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Anchor me, never let go



 朱雀野アレンにはここのところ悩みがあった。
 が、それは驚くほどあっさりと解決してしまった──というか、そもそも悩む必要のないことだったらしい。

「ごめん!」

 バイトから帰ってくるなり、アンが迫真の表情で両肩を掴んできたので何かと思えば。煙草とアルコールの匂いが香水と混じり合って洗面台がクラブに早変わりした感覚になる。今日も目いっぱい客にボトルを空けさせたのだろう。多分少し酔いが回っている。声がでかい。深く気にせずに歯磨きを続行することに決めた。

「……なんだよ、いきなり」

 大きなステージをひとつ終え、曲作りの手はいつもより緩んでいる。つまり今こそ新たな曲のディグり時。あまり聞き込めていなかったレコードを引っ張り出したり、ネットで新曲をチェックしたり。気づけばうっかりアンが帰ってくる時間だ。

「もう耐えられないから言うね! ほんっとにごめん!!」
「またリリックノートか? それとも今度は曲のメモとか? いいよ、別に。頭にあるって」
「違うよ! っていうかそれはもういいでしょ! もう絶対しない!」

 リリックノートを鍋敷きにされるというあまりにガサツな事件がまた発生したのかと思ったが、どうやら違うらしい。アンは手先が器用だったり小物を細々整理したりするのが好きだったりするが、ちょっと意外なところでガサツだ。なんでもぽいぽい投げるので何か私物でも壊されたのかもれない……などと覚悟していたが。語られたのは全く別の衝撃の事実だった。

「はあぁ?」

 思わず腹の底から出た声が裏返ってしまう。謝罪のために合わせられた目が気まずそうに逃げていく。

「気づいて、ない?」
「うん、そうみたい」

 アンが白状したところによると、アレンが誰を好きになってしまったのか夏準は知らないというのだ。それどころか、アレンが誰かに好意を持っているということすら気づいてなかったらしい。どうせバレているのなら、とアンに口止めをしておかなかったことを今更後悔する。

 いや、だって。そんなことあるか?

 アレンやアンに対してさえ秘密主義。人を内側に入れることをうまく避けていて、長い付き合いでようやく時々ちょっと足を踏み入れせてくれるかどうか。そのはずだった。それがいつの間にか取っ払われてゼロになって、変に飾らずに笑ったり気を抜いたり遠慮なく触れてきたり逆に寄りかからせてくれたり。そういうもの全てを何も知らないでやっていたということになる。恐ろしすぎる。夏準にすっかり参っているファンたちの気持ちが今なら少しは分かりそうな気がする。

 しかし、アレンはそこでようやく気が付いた。
 夏準は変わったのだ。アンが言っていたみたいに。「近く」なった。

 あの日、アレンとアンは夏準の心の奥深くの柔らかく脆いところに「触れる」ことができたのだと思っていた。だがそれは同時に、夏準にとってはアレンとアンに「触れられた」出来事だった。分かっていたつもりで、そんな当たり前のことを全然理解できていなかった。全ては多分、気を許してくれていてのことだったんじゃないか。なのに、自分の感情を持て余していることを全部夏準になすりつけていた。もしかしたら、心のどこかではいっそバレてしまいたいという気持ちがあったのかもしれない。そんな自分の弱さが途端に恥ずかしくなる。

「そっか……俺、夏準に悪いことしてたかも」
「それは……もう、お互いさまでもいいかも……」

 そうだよ、気にし過ぎだってば、なんて返事を予想していたが、実際のアンの返事は複雑そうだ。誰かを探るために夏準が相手までは知らないことを口止めされていたらしい。夏準の考えそうなことだ。それでもやっぱり、「からかうつもりなんかない」という言葉を信じなかった自分が全面的に悪いと思う。

