「アーレーンっ!」
視界に不機嫌そうなアンの顔が割り込んできてハッとした。自分と、自分の中のHIPHOPとだけで完成していた縦長の世界が突然横にも広がって、五感が世界に再接続されているみたいな不思議な感覚にパチパチと瞼を上げたり下ろしたりする。
「何してんの?」
あ、この感覚めちゃくちゃいいな。
妙な言い方だが、HIPHOPはHIPHOPだけじゃできない。自分の内と外に漂うもの全てを取り込んだり、吐き出したり、固めたり、溶かしたり、捏ね繰り回してようやく「自分の」ものになる。鋭いアイラインにフサフサ並ぶ睫毛と不機嫌そうな眉間の皺、怒りでいつもよりほんの少し強く感じる香水の匂いに自分でもよく分からないが口元が緩んで笑みが漏れた。ノートに戻って1行ざっと消す。これじゃないな。生身のアンに敵うリリックじゃない。
「ちょっとお、なに無視してんだよー!」
トラックの簡単なイメージは出来上がりつつある。ペンでデスクをコンコン弾きながらフロウに乗せてみる。これは作曲者の特権ってやつだ。まあどうせ、夏準やアンと話し合って磨き合う内、最後には全く違うカットの宝石になるけれど。
「ねーえー、なーにしてんのーってえ」
「……何って、見たら分かるだろ」
「見ても分かんないことあるから聞いてんだけど」
ついに首元に腕を回されてヘッドロックの体勢になると、作業が続けられないのでさすがに少し煩わしい。見た目と正反対にそこそこ乱暴なアンの腕をポンポン叩いて唸る。
「リリック……今、降りて来そうでさ……ここが……」
「はいはい」
「なんだよ、自分で聞いたんだろ?」
アンはなんだかんだ言いつつアレンの曲やリリックを気に入っている。そこには揺るぎない自負があるので、それが出来上がる過程をここまで妨害してくるのが珍しく感じる。何か言いたいことでもがあるのかと渋々顔を上げた。きらりとアンバーの瞳が光ったような、光ってないような。
「それってさ、どこでもできるよね?」
「はあ?」
「できるよね?」
首に腕を回されたまま鼻先に指を当てられて逃げ場がない。それもう答え聞いてないよな? と思ったがこうなったアンは止まらないのだ。夏準でも多分止めるのは無理だ。
「いいアイディアには気分転換も大事でしょ! Hey, com’on! 立って立って!」
首は解放されたが、作業に戻ろうものなら本気で怒らせそうだ。それはちょっと遠慮したい。うーん……唸りつつもリリックノートとボールペンを手に立ち上がる、と、間髪入れずに肩を掴まれ体の向きを変えられる。
「さ、しゅっぱーつ!」
「どこに、」
「ドライブ!」
「は!? おい、まさかお前が運転するんじゃ……」
「はじゅーん、ちょっと出てくるー!」
いつの間にやら開け放たれていた部屋のドアから押し出され、そのまま背中を突かれるようにリビングを横断した。部屋に満ちているのはコーヒーの匂い。キッチンで丁度淹れていたらしい夏準の顔はいつものことだと言いたげにしらっといている。
「ご飯までには戻るからねー!」
「……はいはい」
だから忘れずに僕たちの分もよろしく、という隠す気もない本音ダダ洩れのリリックにやっと少しだけ表情が動いた。そして首を少し傾げて、アンに全く制止が届かないアレンに目を合わせてくる。パチリ、静電気に似たような音が淡く聞こえた錯覚する。痛みは無い。イメージだ。
「行ってらっしゃい?」
「おお」とか「うん」とか、そのへんの意味の無い音が混じった返事しか返せなかった。夏準はいつも通りだ。呆れがちょっと混じった、ヨソでは見せない、完璧がちょっとだけほつれた親しげな笑み。だからきっとおかしいのはアレンのほうだ。何か言いたいはずなのに、何も出てこない。一瞬立ち止まってくれたアンもさっさとそんなアレンに見切りをつけて玄関に押し流してしまう。
そこからのことは──細かく覚えてない。というか、覚えていないことにしたい。
「なん、なんだよ……!」
「ちょっとお、ultimate driverの僕の速さにもうヘバっちゃったの~!?」
「あれで速度違反じゃないのは……まあ才能だと思うけどな……」
世の中の絶叫マシンが束になってもアンの助手席には敵わない。色んな意味でultimateだ。心なしか震えている気がする脚を支えるために手すりに手を伸ばした。その向こうに満ちたダムの水から心地良い冷気が吹き上げてきて、湖面を彩る紅葉を優しく揺らしている。アンライドとは対照的すぎる景観だ。都心から少し離れているので、写真を取ったり散歩をしたりする人たちと程よい距離がある。すう、思い切り秋の空気を吸って、ほお、と情けなく絞り出す。
「で」
あれ富士山じゃない!? とかなんとか、すっとぼけているアンを不機嫌を隠さずに見上げた。背を丸めて手すりに寄りかかっているせいで、ヒールの高いアンをいつもより更に見上げる姿勢になっている。
「何か話すことあるから引っ張り出したんだろ」
「あ、そーだった」
「おい……」
気分転換にしても、わざわざこんなところまで。更にはアレンだけを引っ張り出してくるなんて普段ならあり得ない。いつもなら確実に巻き込んでいるはずの夏準を外している──つまりそれが話の中心ということだろう。だったら別に、ちょっと離れたところだって良かったはずだ。それこそ屋上だっていい。さすがに夏準やアンよりリリックを取ったりしない。いや、できるならどっちも取りたい気持ちがあるのは否定しないけど。
言わなくてもアレンの考えていることが分かるのだろう。アンは気まずそうに髪の先をいじっている。
