねぇんだよ! こっちは!」
「ふざけていません」
ひやりとした冷たさが胸の裏に貼りつくみたいな声だ。決して大きな声量ではなかったが、部屋の中が重い静寂で敷き詰められる。呑んだ息がまた吐けなくなった。
「本気で、本心です。アナタ一人程度の犠牲で済むなら……ボクは迷いなく、喜んで差し出しますよ」
夏準、隣に立つアンが囁くように名前を呼ぶ。笑みをとうとう消し、珂波汰と睨み合ったまま動かなかった夏準は、もう一度アンに名前を呼ばれてひとつ小さく息を吐いた。アンを振り返って「分かっています」と囁き返す声には少し温度が戻っていて、四季もようやく呼吸を取り戻せた。部屋の中央へ戻った顔には笑みの仮面が付け直されている。
「男たちは『一番乗り』を喜んでいた。ということは、早く見つけた者には旨味があるということです。アナタがたのような組織ではなく一時的に集まった烏合の衆なら……何が餌かは簡単に想像できますよね?」
言いながら、夏準はスマホを部屋の中央に向けて差し出して見せた。絶えずメッセージか何かを受け取っているのか、小刻みに震え続けている。
「そして、ご存じの通り……ボクは『それ』を、それなりに持っているんですよ」
う、と低い唸り声が耳の端を掠めて投げやりに目をやった。頭がやはり痛むのだろう、起き上がろうとした体がバッタリまた床に沈んだ。芋虫みたいに伸びたり縮んだりしている様を無感動に眺める。次第に「あれ」とか「どうなって」とか意味のある単語が聞こえてきたところを見るに、意識はそれなりに確からしい。
「やっと起きたかよ」
「大丈夫か、ナユタ……」
「お前よりはな」
一言目がそれか。呆れ切って肺の底からため息を押し出す。「余計なことしやがって」、悪態を吐きつつアレンの傍まで歩み寄ってしゃがみ込んだ。那由汰の顔を見上げたアレンも深く息を吐き出して体を上下させた。だがもちろんこちらは呆れではないのだろう。きっと那由汰が無事なことにひとつの不満や疑いもなく安堵している。チッ、思わず舌打ちまで漏れた。
「見捨てるのも気に入らねーし。だからって抱えて逃げられる図体じゃねーし。何さっさとトんでんだよ」
「……ごめん。体が勝手に動いてた」
苛ついた気持ちを発散させようと言葉をいくら重ねても、その度に素直に眉が下がるだけだ。全く少しも似ていないのに何故だか四季のことを思い出してちっともスッキリしない。
「もーいーわ。俺も気づいてなかったし。お前が沈むくらいの一発喰らってたらどうなってたか分かんねーからな」
敢えて自分から言うつもりはないが、男たちは那由汰を探しているような口ぶりだった。いくら頼んでないとは言っても、そうなると完全にこいつは巻き添えなのだ。無駄に尖っている場合でもないと諦めて、手足を縛っている紐を解いてやることにする。意識がない内に解いてしまうと見張りが戻ってきた時に隠し持っていたマルチツールのナイフの存在がバレてややこしいことになる。結果的には完全に放置されているのであまり意味のない警戒だったが。ちなみにマルチツールはかっこいいので珂波汰とお揃いで持っている。こういうやつってマジで役に立つ時あんだな。
「礼は言わねーぞ」
「ああ。でも、俺は言わせてくれ。ありがとう」
手足をのたのた動かしながら起き上がるなり、アレンは頭の下に敷いてやっていた上着を那由汰に差し出してきた。どこまでも緊張感のないやつだ。珂波汰ほどではないが、那由汰にとっても正直、好きな部類の人間ではない。
「はいはい。お人好しの平和ボケフェイクノーテンキ坊ちゃま」
「そこまで言うかあ……?」
「うるせー」
その場に座り込んだアレンは、手首を回して動きを確認したり、殴られたあたりにこわごわ触れて怪我の様子を確かめたりしている。那由汰の上着にも血は滲んでいるものの、既に出血は止まっているようで、無理しているのでなければそれほど酷い状態ではなさそうに見えた。悪運が強いのか弱いのかよく分からないやつだ。
「ここは……」
「頭に布ひっ被せられて気づいたらここだよ。サプライズパーティ会場……ってわけじゃなさそーだよな」
砂埃に汚れたボイラーに、売れそうな金属が一通り乱暴に引っこ抜かれた何かの操作盤や機材。壁面がところどころ剥がれて錆びた鉄骨が剥き出しになっている。出入口はコンクリートがボロボロに剥がれた階段の向こうにあるドア一つ。恐らくスラムにいくらでも転がっている廃ビルだか廃工場の地下だろう。