「アンの言う通りだよ。バレたならしょうがない。もうそれでいいよ。そもそも俺が自分からアンに話したんだし」
「アレン……」

 アンはとにかく自分らしくいるための信条を守りたいという気持ちが強いから、わざとではないとしてもアレンの秘密を打ち明けることになったのが気になるのだろう。そういう後ろ暗いところのない、まっすぐな芯がアンのいいところだ。ちょっと笑って口をゆすぐ。やっぱり歯を磨きながらでも聞ける話だったなと思う。夏準が素であれをやっているというのは相当な驚きではあるが。微笑みの貴公子は伊達じゃない。

「で? 結局誰? もういいでしょ」
「誰が言うかよ。散々振り回されたんだぞ」

 さっぱりしたところがアンのいいところでもあり、あっさり切り替えが終わるのが呆れるところでもあり。話が済んだ途端興味を隠さなくなったのにはさすがに苦笑する。洗面所を出て部屋に逃れようとするがアンは当然のように後を追ってきた。万が一にも夏準に聞こえないよう、リビングに入ってから口を開く。

「一生言う気なんか無いから、分からないままでいいんだよ」
「えー!? ホンットにそれでいいわけ!? アレンらしくないんじゃない? せっかくなら当たって砕けようよ!」
「砕ける前提かよ。他人事だと思って……」
「このままじゃつまんないじゃん!」
「それが本音だろ?」
「そうだけど……」
「おい」

 相手が誰か分からないからこそ言える言葉だ。実際は当たって砕けたんじゃ困る。アンだって相手を知ればそう言うに決まってる。夏準ならうまくかわしてくれそうな気もするが、アレン自身がうまく落としどころを見つけられるか100%の自信がない。自覚が無かった頃も含めば、それこそ出会ってからずっと抱えてきた想いだ。引きずっているところにステージが重なったら目も当てられない。

 そこに居てくれるなら、それでいい。アンに言ったのは心からの本心だった。夏準がアレンを見つけてくれなければあり得ない出会いだったことを思えば、それだけで奇跡みたいなものだ。ところが更に、これまででは考えられないくらい心を許す相手、その2席限定のVIPシートにアレンは座っているらしいことを知ってしまった。だったらもう、別にそれ以上のことを望む必要なんてない。

 もう俺は寝るぞ、おやすみ。話を切り上げるために上げた片手をぎゅっと握られた。思いのほか真剣な表情に困惑する。

「でもさ、僕、アレンなら絶対大丈夫だって思ってるんだ。アレンっていいやつだし。一緒に居て最っ高に楽しいし。顔もよく見たらカワイイし」
「フォローのつもりか? それ」
「真面目に言ってるんだって! ダメなら相手に見る目が無いだけなんだから、何かする前から諦めないでよ。動いてみなよ」

 別に諦めているわけじゃない。もう知っているだけだ。答えが分かっていることを自分の気を済ませるためだけにわざわざ言わなくてもいい。

「ありがとな。アン」

 ただ、アンらしい前向きな言葉は心に響くものがあった。YesともNoとも言わないアレンに不満そうではあったが、アンはそれ以上何も言わないでいてくれた。やや苦い笑みでおやすみが返される。

 こうして、アレンの最近の悩みはすっかり解消した。また一曲、BAEにマスターピースを重ねられたおかげか、元々曲が完成してからは妙に気分はスッキリしていたのだ。夏準にバレていないことまで分かれば文句ナシだ。もう何一つとして心配することなんてまったく無い。そう、そのはずだったのだが。

「……それで?」

 作業机のすぐ隣、長い脚を組んでベッドの端に腰掛けている夏準は、顎に指を添えて首を傾げた。たまたま動画サイトで見つけたマイナー曲の鋭いリリックを気分良く賞賛していたはずの口が、気づけば動かなくなっている。

「アレン? 続きをどうぞ?」
「いや……なんか、珍しいな。普段はこんなに付き合わないだろ?」

 久々にガッツリ曲をディグっていると夕食の時に話したのだが、それなら自分も付き合いたいと夏準が部屋を訪ねてきた。まずそこから普段にはない展開だったものの、HIPHOPについて語れるという嬉しさが先に来て何も考えずに歓迎していた。ディグりながら自分用に作ったミックステープを聴かせたり、不当に埋もれている名曲を引っ張り出してきたり。それはもう楽しかったが、ふと意識してしまったのだ。夏準がずっとアレンを眺めていることを。

