問題なのは、言っても言わなくても別に何も変わらないことだと思う。
モニターヘッドホンに手を添え、仮で組み上げた曲を聞く真剣な横顔を盗み見る。カラーグラスの弦の向こうで、目尻までくっきり重なる睫毛が下を向き、少し赤みのあるアンバーの瞳を遠慮なく陰らせている。そんなことをわざわざ表現したくなるのは、いつもはその円盤の上で相手を揺さぶったり制したりするための光を巧みに操っていることを知っているからだ。今の夏準の目はただアレンの部屋の光を映しているだけだし、耳にはアレンの組み上げた曲を流し込んでいるだけだし、口元には考えるように指が添えられているだけで笑みのひとつもない。
伏せられていた睫毛がピクリとわずかに揺れ、瞳だけがこちらへゆっくりと動いてくる。それだけの小さな動きに何故か気まずさを感じた。そんなアレンの異変を目敏く察知し、夏準はヘッドホンをずらしながら首も動かす。
「どっちですか? その顔は」
何か問われるだろうとは思っていたが、まったく想像していない方向だった。なんの受け身も取れずにまごつくアレンを、夏準はただ笑っている。傾けた笑みにはやっぱり余計な棘も甘みも無い。敢えて言えば呆れだけが混じっている。
「ど、どっち?」
「分からずにやっているんですか? まあ、そうでしょうね。アナタは」
思わず自分の頬や顎のあたりを触ってしまった。夏準でもあるまいし、相手にどうとでも取らせるような表情なんて器用に作れない。そんな間抜けな反応を見て、夏準は笑みをからかうものに変えた──はずだが、夏準こそ気づいているのだろうかと思う。目元からも口元からも緩く力が抜けている。こんな顔、きっとアレンとアン以外は見たこともないだろう。まあ、こいつならそんなこと気づいてやってるのかもな、とも思うけれど。
「早く帰ってきて、できるといいですね。録り直し」
悪い癖で、うっかり自分の考えに足を踏み外している内に、夏準は首元からヘッドホンを引き抜いていた。押さえつけていたピアスがゆらゆら揺れる。どうやら続きはアンが帰ってきてからになるだろうと結論付けられてしまったらしい。差し出されたヘッドホンを反射で受け取った。
「部屋に戻ります。ボクは」
髪を整えながら立ち上がる夏準を目だけで追ったつもりだったが、実際には手の方が早かった。エアコンに冷えた手首を掴む手を、何の飾りもない顔がまた見下ろしている。目も、耳も、口も、すべて素直にアレンに降り注いでいた。
「もう少し」
何も言わせたくなくてとりあえず声を出す。今、何か疑問やからかう言葉をぶつけられたら、フロウが乱れる。夏準から降り注ぐシンプルな何かにノイズが混じる。感覚的にそれを感じたのだ。パンチラインじゃなくてもいいから、とにかく何か、そこに置きたいリリックを探る。
「もう一曲」
けれどそれがあまりにもアレンの日常に漂う言葉で、自分で言って自分で動揺してしまった。取り繕うようにまごまご口が動く。
「もう一回録ったら、多分……また、変わるから」
夏準は珍しくすぐに反応を返さなかった。言葉どころか表情すら変えず、ただじっとアレンを見下ろし、最後に低く「何が」とだけ囁く。アレンは驚きを深めてしまった。言葉通りに受け取ったらそんな問いは出てこないはず。やっぱりこいつも分かっている。そんな確信に指先が触れた気がする。けれど、また脇道へ逸れようとするアレンの思考を笑み交じりのため息がすぐに引き戻してしまった。
「まあいいですよ。ボクの時間を投資するに値しますから」
読めない言葉の裏に眉を寄せたアレンを、夏準はまた力の抜けた笑みで馬鹿にする。やれやれという擬音が聞こえそうな仕草で優雅に椅子に戻って足を組んだ。少し身を乗り出してアレンを覗き込んでくる。
「アナタの曲の話です」
言っても言わなくても別に何も変わらないと思う。きっと俺もこいつも言葉のないところで分かっている。けれどそれがたまにひどくもどかしいとも思う。
問題でないのは、言っても言わなくても別に何も変わらないからだ。