「何が目的なんだ……」
「連れてったほうが儲かるって思ってんの、かな。俺もお前も、今じゃそれなりに有名人だし」
那由汰とアレンの共通点と言えばParadox Liveくらいしかない。勝負の結果にかかわらず、どのチームもそれまで以上に名前が売れたのは確かだ。cozmezが賞金を寄付したこともそこそこ騒がれたはずだが、そういう話を全部くだらないフェイクとしか思えない奴らのたまり場がスラムでもある。
「金……なのか?」
「殺してねーってことはそーじゃね? あのへんで急にブン殴ってくんのなんて狙いはタタキか、そうでなきゃ憂さ晴らしかだろ。フツー」
「ふつう……」
「クソ……四季、大丈夫だったかな……珂波汰は……」
何とも言えない表情で口を閉ざしたボンボンと、これ以上呑気にオシャベリを続けるつもりはない。ただ、その他にやることがないのも事実だった。狭い部屋の中、脱出に使えそうなものが何一つ見当たらないのは確認済みだ。スマホを自分から差し出したのは失敗だっただろうか。だが、あそこで持ち物を探られていたらナイフも取り上げられていたかもしれない。四季なら絶対にバーの連中や珂波汰に連絡を取ろうとしてくれるはず──胡坐に肘をついて悶々と考え込む。
「おっ」
間抜けな声が割り込んできたので、うっとうしく思いつつ目線を流す。いつの間にか立ち上がっていたアレンが部屋の隅で何かを拾っている。
「おい、あんまりうろうろすんなよ。一応縛られて捕まってるってことになってんだぞ」
「見ろよ。落ちてた」
「んだよ、それ。なんか役に立つわけ」
アレンが嬉しげに振っているのは工具のようだ。先が錆びたドライバーだろうか。最悪の想定として、いよいよ命が危うくなったら死に物狂いで抵抗しなければならない。何も無いよりはマシなのか。いちいち構うのも面倒くさいので話を切り上げてドアの外に神経を傾けた。先ほど確かめた時は人の気配はしなかったが、今はもう戻ってきているかもしれない。もう一回見てみるか……と、ドアに近づくため立ち上がった背に──コオン、間抜けな音が追い縋った。顔をしかめて振り返る。コオン、コオン、排気口らしき鉄格子にドライバーがぶつけられる音らしい。
「……なあ。見張り来たらどうすんだって言ってんだけど」
「ナユタ、これ」
先ほどまでの能天気な笑みと違い真剣な表情だ。それに戸惑い半分、何故だか釈然としない気持ち半分、渋々しゃがみ込むアレンの横に並んで排気口を覗き込む。鉄格子は端のほうが腐食して小さな隙間ができているようだった。うまくすれば外せるかもしれないが、那由汰でも到底通り抜けられないだろう狭さだ。
「……これが」
「聞いてみてくれ」
コオン、アレンがまたドライバーの先で格子を打つ。空洞のせいか遠くで聞くより音が澄んでいる気がする。だからなんだという話だが。
「……なに?」
「Cだろ?」
こいつが苦手だとかそういう話抜きで、言っている言葉の意味をまるで理解できなかった。黙って見下ろすしかない那由汰をアレンはさして気にしていないようだ。コオン、コオン、鉄格子を続けて弾いている。
「これは……G、こっちはF、これは……A! おお、フレーズ作れそうだな」
「……はあ?」
「あー……まあ、そうだよな。ビート刻めるほうがいいよな……」
ガキのような無邪気な笑みから神妙な表情に戻り、アレンは辺りを見渡しながら立ち上がった。ボイラーやら古びた機器やらにドライバーを何の遠慮も無くドンガンコンカンぶつけつつフラフラ狭い部屋を漂う。平気そうに見えて実は殴られた時に頭のネジが百本くらい抜けていたのでは。能天気も行くところまで行くと気色悪い。顔が引きつる。
「おおっ」
「お、おい、うるせーって」
「こっち! こっち来てくれ!」
部屋の隅に立ったアレンが目を輝かせて手招きをしている。その喜色を隠しきれていない囁き声に嫌な予感しかしないが、最悪なことにアレンの視線の先には那由汰しか居ないし、那由汰が近づくまで永遠にやかましい視線を突き刺さってくることが簡単に予想できる。半眼になりつつ隣に立つと、アレンは嬉し気に天井を指差した。高い天井に穴が開いているようだが、梯子でもなければ届かないような高さだ。あー、何をするのかと思えば、天井に向かってアレンは声をあげた。そして満面の笑みで那由汰を見下ろす。
「ここ! めちゃくちゃリバーブ効くぞ!」