「彼を知り己を知れば百戦殆からず、でしょう? 最近の傾向を知るならアレンを使い倒すのが一番じゃないですか」
「はは……使い倒すって……」
「便利なHIPHOPオタクが居てありがたいです」

 夏準の目が細くなる。いつものようにからかわれているのに、声も目も柔らかい気がした。これが「触れられた」夏準の距離なのか。早いとこ慣れていかないと、うまく言えないが何かがまずい気がする。なんとなく胸のあたりが居心地悪い。トレーナーを軽く撫でつける。

「えーっと……それじゃ、続き……どこまで話したっけ」
「手に触れてもいいですか?」
「は!?」

 パソコンに戻した目をまた勢い良く夏準に戻してしまった。思わず転げ出た大声に夏準が眉根を寄せて目を丸くしている。だが、これはしょうがなかったはずだ。絶対に今の話の流れじゃあり得ない提案だろう。

「無断で触れたのは悪かったと思っています。だから許可を取りました」

 それが何か、と副音声が聞こえてくる。まるで北の反対は南ですよね? みたいな常識を語っているトーンだ。落ち着け、これが夏準の素。気を許してくれている姿。波立つ心を抑えようと必死に努力する。

「別に……いいけど……はい」
「ふふ、はい」

 ぶっきらぼうに差し出した左手を、夏準はどこか楽しそうに受け取った。アレンの手を自分の手に乗せ、骨董品でも鑑定しているみたいに角度を少し変えて眺めている。いや、気を許してるにしても意味分かんないだろ。何だこれ。何がしたいんだこいつ。もういいだろ。口を開こうとしたところ、それより先に夏準の指が動いた。手のひらをくすぐるように撫でたかと思えば、するりと指の間に長い指が差し込まれる。ぎょっと目を剥くも、咄嗟に何を言えばいいか分からない。触れるリングが冷たい。指が絡まれた右手も、後から添えられた左手も、アレンの手の形を丁寧に確かめるように動いている。嫌でも不快でもない。ただ、何か良くないものを呼び起こしそうな気がして、それを必死に無視しているせいでうまく反応が返せない。クス、と夏準がまた小さく笑った。

「指先、少し硬いですね」

 指の腹をじゃれつくように撫でられている。寝食以外のほとんどの時間、弦を押さえていた名残だろうか。なんだかその過去ごと撫でられた気がして堪らなくなった。とうとう音を上げる。

「は、夏準」
「なんでしょう」
「いや……」

 今度こそ何かからかっているんだろう、そう問い質してやるつもりだったのに、普段通りの表情に何も言えなくなる。これぐらいのことは普通だと思ってやっているように見えた。
 落ち着け、自分に言い聞かせる。別に説得する必要はないのだ。強い力で摑まえられているわけでもない。これまでにないことが起きているのは確かなのだから、何やってるんだよ、と呆れながら手を引き抜けばいい。だがどうしてかそれができない。よく手入れされた長い指の感触が心地良く指に添う。

「……ふうん?」

 気まずい沈黙がいくらか流れ、夏準が笑みを少し伏せた。探るような指の動きが止まり、代わりに指の間に差し込まれた指にぎゅっと力がこもって握られる。それだけのことに心臓が跳ねた。顔色を変えないことに苦心する。

「悪くないですね」
「何が」
「たまにこうして、触れてもいいでしょう?」
「な」

 いつかのようにまたきゅっと喉が閉まってしまった。その度にこんな風に感情やら心臓やら表情やら衝動やらあらゆるものを修行僧みたいに必死に捨てないといけないのだろうか。しかしそんな葛藤を夏準に知られるわけにはいかないし、それ以前に何故だか嫌だという気持ちになれないでいる。無理やり無視している胸の裏で何かが勝手に浮ついていた。