いつもの催促「らしきもの」に応えてレコーディングに付き合ってやり、結局何通りか録ったものを真剣に聴き比べる横顔をただ眺める。彫の深い目元を強調する睫毛の下でワインレッドの瞳が忙しなく画面の上を行き来する。こうなった時のアレンの集中力には皮肉を半分込めて感心させられる。画面上のピアノロールやトラックをはみ出たところにもスコアが無数に広がっていて、夏準にも部屋の空気の中にそれが見えるような錯覚がする。反応の鈍くなった男の隣にただ座っているだけの時間の浪費が何故こうも楽しめるのか心底不思議だ。
見つめる先で瞼が一度ぱたりと往復し、ハッと息を呑んで喉が動く。その大したことのない動作にすら口元が緩む自分自身に呆れている。
「あ、悪い」
夏準を放り出して作業に没頭していたことに気づいたアレンが、慌てた様子で体ごとこちらを振り返った。気まずさを残したままの笑みをずいと押し出してくる。
「夏準はどうだった? やっぱりもう一回やった方が良かっただろ?」
音楽に触れていないと無気力にさえ見える涼しい目元に、今はこれでもかとばかり期待の輝きが溢れていた。その分かりやすい変化がやはり面白いし、いたずらにつついてしまいたくなる。
「さあ? どうでしょう」
両手を開いて見せた。想定外の反応のせいで、行き場のなくなった輝きが瞳の中でぐらぐら煮立っている。ただタフな男だから噴きこぼれることは滅多にない。そこも気に入っているところだ。
「ボクはいつでもベストパフォーマンスを出していますから。それを受け取る方が……どう扱うか、じゃないですか?」
一拍遅れて、妙な表情。思いもしない言葉をまず受け止めて、腑に落ちるまで考えてみて、そして言葉の裏に託すものを読み取った──手に取るように分かるのは、きっと夏準とアンくらいのものだろう。単純そうに見えて、不器用が人と繋ぐ道を複雑にしてしまうところがある損な男だ。
「でも」
おや、と思ったのは、そこで作業に戻ると思っていたからだ。今は一分一秒も曲に注ぎたいはず。しかし、アレンは一度迷うように伏せた目を戻した。笑みで少し細くなったワインレッドの目、その中央に夏準が据えられている。
「どう思ったかはその度違うはずだろ。俺たち、機械じゃないんだから」
いつもの期待や情熱に突き動かされる笑みとは違う笑み。普段あまり見ない、表現の難しい淡い表情だと思った。ついさっきまで手に取るように読めていたフロウが途切れて暈けている。
「夏準は、どう感じたんだ?」
けれど、こういうところも結局この男の「らしさ」だ。誰もを圧倒する才能とその自信の裏に、柔らかで壊れやすい何かを大事に抱えていて、それをそっと見せるようなことをする。いつからそんな奥深くに指先を導き入れられるようになったのか、そういう時にどう対処するのが正しいのか、夏準にはまだ分からない。
「聞かなくても分かるよ」
何も答えない夏準をどう誤解したのだろうか。一度申し訳なさそうに眉を下げたアレンは、すぐに茶化すような笑みを作って身を乗り出した。
「……って、思ってたいかな」
笑みがまたニッと口元を引き上げる無邪気なものに変わる。その、夏準のために一歩引く表情をただじっと眺めた。適当にあしらうつもりが、言葉を探した末に無様に名前を呼んでいる。「ん?」と、なんでもない様子でアレンが答えた。感情が焦燥とも怒りとも違う何かに揺れて心を波立てた。
「ありますよ、時々。思うこと」
思わず口にした内容に自分自身で呆れ、ひとつ諦めのため息を吐く。きょとんと目を丸めた呑気なアレンから白けた目を逸らした。
「次のバトルが終わったら。時間を取ってください」
「……いいけど。何するんだ?」
「何もしなくていいです」
目を再び戻せば、アレンもこちらを探るように見ている。しばらく探り合いの沈黙が合って、負けたのは珍しく夏準だった。ふ、と愉快と自嘲をブレンドした息が漏れる。
「ボクだけのことを考える時間が十分でも続けば」
ワインレッドの瞳がきゅっと丸くなった。その反応が意外だ。もう少し鈍い反応を予想していたが、どうやらアレンも分かっている。そんな確信に指先が触れた気がする。
「アレンには難しそうですけどね」
「……バカにしてるだろ」
「事実です」
からかって笑ってやる。それ以上深く掘り下げてアレンに何かを強いるつもりはない。言っても言わなくてもアレンという男の心根は変わらない。それでいいと思っている。それなのにそれが時折、ひどくもどかしいとも思う。