「いや……さ、アレンとか夏準とかってより、僕が、なんか……振り切りたくてさ」
「……どういうことだ?」
「ホントはあんまり首突っ込みたくないし、こんなダサいこと聞きたくないんだよお……!」
「はあ……? なんか変だぞ、今日」
「うるさいなあ! 誰のせいだと思ってんだよ!」
「急にそんなこと言われてもな……」
さすがにそれ以上は付き合いからじゃ読めない。手すりに頬杖を付いて待っていると、アンもため息を吐いて背中を丸めた。視線の高さが合う。う~、往生際悪く唸り声を上げていたアンが、とうとう思い切った様子で身を乗り出してきた。ひそ、と耳に声が流れ込んでくる。
「どう思ってる? 夏準のこと」
口がぽかんと開いたのは、本気で何を聞かれたのか分からなかったからだ。他の誰かに聞かれるならともかく、この三人の中で日常から生まれる問いじゃない。だから嫌だったんだよ……自分で言ったくせに不本意そうに頬を膨らませたアンは、言葉を探すアレンの口に人差し指を押し付けた。
「ちゃんと話すから。今はなんでとか考えないで。パッと思いついたこと言って」
パッと思いついたことって。説明も無しに……。
難易度が上がっている。有無を言わせないアンの雰囲気に反抗する材料すらない。仕方がないので頭の中に夏準の姿を思い描いた。家を出る前に見た涼しい笑み。大体の記憶の中で夏準はそういう顔をしている。馬鹿にする時も、突き放す時も、親しげに近い時も、熱く本心を曝け出す時も、美しく笑みの配分を変えてアレンやアンにだけ分かる暗号を送ってくる。BAEにとっての大きな事件が自分の心の中と向き合うきっかけにもなったのか、それからは益々そういう夏準ばかり見ている気がする。そういう奴だからしょうがないと思っているし、そういう奴だからこそ面白いとも思っている。きっとアンも。
「もう少し……いや、」
でも夏準も人間なのだから、そうでない時もある。そこに夏準の、何も飾らない、素と言えばいいのか、「本当」があるような気がしている。もしかしたら物凄く思い上がった勘違いかもしれないのでそれが怖いけれど、でももう少しだけ見たくなる。アンにはどうしてこの気持ちが分からないだろう──そうか、アンは見てないから。
「もっと俺のこと」
あんなにでかい図体のくせに、見下ろす腕に触れた時の指の力はそんなに強くない。それに気づいた時、堪らない気持ちになって手を握り込んでしまう。汗で湿った手をきゅっと包んだ時に、自分の頬に当ててみたり首や胸に触れさせてみたりした時、苦しげに目を細める顔が好きだ。そんなところよりどうしようもないところでもう繋がっているのに、そうして初めて夏準に触れている気持ちになる。
「好きになればいいのに、って思う」
ざ、と冷たい風が強く吹いた。髪をばさばさ揺らすアンの目が真ん丸になっていることに気づいてようやく我に返る。俺はこんなところで、アイツもいないとこで、一体何を思い出して──「あ」とヘッズにはとても聞かせられない喉に詰まった汚い音が出た。べしゃりとアンがその場に座り込む。突然のことに驚くが、すぐにその肩が震えているのに気付き顔をしかめる。
「なんだよその反応……」
「気まずいの50%、面白いの200%」
「100超えてるぞ……」
我ながら反撃のヴァースがあまりにも弱すぎる。ううう……苦しみながらアレンも弱々しくその場にしゃがみ込んだ。なんなら地べたに手を付いて絶望した。こんなこと普段は考えてない。考えてないはず。多分考えてないよな……。
「『アレンはボクに付き合ってるだけですよ』」
「……は?」
「これ、さっき聞きたてホヤホヤ」
アンの声は顔を膝に伏せたままなのでくぐもっている、のでどんな表情なのか全く分からない。が、アレンの気持ちに寄り添った顔をしていないことだけは間違いないだろう。声が隠しきれない浮つきで五線の上をフラフラさまよっている。
「アレンって悪い男だったんだねえ……!」
「はああ!?」
思わず大声を上げた勢いで体に芯が戻って勢い良く立ち上がった。明らかに抱えた膝の上で笑いを転がしているアンの両肩をグラグラ揺らす。とてもじゃないが信じられない。アンがそんな冗談を言う奴じゃないことはよく分かっているくせに、そうであってほしいという気持ちを捨てきれない。
「あるよね〜、見ても分かんないこと」
様々な感情が入り混じった、どうしようもなさの噴火を喉元に押さえつけているアレンを、アンはいたずらっ子のようにちらりと目だけで見上げてきた。アンは悪くない上に、むしろ本人の申告通り「ダサい」ことを言わせてしまったのだ。負い目があるのは確かだが──どうしても笑顔は返せない。
「帰る?」
「帰る」
「運転する?」
「……Ultimate driverに任せる。一秒でも早く帰りたいから」
いひ、今度は露骨に笑われて更に口を歪める。もちろんアンにアレンのそんな不機嫌が通用するわけもなく、ケラケラ笑いながら立ち上がって背中を宥めるように叩かれたので唸りつつ体を捻った。からかいスイッチが完全にオンになっている。
「まあまあ、焦ってもしょーがない! せっかくだし、この景色でいいリリックと……いい口説き文句でも思いついたほうがいいんじゃなーい」
「おい」
「Say cheese!」
アレンを放り出して上機嫌なアンは、インカメで撮った写真を早速夏準に送っているようだ。リリックノートのみで来てしまったので覗き込むことしかできない。
「いい景色なのに隣の人の顔が間抜けですね」……ってなんだよ! そんなこと言ってる場合じゃないんだからな! 覚えてろよ!