「……なんで」
「アンは何故、なんて聞いてきたことありませんけどねえ」

 突然出てきたアンの名前に不意を突かれ、そして少しだけ落ち着けた。なるほど、これも夏準の変わったところの一つ。燕夏準が心を許したらこうなるということだ。正直心臓に悪すぎる。アンと自分以外に簡単に心を許さないでほしいと思ってしまう。誓って邪な気持ちじゃない。死人が出ることを真剣に心配している。既にこれに順応しているらしいアンを尊敬してしまいそうだ。

「ボクにとっては特別なんです。アンの手と、この手が」

 うまく返す言葉を決めきれないアレンに焦れたのか、夏準は苦笑を浮かべた。そして繋いだ手を軽く引き、アレンに身を乗り出させる。アレン、いつもとは違う甘さのある響き。もう一度呼ばれたくなるくらい心地良く耳に響く。

「だめ、ですか?」

 近くなった顔を覗き込まれた。心の距離どころか物理的にも物凄く近い。それだけのことに情けないくらい思考を溶かされている──だめだ。よく分からないけどこのまま流されたら多分だめだ。

 夏準の言葉をなんとか理性で遡る。夏準を失いたくないというアレンとアンの気持ちがしっかり伝わったからこそ、夏準はこうして手を繋いでいたい、そういうことだろう。その嬉しい変化をアレンにしか分からない事情で否定したくない。ちょっと普通じゃないとは思うし、なんなんだよこの状況とは思うが、普通である必要なんてない。それこそがBAEだ。夏準が目に見える形で信頼を欲しがっているなら惜しみなく与えてやりたいと思う。それも本心。大丈夫、すぐに慣れるはず。

「うん、まあ、手くらいなら……?」
「それは良かった。고마워요?」
「いや、はは……」

 微笑む夏準にほっとする。これで良かったんだよな。大丈夫大丈夫。自分に言い聞かせていると、ああ、そうだ──機嫌良さげな笑みのまま夏準がのんびりと呟いた。

「タダで、なんて言いませんよ。このボクが」

 あれだけ扱いが難しかった指がいとも簡単に離れていき呆気に取られてしまう。思わず追いかけるように指が動いてしまった。手を開いたり閉じたりしてごまかす。何を考えているのか夏準はまた鼻先で笑って、ポケットから小さなチューブを取り出した。シンプルなパッケージから読み取れるのは、いかにも夏準好みのオーガニックそうなハンドクリームということだ。

 溶かされた思考が未だに固まり切っていない内に、夏準はクリームを押し出し自分の手のひらに広げた。アレンの左手をまた持ち上げ、遠慮ゼロで指を絡めてくる。しっとりしたクリームの感触がわずかな熱と共に肌へ塗り込まれていくことに何とも言えない気持ちになった。表情に困る。

「アレンも少しはこういうことに気を配ったほうがいいですよ。人前に立つんですから」
「そ……う、かもな」

 そうなのか? 楽曲にもパフォーマンスにも手の保湿具合が関係あるとは思えない。普段はグローブも付けているし。返せる言葉は無限にあるはずなのに、ただ俯く夏準の伏せられた睫毛と、その下にある親しげな瞳の色を眺めていた。指の感触に体中の全神経が集中する。良くない熱が体の奥で蠢いていることには決して気づかない。気づいていない。気づいてないって言ってるだろ。

「うわのそら」

 ふと夏準が顔を上げた。夏準も身を乗り出しているので鼻先がごく近くにある。愉快そうに目が細くなって、何故かまた心臓が悪い動き方をする。

「何を考えてるんですか?」
「……何も」
「そうですか?」

 お前のこと以外考えるか? この状況で。思いっきり責め立ててやりたい気持ちにもなったが、結局やっぱり言えるわけもない。黙ってされるがまま、夏準の気が済むまで手を触れられていた。

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