ゴミ溜めみたいな孤児院でもそう、ゴミ溜めそのもののスラムでもそう、生き抜くために必要なことは「隙を与えないこと」だ。力で勝てない、口が立たない、物を知らない、奪われれば二度と立ち上がれない何かを持っている。そういうことを絶対に相手に悟らせてはいけない。だが今の那由汰はきっと人生で一番隙を晒していることだろう。正直、一体何を返せばいいのか全く分からない。知らない内にフリースタイルでも始まっていたのだろうか。
「お前……こんな時に何やってんだよ」
「何って……だからだろ?」
「は?」
「何があるか分からないから、今、できることやっとかないと」
1、2、3、4、カウントの後に口の中でリリックを捏ね始めたアレンは、那由汰がどんな表情をしているか全く気づいていないようだ。きっと、自分の考えが間違っているとも妙だとも微塵も思っていない。
「お前さ」
吐き気がするほどの苛立ちを声にしたはずなのに、何故だか温度のない平たい声になった。それが更に腹の中をムカムカと煮立たせる。不思議そうに歌を止めたアレンを睨み上げた。
「見ててイライラする」
「えっ」
「どっかのバカのこと思い出すから」
自分にできることがたったひとつだと信じて、心の奥底ではどっかヤバイって気づいていながら、後戻りできなくなる。自分だけは大丈夫、そんな何の根拠も保障も無い脆い自信の上で綱渡りして、そうして最後に何が起こるか、こういうやつは想像しない。想像していなかった。四季や珂波汰の歪んだ顔を見るまで、少しも。
「頭ブン殴られて、ヤベーとこに当たったら死んでたって分かってんの?」
「そうだよな……結局ナユタを巻き込んじゃったし……」
「じゃねーよ」
あまりの話の通じなさに同じ地球にいる人間か疑いたくなってくる。猿か何かなのだろうか。指先にまで痺れのように苛立ちが走って、アレンの首元をぐっと掴んで引き下ろした。
「歌だけじゃねぇ、全部だよ。全部途切れて終わる。お前が何考えてっかなんて誰にも届かねー。居なくなんだよ。こっから」
薄暗い地下室の中、まだ呑気にぼけた色をしている目を突き刺すつもりで言葉と視線を研ぐ。だが本当に殺してやりたいほど憎いのはこいつじゃない。多分自分自身だ。
「この先、歌うのも、喋んのも、食うのも、笑うのも、喧嘩すんのもお前じゃない。全部乗っ取られんだよ。お前の『思い出』にな」
取り返しのつかない選択をした。そのツケを嫌という程払ったら、存在してるわけないカミサマの気まぐれか何かでやり直すチャンスを掴んだ。だがきっと二度はない。だから那由汰は今度こそ間違えない。関係ないところで死ぬなら死んでくれて構わないが、自分と同じ馬鹿をやろうとしている奴の巻き添えなんて絶対に食いたくない。
「平和ボケでもいーけど、そんぐらいのこと分かって生きてろ」
襟元を放り捨てるように手を離すと、アレンは情けなくバランスを崩してその場を何度か足踏みした。那由汰の言葉に動揺した様子も怒る様子もなく、ただなんとも言えない表情でシャツを引っ張って首元を整えている。何かを探るように目線が下がり、そしてゆっくり那由汰のところに戻ってきた。こちらが声を荒げているのが馬鹿みたいな気分になる穏やかな目の色だ。ツバを吐きつけたくなる。
「cozmezのパフォーマンスを見た時……、俺はそれをホンモノだって思った。二人の生き様に心を抉られてやられたって思ったよ。そこにナユタが居ないって思ったことは一度もない。いつ聞いたって最初から最後まで二人の曲だった」
「だから、そういうことじゃ……!」
「でも、確かに……嫌だな」
ぽつりと呟かれた言葉には、いつもの煩わしいハリや押しつけがましい勢いが無い。どこか途方に暮れた「隙」だらけの声。思わず口を噤んだ那由汰にアレンは苦笑を零した。
「カナタに俺の言葉届かなかった理由、やっと分かった気がする」
「あ?」
「取られたくない。誰にも。俺の場所」
アレンの目線が逸れていった。その先には、那由汰の目には映らない顔や記憶が見えているのだろう。そこは心底どうでもいいが、ようやく多少は話が通じたらしいのでほんの少しだけ溜飲が下がった。「あ、そ」雑に相槌を返す。
「そっちはどーでもいーけど。『珂波汰に俺の言葉届かなかった』……ってなんだよ」
「あー……いや、それは……」
「吐けよな。迷惑リョー」
「迷惑料……!? なんのだ……!?」
「ノーテンキバカのせいでムカついた代」